三題噺をおひとつ

岡本紗矢子

いつまでも、あなたと。【恋・マスク・毛布】

 まだ閉じているまぶたの向こうに、明かりを感じた。


 ああ、朝か……。顔に落ちる日の光を、私は腕で遮る。わかっている、時計はもういい時間を示しているはずだ。ベッドを出て、身支度して食事して、バッグを抱えて駅まで走り始めるまでを30分でこなさないと、電車に間に合わないくらいの――。


 だけど、私は起きなかった。代わりに半分だけ寝返りを打って朝日を避けた。


「……起きたくない」


 大好きな彼に顔をうずめながらつぶやいた言葉は、もしかしたら、とても甘い響きを帯びていたかもしれない。


 彼は苦笑した、ような気がする。「もう時間だろ? 起きなきゃ」と、困ったように促されたような気もする。私はそれにあらがって、ふるふると首を振った。


「あなたと一緒にいたい」


 拒まれるのは嫌だから、急いで続ける。


「いいでしょ、お願い。もうちょっとだけ」


 私は恋人を抱きしめる。やわらかな安心感が身体中に満ちる。


「ねぇ……あなたと一緒に暮らすようになって、もう2ヶ月だよね。2月にあなたと出会うまで、私は、いつも凍えているみたいだった……だけど、一緒に暮らし出したらそんな寒さなんてふっとんで」


 私は微笑む。


「春が、早く来たみたいな気がした」


 一番幸せな笑み――。


「そのときから今日まで……そうなの。毎日毎日、あなたと一緒にいられるのが嬉しくてたまらないの。出かけたら早く帰りたくてしょうがないし、帰ってきたら、まっさきにあなたに飛び込みたくなる。あなたはいつも待っていてくれる。もう、あなたしか、私の癒しにはなれない」


 恋人は静かに私の言葉を受け止めている。

 私はそっと彼を撫でた。


「でもね、私、今から心配なの。私たちが一緒にいられるのは夏までだもの……でも、私、自信がないの。そうなったら誰が私を受け止めてくれるんだろう。心配で、しんぱいで、泣きたいくらい――どうかしてるよね。本当にどうかしてるよね」


 部屋に急に暗い影が差したのはそのときだった。何かが窓とベッドの間に立ちふさがったのだ。


「……ほんとにどうかしてるよ」


 いきなり伸びてきた手が、私の恋人をぐっとつかみあげる。あっという間に恋人はひっぺがされ、一瞬宙に舞い広がったが、すぐに力なく床に落ちた。


「ちょっとー! 部屋に入るの反則よ!」

「茶番劇が外にダダ漏れだからでしょ。毎朝それを聞かされるこっちの身にもなってよ」


 とろけるような至福の時間をぶち壊したのは、この春からルームシェアすることになった友人だ。彼女は床の上の「恋人」――大好きな大好きな私の毛布には目もくれず、仁王立ちで私をにらみ下ろしている。


「いいかげん起きなさいよ、またメイクもしないで会社に駆けこむ気なの? あんたの女子力のなさもだらしなさも、あたし見ていてイライラするんだけど!」

「えー。だってマスクしとけばメイクなんてわかんないじゃない……それに、私がメイクしようがしなかろうが、ただのルームメイトのあんたに関係ないでしょ。だいたいさ、なんで女だけメイクしなくちゃなんないの? そんなもんする時間あったら、この毛布と一緒に少しでも長く寝ていたいんだけど」

「あのね、メイクって女子としてフツーだから。それをしないで毛布を恋人扱いして、毎朝ギリまで寝てるって重症だから」

「いいじゃない、そっちに迷惑かけてないもん。共用部分の掃除とかはちゃんとしてるでしょ」

「そういう問題じゃないの。その毛布があなたをダメ人間にしてるなら、あたしはルームメイトとしてそれを捨てる選択をしようと思うんだけど、いい?」

「……。だめ」


 私は急いでベッドを下り、床の上の毛布をしっかりとかき抱いた。


「だめだめだめ。それまで古い毛布で寒さに耐えてたのに、これに買い替えてみたら、もう天国みたいなんだもん。そりゃちょっと私の給料じゃ高かったけど、もう、この毛布様との2月の出会いには、感謝してもしきれない」

「……。ねえ、その毛布、ほんとは妖怪だったりとかしない?」

「あ、そうね、そうかもね。きっと、私が毛布に恋してるんじゃなくて毛布が私に恋してるのよ。ああ、そうだ、だから“彼”は私をぎりぎりまで眠らせて、メイクの時間も与えずに、私に現実の恋人ができないように妨害してるのよ! うん、そうそう、きっとそうよ、ねぇ、そう思うでしょ?」


 顔を上げたら彼女はいなかった。「私、先に出るね」という呆れたような声が、そういえばさっき聞こえたような聞こえないような。


 急に古い時計のカチコチいう音が耳につき始めた。そろそろ本当に時間がないけど、急いで出ればなんとかなる。私は最愛の毛布をひとなでし、一行動1分の配分で顔を洗って着替えをし、パンとコーヒーだけの朝食をつめこんだ。

 メイクくらいしろとルームメイトはうるさいが、この世には毛布様の次に愛しいマスク様――顔半分を覆ってくれるありがたいお方がいてくださるから、そんなものはパス。箱から新しいマスクを一枚引っ張りだし、走って玄関に向かいかけたとき、さっきの言葉がふと脳裏にこだました。


――女子としてフツーのことしないで毛布を恋人扱いするなんて……


「ふんだ。別にいいじゃない」


 寝るときは快適に過ごしたい、その快適な寝床にはなるべく長くいたい。それのどこがおかしい。メイクが女子のフツーというのであれば、私の欲求は人間のサガじゃないか。どっちかといえば「人間のサガ」の方が「女子のフツー」より上だろうに。


 そうだ! そうなのよ。毛布に恋して、何が悪いーー!


 私は声を大にしてそう言ったつもりだったが、口から漏れ出た言葉は、なぜかまったく別だった。


「……彼氏欲しい」


 ……。あれ?


 いいや、違う。これは断じて本音ではない。私には毛布様がいればいい。あたたかく包んでくれる彼がいれば、他には何も。本当に何も……


 本当なんだってば。

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