第24話 巨匠のレッスン

ベートーヴェンのピアノソナタ「田園」の第2楽章。

中間部まで演奏が進んだところで、男性の「Thank you」という言葉が聞こえた。


演奏を止め、横にいるロンバルディ教授を見る。


「この第2楽章の調性は何でしょう?」

圭吾さんが、通訳を始める。


d mollデーモールです」

「Yes!」


d mollデーモールは、日本語でニ短調のこと。でも調性をドイツ語で答えたら、圭吾さんが訳すこともなく、ロンバルディ教授が深く頷きポンと手を合わせて鳴らした。


「ボン・ボン・ボン・ボン…」


冒頭の左手の伴奏部分を、ボンボン言いながら弾き始める。


さっきまで、内心『エロジジイ』くらいに思っていたこのイタリア人は、左手のこの伴奏部分を魔法のように、それはそれは美しく、そこだけベートーヴェンの世界を作り出していく。


これが…巨匠と呼ばれる人間の作る音…


d mollデーモールで何か思い浮かべる曲はありますか?」


BachバッハInventionインベンション No.4…」


「Good job!」


巨匠は笑顔だ。


「そう、インヴェンションの4番は、d mollデーモールのスケールをとても上手く使っていますね。導音のcisを1オクターブ下げることで、何か不気味さまで醸し出しているような…」


圭吾さんが、通訳を続けてくれる。

そう、インヴェンション4番は、ははるか先生とのレッスンでd mollデーモールを強く意識づけるものだった。


「あと、同じバッハなら、トッカータとフーガ。これもニ短調の名曲だと思います」


話しながら、ロンバルディ教授は冒頭部分を演奏してくれる。


「また、ピアニストであればぜひこの曲もニ短調の名曲として意識しておくとよいかもしれません」


次に演奏されたのは、ショパンのポロネーズ。


「知っていますか?第8番のポロネーズですね」


さらさらと演奏されていく。


「どれも、なにかseriousであったり、ええと…somber…」


「厳粛」

はるか先生が、言葉が詰まる圭吾さんの助け船を出す。


「そう、厳粛なイメージを持つ曲が多いように私は感じます。それでは、この第2楽章はどうでしょう」


僕はもう一度冒頭部分を演奏するようジェスチャーされる。


「そう、導音や、半音、そして4小節目の左手の全音の下がり方も、とても良くなっている。調性というものにもう少し意識を持って演奏することで、君の演奏はより良いものになるでしょう。


ところで君はこの田園、全楽章、学んでいますか?」


「はい」


「それは、とても大切なことです。そう、きっとそこにいる、あなたの…」


圭吾さんが一度言葉を切る


「あなたの先生が、全楽章学ぶことを勧めたのだと思います」


さすがに、どうして圭吾さんが一度言葉を切ったのか、英語に疎い僕でも分かった。

ロンバルディ教授の英語では、「beautiful woman」という単語が聞こえていたからだ。


「ということは、もちろん、第2楽章以外の調性は分かっていますね」

「Yes, D durデードゥア


「その通りです、同主調である D durデードゥアです。こう考えると、第2楽章のd mollデーモールをいかに表現できるか、君の考えがさらに固まることでしょう。

また中間部は、大変美しく楽しく演奏できています。何かイメージを持っていますか?」


「鳥のさえずりのような…」


「素晴らしいですね。今のままでも十分良いのですが、もっと楽しんで演奏してみてもよいと思います。例えばこのように」


さらっと演奏される、ロンバルディ教授のその部分は、まさしく小鳥がピアノの上を飛んでいるような音色がした。


「どうでしょう、一緒にその部分を演奏してみましょうか。ワン・ツー」


促され一緒に演奏する。

横から響きだされる巨匠の響き…


なんて美しいのだろう。


「ええ、私たちの鳥のさえずりが、少しずつ似てきましたね。もう少し粒を出してもいいでしょう」


演奏しながら、アドバイスが飛んでくる。


なんということだ。

こんな美しい鳥のさえずりを奏でる人物が、エロジジイ。

しかし、こんな音色を出されては尊敬せざるを得ない。


音楽とは不思議なものだな、と思いながら、僕は巨匠の音色に引きずられるように音を奏でた。

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