第20話 コンクール本選ーもう一人の住人

いよいよ、僕の舞台が始まった。

演奏する曲は高校受験前の、ピアノを休む前に決めていたものだ。


高校受験に合格したら、すぐピアノに戻りたい。だから6月にあるコンクールに演奏する曲を選んでほしいと言ったら、はるか先生は嬉しそうにしてくれた。


僕はピアノをやめるつもりなんて1ミリもなかったから、当然と思って相談したけど、ピアノは小学校まで、中学校までなど、進学するごとにやめていく人が多い。

小学校の頃は一緒にコンクールに出ていた教室の友達も、どんどんいなくなって気付けば高校生男子は僕ひとりだけだ。


かく言う、兄のツヨシも高校受験の準備に追われる中学3年の秋でピアノをやめていた。


今日演奏するベートーヴェンのピアノソナタ「田園」はその時に選曲されていたもの。

「田園」とされているが、初稿の時には「田園」と記載されていなかったから、ベートーヴェン自身が名づけたものではないと言われている。


演奏するのは第1楽章。

冒頭の保続音は、ことあるごとに曲の中で再現されて、それが素朴な田園らしさを醸し出す。


ここは、田園の中の小さな家。

ピアノの鍵盤に静かに指を置く。


『集中して…主音のDを、心地よいリズムを刻むティンパニのように、そしてその上に響くのが、ドミナントのA。動きを感じながらも調和を大切に』


小さな家の、もう一人の住人が優しく話しかけてくる。


穏やかな生活。のどかな田園風景。

僕たちはグランドピアノを囲んで、弾いたり、語らいあったり。もちろんお気に入りのコーヒーも一緒だ。


なんと愛おしい時間だろう。すべてが温かく宝物のような世界…


『ティンパニの保続音は、すごく長く続いているよ。忘れないであげて』


新しいモティーフに展開されていく中でも、保続音は続く。


「ねぇ、外に出ようよ!」


そう言って、住人は僕の手を取りドアに駆け出す。

まるで引っ張っていかれるようにドアの前まで来ると、住人は勢いよく、思いっきり家の扉を開けるんだ。


「え…」


温かい手に握られながら、そこに見えたのは、青い空と、透き通った海だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る