第15話 大海原

「この曲、田園なんだけど…」


今日ははるか先生のレッスン。

そろそろ本選の追い込みだ。


もちろん、曲のタイトルは分かっている。

ベートーヴェンのピアノソナタ「田園」だ。


「田園ってタイトルは、ベートーヴェンの亡くなった後につけられたもので、ベートーヴェンが意図していものではないにせよ、ニ長調で書かれているし、のどか~な田園風景をイメージしていいと思うのよ」


「はい」

「ね、田園って見たことある?」

「多分…」

「多分、かぁ。じゃあ、のどかな風景ってどんなの?ちょっと想像してみよう」


僕が今演奏している田園は、はるか先生に言わせると田園ではないらしい。

地方に住んではいるけど、のどかな田園風景と言われても、どんなものなのか…


「ええと、今、タケルくんはちっちゃくて可愛らしい家にいます」


想像した方がいいのかな、ここはレッスン室じゃなくて、ちっちゃな家。

目を瞑ってみる。


「素朴な家です。誰と住んでいるのかな?君の好きな人と二人?」


ふわっと、僕の左手が握られる。


「ほら、その人と笑顔で手を繋いで二人でドアを開けると…そこには」


繋がれた手にびっくりしたけど、そんな態度を見せれば、手を離されてしまうだろう。

平静、とにかく平静を装うのだ。


「あ、ごめん、話に熱が入り過ぎた」


ふと我に返ったはるか先生が、笑いながら手を離そうとする。

僕は繋がれた手を離したくなくて、少しだけ力を入れた。


離れない手。


「……タケルくん?」


目を瞑ったまま、はるか先生の言う「田園」を描こうとした。


あなたと一緒に住んでいる家、そこからドアを開けると…




ああ、僕には田園ではなく雄大な大海原が見える。

振り返ると、先生が茶目っ気たっぷりの笑顔で


『泳いじゃう?』



その顔に心まで綻んだ気がして、僕は手に入れていた力を緩める。

するするとはるか先生の手は離れ、先生は僕に聞いた。


「何が見えた?」

「田園というか、大海原のような…」

「は~?!田園じゃないの?一体どこに行ってたんだ、タケルくん!!」


どうやらこれではダメらしい。

本選まで、レッスンは残り1回。

田園、仕上がるのかな。

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