第31話 コンクール予選ー舞台

僕の級の予選が始まった。

最初に演奏する女子が舞台へと進み、演奏を始める。


僕は2番目の演奏。鼓動はまだおさまらない。

最初に演奏している人は、ミスなく演奏を進めていた。うん、悪くないな。


前の演奏者が調子を崩すと、僕も少なからずメンタルに影響を受ける。上手に弾いている、うん、大丈夫。


2曲を弾き終え、いよいよ僕の出番だ。


あれだけ跳びはねていた鼓動はなぜか落ち着いていた。


『タケルくん、ここまで来たら潔く腹をくくれ!』


はるか先生に小さい頃よく言われていた言葉をふと思い出した。

舞台袖で固まっている僕に笑顔で時代劇のヒーローみたいに話しかけるのだ。


そうか、はるか先生、僕は今、腹をくくっているのかもしれません。


右足からライトに照らされた舞台へと歩みを進めた。


ピアノの前で挨拶をし、客席をふと見ると、左手側の後方席にはるか先生が見えた。

いつも通り。大丈夫。


バッハの平均律、プレリュードの最初の音をテヌート気味に始めた。最後のレッスンで手直ししたところだ。

リズミカルに、どんどんと展開していく。僕は気を抜くと重たく音楽を作ってしまうクセがある。

集中して、リズムを楽しみ、次はどんな風に繋がっていくのだろう、といつも音楽を楽しむこと。


『弾くたびに、新しく発見できるように』


『繰り返されるゼクエンツ、4回目もドキドキ感を忘れないで』


レッスンでの先生の声が思い出される。


ああ、ここは左手をもっと歌わせないと…今朝、何度も練習したところだ。


一変、フーガは厳しい音でスタート。


『バッハの平均律2巻を締めくくるこのフーガは、ジーグのように演奏するのもいいと思う。バッハはあらゆる組曲で、最後にジーグを持ってきている。締めくくりはジーグなのよ』


『荘厳に終わらせるようでいて、3声で作られたこのフーガはそれを許さない気がする。最後も驚くほど、あっさり終わっている。まるで疾走するジーグの作りとして解釈するのも有りなのかな』


そう、この曲はピアノの旧約聖書とも呼ばれる平均律クラヴィーア曲集の一番最後の曲。どう解釈して、演奏に落とし込むかは演奏者次第ーーーそう、つまり僕次第だ。


どこか厳しい音色で、リズムをはっきりと演奏させながらも、8分の3の拍子感も考え、テンポは落とすことなく若干速めに、3声で書かれたフーガではあるけれども、舞曲であるジーグらしく駆け抜ける。


バッハを演奏し終え、ラフマニノフのために呼吸を整えた。


左手のみを鍵盤に置き、弾き始めた。

右手の入るタイミングは、僕のお気に入りだ。

どこかメランコリーなそのメロディー。美しく、強いそのメロディーはラフマニノフの持つ音楽そのものだ。


『中間部、演奏することだけに集中しないで、自分の奏でている音によく耳を澄ませて。音はどうやって混ざり合ってる?』


どこまでも切ないメロディー。低音も高音も。


まるで届くことのない、僕のはるか先生への気持ちのようだーーー


ラフマニノフは一体どんな気持ちでこの曲を作り上げたのだろう。僕は、この曲を弾くたびに、深い深い迷路に迷いこんでいくような、出口はどこだろうとあがき続けるような、そんな気持ちになる。


今日はいつもより深い迷路だ。

ホールに響き渡る音色は、一層深い迷路を作り出す。


こんなに優美な世界であるなら、このまま迷い込んでいてもいいのかもしれない。

これでいいじゃないか。

僕の気持ちだって、このまま胸のうちにしまい込んでおけばいい。


救いのない美しい世界のまま終わる。

最後の音が響いているのを聴きながら、フッと指を鍵盤から離した。


ああ、ラフマニノフを弾き終えた。

弾き終えたんだ。

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