第30話 コンクール予選ー舞台袖

6月23日。コンクールの予選日だ。

今日の演奏は午後3時半くらいから。ゆっくり寝ておきたかったが、緊張からあまり深くは眠れず、8時には目が醒めてしまった。


食パンをトースターに入れ、適当に朝食を済ませる。

軽く食べて、ピアノに向かうためだ。満腹にしては集中力が途切れる。


先生はそろそろ会場入りしているだろう。小さい子の級は午前中に組まれていた。


早く食べてピアノを弾こう。考えているより弾いた方が気が楽になるはずだ。

コンクール前はいつも不安だ。不安を消し去るには、ピアノを弾くのが一番有効なことが分かっていた。


12時まで弾いてから、参加票と楽譜を持って家を出た。途中のコンビニでゼリー飲料を大量に買い込む。

これを1時間ごとに飲む。

飽きるから、味や効果が異なるものを取り揃えた。

そう、緊張で昼食は喉を通らないことは分かっていた。しかし体力がなくてはピアノも弾けない。こんな時はいつもゼリー飲料だ。


コンクールが終わったら肉だ、肉を食べよう。

きっとお母さんは分かっていて、今日の夕食はステーキのはずだ。


ホール会場には早めに着いて、イヤホンをして音楽に集中した。まだ小学5、6年の級が演奏しているせいか、ホワイエはガヤガヤとしている。しかし僕の級が始まれば、きっと一転静まり返ることだろう。


「タ…タケル…」


陸郎が僕を見つけて話しかけてきた。

「やべえ、こんな緊張するもんなの。なんか俺こういうの初めてでドキドキが止まらないんだけど」


「え、ホールにも入ってないのに…?」


「や、だってあっちの方、女子はみんなドレスじゃん、お、お前だってスーツだし。革靴だし」


「普通だよ」


「フツー?何が普通なの。俺、制服で来たよ。服装も聞いていけばよかった」


「いや、お前は制服で正解。演奏するわけでもないのに、スーツ着てどーすんの」


「そ、そういうもんか。なら良かったけど。もう良く分かんないけど、ホールに入っておくからな」


「うん」


受付時間になったので、受付を済ませると、髪をアップにしてドレス姿の絹さんがいた。


「タケルくんの方が演奏順が前だったね」

「そうだね」

「お互い、いい演奏を!」

「うん」


先生はどこだろう?見回すけど、それらしい人は見当たらない。

太一くんの演奏と重なったかな。

僕は、演奏順が前の方だったため、もう舞台袖に行かなくてはならない。


舞台袖には演奏者が4名ほど集まっていて、それぞれにイスが割り振られた。その中には絹さんもいて、僕以外は全員女子だった。

早速僕は座って、時間を惜しむように楽譜を見ながら曲に集中し始めた。

舞台袖の緊張感は久しぶりだ。高校受験前の10月に受けたコンクール以来だろうか。

ピーンと張り詰めた空気、それぞれがめくる楽譜や、指を動かす音。


薄暗い照明の下で、自分との闘いが既に始まっていた。


そんなところに、舞台袖に靴音を鳴らさないよう入ってきた女性ーーー


はるか先生だった。


舞台袖担当の先生とは知り合いなのだろう。軽く会釈をして、僕を指さして何か話してから、歩み寄ってきた。


「タケルくん、遅くなってごめん。ホールで聴いてるからね。君らしい演奏してね」

こっそり僕の耳元ではるか先生が話した。


僕は目を合わせることなく、楽譜を見つめながらうなづいた。

はるか先生が、舞台袖からそーっと出ていく気配を感じながら、僕の鼓動は跳びはねるにように速くなる。


この鼓動は、いよいよ舞台で演奏する緊張感のせいだと、自分に強く言い聞かせた。

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