第29話 コンクール予選前
今日はコンクール予選前の最後のレッスン。
先生は、ピアノから少し離れたテーブルに楽譜を広げ、僕は暗譜で予選曲2曲を通しで演奏する。
まずはバッハの平均律2巻24番から。
プレリュードは、流れよくリズミカルな部分に気をつけながら…そしてフーガ。少し厳しい音で入っていく。
2曲目のラフマニノフ。
暗譜で大きなミスなく弾き終えた。コンクール前になると、メンタル負けして暗譜でミスをすることも多いから、ホッと一息したところで
「もう明後日本番だから、あんまり変えられないけど、何ヶ所か手直ししておいた方がいいと思うよ」
はるか先生の容赦ない手直し発言。
「まぁ、悪くないんだけどね、本番を弾くまで諦めちゃだめよ、このくらいでいいだろう、と思ったら、人間の成長はそこで止まるんだからね」
手直しという割には、端から端までダメ出しされている気分だった。
レッスンが終わったところで、
「タケルくん、ロシアってどんなところだと思う?」
楽譜をカバンに入れている僕に、はるか先生が話しかけてきた。
「ゴールデンウィーク、駅で会ったじゃない?実はあの時、ロシアに行ってきたのよ」
「遠くないですか」
唖然とした。ロシアって遠いし、ゴールデンウィークの半ばから向かって、レッスンが始まるまでに帰ってくるとなると、4日くらいしかなかったはずだ。
「言うことがさすが高校生だね~でもね。ロシアって言っても、このへん!」
はるか先生はレッスン室に入ってある世界地図を指さした。
「ウラジオストク…」
「そ、日本に一番近いロシア!まぁ、実際にラフマニノフが住んだ地とは遠いわけだけど、少しでもラフマニノフに近づけたということで。見てみて、写真!雰囲気がやっぱり違うのよ~」
スマホに入っている写真を何枚かみせてもらった。
先生がゴールデンウィークにどこに行ったか、気にはなっていたけど、僕からはどうしても聞けなかった。ラフマニノフを通して、はるか先生のプライベートが覗けるなんて、と嬉しく思いながら、ふと
写真のアングルが気になった。
ウラジオストク駅前で笑う、はるか先生。
誰かが一緒だ。
そりゃそうだ。女性が一人で海外旅行に行くのは珍しくはないものの、やはり一人では何かあった時に心配だ。
「あ、この日は一人でね、ロシア正教会を見に行ってね」
つまり、一人の日と一人じゃない日があるわけか。
先生の旅の動向が気になって、写真があまり入ってこない。
「ロシアらしさ、少しは感じられた?」
一通り写真を僕に見せた後に聞かれて、僕は静かに「はい」とつぶやいた。
先生が誰と一緒にいたのか、そればかり気にしていて、写真の内容はあまり残っていない。だめな生徒だ。
「そ。良かった」
はるか先生は笑顔でそう言って、コンクールの受付時間を確認してきた。
「太一くんの演奏と重ならなければ、受付時間に一度顔出すね」
僕の級の前の審査は、小5の太一君の級だ。先生は朝からホールにカンヅメかな。
「あと少し、踏ん張って頑張ってください」
「はい」
さぁ、いよいよ予選が始まる。邪念は消し去って、集中しなければ。
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