10、「姫ちゃん」っていうのは昔の呼び方で


 俺が叫ぶと、乗客の注意が一斉にこっちを向いた。春姫に痴漢をしていた男はサッと手を引っ込めて逃げ出した。


「待てよ!」


 男を追いかける。


 しかし運悪く、電車はホームに到着するところだった。

 男はスルスルと乗客の隙間を抜けてホームへと飛び出した。そのあとを追いかけると、もうすでに階段を駆け上がっているところだった。


「そいつ痴漢だ! 誰か捕まえてくれ!」


 近くにいた駅員が慌てて、取り押さえようとする。だが男も器用で、するりと駅員を避けると、一段飛ばしで上まで走っていた。俺が階段を上がり終わった時には、すでに男の姿は見えなくなっていた。


「……くそっ」


 捕まえられなかった。


 肩を落として振り向くと、後ろから春姫が追いかけてきていた。


「テッちゃん……」


「春姫、大丈夫か」


「うん。ちょっと怖かったけど……何ともないよ」


 やや恐怖に怯えた顔で春姫は言った。「何ともない」と言っていたが、知らない誰かに身体をまさぐられることが不快でないはずがない。


 気丈きじょうに笑う春姫の顔は、さっきまでの笑顔とは違っていた。


「君たち、ちょっと良いかな」


 追いかけてきた駅員が、俺たちに声をかけてくる。どうやら事情を聞きたいらしかった。


 春姫と顔を見合わせて、うなずく。


 一通りの事情を話していると、軽く一時間くらいはかかってしまっていた。どうやらさっきの男は常習犯だったらしい。


「ごめんね、わたしのせいでテッちゃんも遅刻だね」


 一時間遅れで学校の最寄駅に着くと、春姫は申し訳なさそうに言った。


「悪いのは痴漢男だろ」


「……そうだけど」


「問題ない。俺、真面目だから一回くらい遅刻しても、何の問題もないし」


 俺がそう言うと、春姫はふふと可笑しそうに微笑んで、口を開いた。


「嘘つき。しょっちゅう遅刻してくるくせに」 


 すこし緊張が解けたのか、春姫はいつもの穏やかな顔に戻った。


「あぁ、怖かった」


「いつもはこんなことないんだよな」


「うん、朝練の時間はそんなに電車混んでないから」


 誰もいない校庭の前に立って、通用門のドアに手をかける。それを引いて開けようとすると、春姫は後ろから声をかけた。


「あの……さっきはありがとう」


 頬を赤く染めて、春姫は言った。

 その雰囲気はいつもと違っていて、何かを言いたげに、だが肝心なことを言わないような感じで、口をモゴモゴとさせていた。


「春姫?」


「ううん。なんでもないの」


 首を横に振った春姫は、思い悩むような表情だった。


「早く気がついてあげられなくて、ごめんな」


「でも助けてくれた……やっぱりテッちゃんは格好良いね」


 ……それってさ、どう言う意味? 

 思わず口をついて出ようとした言葉を止める。さっきあんなことがあった後で聞くべきことじゃない。


 俺は感情を飲み込んで、違う言葉を探した。


「……今度からあの時間帯の電車には乗らない方が良いな」


「心配してくれて、ありがと」


 何でもないように春姫は頷いた。

 その後、教室に戻ると若干クラスがざわついた。二時限目から連れ立って現れた二人に、何かあったのかとヒソヒソ話しているのが聞こえてきた。


「……どうしたの、あの二人」


 しまった。

 登校時間をずらすなりすれば良かった。こんな形で登校してきたら、誰だって怪しむに決まっている。


 案の定、後ろの席の福男は身を乗り出して、俺に言った。


「テツ殿。これは……」


「いや……別に何もねぇよ」


 ほぉ、と言いながらも、どこか怪しむような視線だ。


「ちょっと乗ってた電車がトラブってさ。たまたま一緒になったんだ」


 わざと周りに聞こえるように、大きな声で言う。

 だが、すでに時は遅く、俺はクラスきってのヤンキーに目をつけられてしまった。

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