第5話 喧嘩文体への道
「よくわからないけどさ、今の状態で、確かに何かは書けるかもしれないけど、この文章に引っ張られてしまいそうな感じがしてならないのは、気のせいかな?」
そう来たか。
私も、そんな経験が何度かあったな。
今でも、時々、ないわけでもないから、わかるよ。
「そうかね。最初は皆、そんなものだ。何物にも引っ張られずモノがスラスラと書けるようになりたいとは思うが、最初からそうはうまくもいかないものだ」
「じゃあ、最初のうちは引っ張られても、いいってこと?」
私はここで、一席ぶっておいた。
引っ張られてもいい。書けません、よりは、はるかにいいだろう。
そのうち、引っ張られずに、それでも私はこう考えるのである、って感じで、書けるようになる。
そうしているうちに、自分の感覚に合う文章にも出会える。そこでしっかりとその文章の良さを「盗んで」、自分のものにしていくとよろしい。
それはな、誰かが手取り足取り教えてどうなるというものじゃ、決してないんだよ。昔のプロ野球選手じゃないけど、先輩にカーブの打ち方を教えてくださいとか言ったら、それこそ「金持って来いよ」ってレベルの世界だ。
だけど、金を払うか払わないかに関わらず、仮にいくら教わったとしても、自分が確実に上手くなるとは限らない。
一番いいのは、人のいいところをうまく盗んで、自分のモノにすることだ。私は高校時代、プロ野球関係者の本を読んで、その点の意識を身につけられた。
今思えば、だな、文章を書くのも、それと一緒だ、ということよ。
「おじさんが高校時代にそういう本を読んでいたことは、初めて聞いたよ。技術って、結局、盗んででも身に着けるものなんだね」
「その通り、だけど、これは自分のモノにするための「参考」でしかない。特許などの技術を盗んだり、勝手に使ったりしたら、もちろん駄目だが、文章の「技術」は、プロ野球選手の技術と一緒で、人のものを見て、これというものを身に着けるために「盗む」のは大いにやるべきことだ。ここで何だ、ちょっと君に、気合を入れてやろうかね」
「気合?」
甥は、私が中学時代に不良中学生だったとでも思っているのだろうか?
私が母と18歳で十数年ぶりに再会した後に話したことは、母を通して彼にも伝わっているようだ。
16歳のときパチンコ屋に行って、勝った時に限って年齢を店員のおじさんに聞かれ、19歳と言って逃げたとか(その金で参考書を買ったこともね)、19歳でコンパの二次会で泥酔して松田聖子の歌を歌ったが最後、急性アルコール中毒になって救急車を呼ばれたとか・・・。
まあ、こんなことばかり紹介されているから、無理もないか。
「確かに「気合」なのだが、これは何も、得体の知れない武道をするとか、どこかで何やら叫ぶとか、そういうことをしろと言うわけじゃない。大体、ここで暴れたり叫ばれたりしても、迷惑なだけだ。そういうものじゃなくてね、文章を書くにあたっての、ちょっとした、気合いだ。言うならば、「喧嘩」の原理を、使うのだよ」
「喧嘩? 春先になったらO駅前に刺しゅう入りの学生服を着て集まる不良中学生みたいなものかな? 」
「そんなのと一緒にされるのはあまりいい気持ちはせんが、まあ、似たようなものかもしれん。さすがに君は、こんな本は知らないだろう。とりあえず、その本のレビューを私が以前書いておるので、まずはそれでも、読んでもらおうかね」
この「中心となるもの」は、ルドルフ・フォン・イェーリングの「権利のための闘争」という本のレビューである。
この本の文体というのはまさに、「喧嘩文体」と言うにふさわしいものである。実際私自身の文体が、ある人に言わせれば、「喧嘩文体」というものらしい。「喧嘩」という言葉にかなりの語弊があり、そこにとらわれると話が先に進まなくなる要素が強いのだが、要は、自らの主張をドンと人にぶつけていくための、いささか激烈な手法であるというわけである。その具体的な内容を、私はこのレビューで書いているので、それを読んでもらえば、概ねどんなものかがわかるであろう。
ちょうどいい。何かの原稿用に書き込んでいた下書きがあって、それに引用してあるから、いっそまとめて、読んでもらうことにしよう。
(引用開始)
ある時私は、ある人に、自分の書いている文章に対して、こんな指摘を受けた。
「君の文章は、一種の「喧嘩文体」だ。これまでの人生で喧嘩慣れしていることはよくわかるが、あまりそれを大っぴらにやりまくるのも、考え物ではあるな」
「喧嘩文体」???
どんな文体や???
私の文章は、そんな特殊なものなのか???
一体全体、何をゆうてはりますのや???
まあでも、思い当たる節は、なくはない。
その人が私を表して、「喧嘩慣れ」しているというのは・・・
確かに、当たってはいる。
では、その「喧嘩文体」とやらは、どこから来たのだろうか・・・?
思い当たる節はある。
そうだ、あの本だ。
ルドルフ・フォン・イェーリングの「権利のための闘争」。
私が大学合格後、思うところあって読んだ、あの本だ。
あのイェーリングの「文体」こそが、まさに、その人の言う「喧嘩文体」だ。
確かに私はドイツ語に堪能なわけではないから、日本語訳しか読んではいない。
だが、その訳書を読んでいれば、それだけでも、この人の文章はもとよりこの翻訳並みか、いやそれどころか激烈なものであろうということが、すぐにわかる。
それが私のそれまでの人生(この後簡単に述べます)と結びついて、ああ、あんな「短歌群」の一つも、出来上がったのだな、と、ある時私は気づいた。
さて、その「喧嘩文体」なのだが、おおよそ、こういう流れの文章である。実際私が、イェーリングの「権利のための闘争」を数年前再読し、密林レビューを書いたものを、ひとつご紹介しよう。
ルドルフ・フォン・イェーリング著「権利のための闘争」 日本語訳レビュー
「喧嘩文体」の極致たる名著
私自身が法学部卒業生であるから、学生時代にこの本の存在を司法試験の合格体験記などでちょこちょこ目にし、それがきっかけでもちろん当時も読んだが、なんだか、西洋人でさえもさすがに引きかねないようなアツさで、左翼・右翼を問わず、そこらの政治活動家など足元にさえも及ぶどころかそこまで到底達せないほどの演説を聞かされているような気分になったことを覚えている。それから約25年ぶりに本書を読んでみたのだが、なんだか、改めて元気が出てきた気分である。
夏目漱石の「坊ちゃん」は、若いころ読むと痛快な青春小説に思えるのが、それなりの年齢に達して読むと、必ずしもそうではなくなるという要素がある。私自身、先日「坊ちゃん」を久しぶりに読み直したが、確かに若いころ読んだ時のような痛快さは感じず、確実に見る視点は変化していた。
だがこのイェーリングの文は、そんな情緒の「進化?」などみじんさえも認めないほど、同じテンションで私に迫ってきた。
ところで、私の文体は、ある先輩に言わせれば、「喧嘩文体」とのこと。
それをざっと説明するなら、おおむね、このようなものだという。
まず自己の主張を声高に述べる。
その上で、あらかじめ予想される反論を軽く出すのだが、ここで、軽い罵倒的な言葉も添えることが通例。慇懃無礼な言葉による「嫌味」的な表現も可である。その後自説をしっかり展開し、相手に反論の一つも出させないほど徹底的に叩きのめす。
もちろん、まあまあ、などという「なだめすかし」は一切受付けないほどに、これでもか、これでもか、というぐらいにやっていく。
というパターンで展開される「文章」が、「喧嘩文体」なのだそうである。
イェーリングのこの論文の文体はもとより、主張手法がまさにその通りなのである。私は知らず知らずのうちに、このイェーリングの文体を身に着け、実践していたことに改めて気づいた次第である。
具体例を挙げてみよう(必ずしも私の本音や意見を示しているわけではない)。
私は自動車運転免許を所持していないし、これからも所持するつもりはない。
こういうと、やれ免許がないと行動範囲が広がらないだろうとか、田舎町では生活できないだろうなどと述べてくる低能が沸いて出るのが相場ではある。自動車がないと生活が困難な地域があることは確かである。だが、そんなものは、都市部に居住しさえすれば何の問題もないことである。独身者であればなおのことだ。
自転車や公共交通機関の利用で済むし、そもそも自動車のごとき金食い虫を保有してまで田舎町などに住む必然性は、少なくとも私にはみじんもない。そんな金があれば、酒を飲んだり、風俗街をうろついたりしていた方がましである。
私は田舎町などには住む気はないし、自動車を保有する意思も当然ない。
そもそも日本国憲法で居住・移転の自由が保障されている以上、田舎町とやらに住まわされる筋合いも言われもない。以上より私は、自動車運転免許は金輪際取得する意思はないし、公共交通機関の発達した地域にしか居住する気はない。日本自動車工業会の幹部が雁首揃えて土下座して金をいくら積んだところで、結論は同じである。
たとえは難だが、ざっとまあ、このような論調のパターンなのである。
さて、イェーリングは、権利のために合法的に「闘争」することは、法秩序を守るための「義務」でさえあると説く。そして、気休めにもならない法律論を述べる学者たちを、最後には、明に暗に罵倒しつつ自説を貫き通すのだ。
それにしてもこのイェーリングの主張は、横浜銀蝿のプロデュースになる「男の勲章」(嶋大輔・歌)で歌われる歌詞など、まあ、方向性は同じ側面もあるにはあるにしても、まったくもってかわいいものでしかないほどの痛烈さである。
年齢を経ても、本書に対する感想は、少なくとも私に関する限り、まったく「ブレ」がなかった。ある意味、このイェーリングのような精神をもって、これからも生き続けていきたいものである。
(レビュー引用はここまで)
「うじ虫たるを自認する者は・・・」
訳者によっては多少の表現の差はあるだろうが、私が手にした「権利のための闘争」の表現において、忘れられないものがある。それは確か、このようなものだった。
「うじ虫たるを自認する者は、あとで踏みつけられても、文句は言えない」
訳すにあたっては、原語でかなり激しい罵倒をしていることが明らかな表現であれば、この際いささかオブラードに包んで表現しようという訳者もいるだろう。
大体、波風の立たないものをわざわざ波風立てる表現にしてやろうなどと、普通は思わないもの。それを考えれば、イェーリングの書いたドイツ語の原文もまた、これと同等以上の激しい言葉であろうことは、容易に想像がつく。
これと同じ言葉を、普段の会話で使ったならどうなるか?
どうなるもこうなるも、喧嘩になっても何らおかしくないはずだ。
だが、「ルドルフ・フォン・イェーリングという19世紀のドイツの法学者の書いた「権利のための闘争」という「学術書」」という「権威」は、そんな「低次元」の「喧嘩」などを起こさせないほどの、まさに、「印籠」である。
この言葉が出されたところで、この「学術書」の意義が消えうせたり、そうでなくても値打ちが下がったりなどしない。それどころか、素晴らしく激烈な名著、ということにさえなってしまう。
ある時、弁護士になったばかりのある先輩が、私たち現役学生の前でこんなことをおっしゃった。
「司法試験を受験しているときは、あのごくつぶしが・・・と言っていたのが、合格したとたんに、実は期待していたとか何とか、そんな調子で手のひら返しだ。世間なんて、そんなものは、力のあるものになびくものだって」
そういえば、若くして亡くなられたが、私と同年配の元プロ野球選手が、メジャーリーグに行ったとき、追ってきた日本のマスコミ人に、こんなことを言っていたっけ。
「あんたら、イナゴの大群やねぇ・・・」
「喧嘩文体」と言えば聞こえはすこぶる悪いが、これはまさに、自分自身の「尊厳」という、単なる「権利」以上のものを守るための戦いの武器となるのではないか。所詮相手は、力のあるものになびく「イナゴ」たちに過ぎない。化学薬品の一種であるところの農薬など一切使わずしてイナゴの襲来を防ぎ、力のあるものになびくしか能のない連中の犬猫同然のじゃれ合いをさせないためにも(ワンちゃん猫さんごめんね~優しさも、喧嘩文体には必要じゃないかな~苦笑)、この「喧嘩文体」で自らの身を守り、平穏な心理と生活を守りたいものである。 (以上、引用終り)
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