第3話 レビューと読書感想文 チャーシューの月

 「君は、どの本の読書感想文を書こうと思っておる?」

 「課題指定はされていないけど、この本を読んで、書こうかと・・・」


 その本は、「チャーシューの月」という題の、児童養護施設に暮らす少女たちを描いたもので、数年前に、課題指定されたことのあるものだった。担任でもある国語の三石先生が、この本を読んでみるといいと、あるとき授業で言っていたので、それを読んで書いてみようと思ったという。甥の話では、三石さんが授業中に、私のことを引き合いに出して紹介してくれたらしい。まあ、事前に連絡があって、そのとき私は、大いに紹介してくださいと申し上げていたというのもあるけどね。

 ちなみに甥は、その本を先日、親に頼んで通販サイト「密林」の中古で入手したとか。


 「そうかね。ところで君は、この本を、読んだのかね」

 「一通り、読みました」

 「よろしい。で、どんな感想を持ったかね?」

 「正直、ぼくには、状況が理解しきれないから、何とも言えないところが・・・」


 そういう場所で育った私に遠慮しているのか、はたまた、そこで描かれている環境が今一つ、肌身で理解できていないのか、そのどちらもあってのことか。それは分からないが、私自身が養護施設という環境に育ったことを、母、というか、彼からしてみれば祖母からかねて聞かされていて、私に「わかった口をきくな」とでも言われかねないと思って遠慮しているのか。まあ、何かきっかけを与えてやれば、話は進むだろう。


 「私に遠慮することはない。思ったことや感じたこと、口頭で表現して御覧なさい」

 「児童養護施設って場所は、昔は、孤児院と呼ばれていたんだよね。いろいろな人たちから聞いた話では、正直、かわいそうな子供たちの居場所なのかなと思っていたけど、読んでいて、不思議と、そんな感じがしなかった。確かにね、特殊な環境かもしれないけれども、そこで行われているのは、子どもたちの普段通りの生活なのだ、ってことかな」

 「それで十分、立派な感想じゃないか。養護施設と言ってみても、そこで暮らすのは、どこにでもいる普通の子どもたちだ。毎日、両親のいる家庭に育っている子どもたちと違うことばかりをのべつさせられているわけでもないし、そうしようといくらしたって、それは無理ってものだ。もちろんこの本の話は、必ずしも、事実ではない。御存じの通り、フィクションであって、実在する人や団体とは、一切関係ない。何だか、昔の刑事ドラマの終わりに出てくる断り書きのようではあるがね。だが、この本で読んだ物語は、どこにもない話で、荒唐無稽なデタラメの作り話である、と、君は言えるかな?」

 「言えないよ。どこかで起こっていても、おかしくない話だと思う」

 「そうだな。私も、そう思っている。逆のパターンを見てみよう。これ、私が昨年出版した本だ。これはノンフィクションだが、君は、読んだか?」


 私は、昨年出版したノンフィクション作品を本棚から取り出し、甥に見せた。これは、ある出版社に応募して賞をもらったもので、私が専業作家になるきっかけとなった、記念すべき本でもある。


 「あ、その本ね、お父さんが買ってきていたから、ぼくも借りて読んだよ。最近の通信制高校の話でしょ、あと、おじさんの時代の大検を受けて大学に行った人とか・・・」

 「その通りだ。ところで、この本で私が書いたいろいろな人たちの話だが、まったく私が書いたその通りのことがすべて起こっていた、と思うかね?」

 「そのことだけど、ぼくは、読んでいて、何か、作ったような「あと」を感じたよ」

 「作ったような「あと」を感じた・・・面白い表現だな。そんな表現が今こうして出てくるような君に、文章が書けないはずがない」

 「そういうものかなぁ・・・」

 「能力のない者からは、そんな言葉は出てこないよ」

 「はあ・・・」

 「じゃあ、話を戻そうか。君の今の表現からして、私が書いたその事実は、必ずしも「真実」ではない、と、君は思っていると解釈して、いいかな?」

 「いいとも!(苦笑)」

 「あのなあ・・・」


 そういえば、そんなやり取りのあるテレビ番組があったな。

 私が中2のときに始まって、少し前にようやく終わった、あの昼間の番組だ。

 目の前の甥は、あの番組が始まったときの私と同じ「中2」になっている。

 もっとも、その間のタイムラグは40年近くもあるのだが・・・まあ、そんなものだ。

 私は、少し間をおいて、話を続けた。


 「そうだな、種明かしとまでは言えないかもしれないが、実情を話そう。私が書いた事例は、君も感じ取った通り、必ずしも、真実ではない。もっともそれは、私がデフォルメというか、事実関係などを変えて書いた、というのもある。また、元となった文章を書いた人にしても、それが本当にそうだったからそう書いた、というわけでもない。だから、本当にこの世で起こった「真実」とは、どうあれ、違うことは間違いない。だけどな、私が書いたような事実は、本当に、この世に存在しなかった出来事と・・・」

 「とは言えないね。ノンフィクションと言っても、起こったことをその通りに書けばいいわけでもないし、それこそ、個人情報とか何とか、そういうことが言われる時代だよ」

 間髪を置かず、甥が返してきた。

 それを受けて、私はさらに続けた。

 「そうだな。差しさわりがあってもなお書く、という選択肢も、あるにはある。だが、よほどの場合以外は、そういう手法はできるだけ避けなきゃいけない。だからこそ、事例をぼかしたり、逆に脚色したり、当然、仮名にもするしね。あるいは、架空の人物を入れることもあるし、差しさわりのある人物を出さないようにしたり、また、主人公やその周辺の人物像をミックスしたり、あるいは分離したり、いろいろな手を使って書くことには、実は、小説もノンフィクションも、微妙なところで共通点があるのだ。いくら「実話」と言っても、そうして、事例を紹介せざるを得ない。テレビのいわゆる「やらせ」がちょくちょく叩かれるが、それにしても、一概に悪いわけではない。ただし、やり過ぎはやはり、問題があることは言うまでもなかろう」

 

 ここで私は、パソコンを立ち上げ、大手通販サイト「密林」のレビュー欄を画面に出し、例の本のページを示し、該当する「記事」をプリンターで印刷し、甥に手渡した。

 「これが、私が以前書いたレビューである。まあ、読んでみたまえ」


 書籍名 チャーシューの月、 村中 李衣 著 2013年 小峰書店 

 

 (児童)養護施設の日常風景から

 

 養護施設(現在の法令上の呼称は「児童養護施設」だが、ここではそう表記する)で生活している中学生になる少女美香と、家庭の事情で入所した小学生になる少女明希を軸に描かれる、養護施設で過ごす子どもたち(年齢にかかわらず、法律上の呼称は「児童」であるが、ここではその言葉は一切使用しない)を取り巻く人物たちの光景である。

 私も実はこの作品の子どもたち同様、養護施設で約12年間(6歳から18歳まで)育った経験があるので、私にとっては他人ごとではない。

 私が養護施設で過ごしたのは昭和で50〜60年代、1975年から1988年までである。当時すでに、かつて「孤児院」と呼ばれていた頃の状況ではなくなりつつあったが、現在では、さらに「孤児」というべき者の割合は減っている。本作品でも、この施設内で身寄りのない子はわずか3名で、外は皆、親もしくは親戚がいるとのことである(定員は何名かわからないが、いわゆる「孤児」は、それほど高い割合ではなかろう)。

 いずれにせよ、実態はどこもそのようなものであろう。そのかわり、この十数年来、児童虐待などがクローズアップされるようになり、養護施設はその役割を微妙に、しかし大きく変えている。

 ここで描かれている施設の子どもたちの生活というのは、一見一般家庭に育つ子どもたちとかなり違う部分も少なからずあるが、日常生活については、おおむね同じような面もある。ただ、子どもたちにとってそこでの生活は、どうあがいても「家庭」たりえないことも、残念ながら現実である。

 親代わり(所詮は「代わり」に過ぎない)の「先生(職員にこの敬称を付けて呼ばせる養護施設がなぜか多い)」こと保育士(かつては「保母」と呼ばれ、おおむね短期大学を卒業した女性の仕事であった)や児童指導員(こちらは以前より男性もいるし、女性も最近は増加している)、そして園長などの幹部職員。私のいたころの養護施設の、とりわけ保母には、まれに通勤されている人もいたが、たいていはその施設内の別室に「住み込み」で働いていた。園長や児童指導員の中には、施設内の敷地に家族で住める家を設け、そこに住む職員もいた。

 この作品の養護施設の職員に住み込みで働いている職員がどれだけいるのかは明らかでないが、あまりに「近すぎる」他人との関係が継続的に維持されていけば、そこにいびつな意識が入り込んでくる可能性は少なからずあるし、それゆえの悲喜劇も、事件になるほどのものではなくても、いくらとある。

 私のいた施設でも、多かれ少なかれそのようなことはあった。

 

 子どもたち同士の関係にしてもそうである。しょせん「他人」の中で、24時間「生活」するのだ。これが学校の研修旅行や修学旅行程度のものであれば、それも一興でもある。学校の「寮生活」程度までなら、それも一興である。しかし、日々そのような状況を強制された「生活」をするようになれば、まさに、24時間、逃げ場のない環境である。

 悲しいかな、子どもたちの中では、とりわけ小学生程度の年齢のうちは、何と言っても、「腕力」の強さで人間関係が決まってしまう。いくらか例外はあるにしても、おおむね「年齢」の上下で、力関係が決まってしまう。てきめん、年長の子による年少の子への暴力などが嫌でも起こる。

 まして、養護施設はそこにいる子たちをとりあえず平等に扱わないと不満も出ようということで、職員らにしてみれば、好きなことをさせるよりむしろ、同じことをさせるようにせざるを得なくなるし、そうなると、「群れさせる」方向に持っていくことにもなりがちである。

 ただ、年齢が上がるにつれて、それぞれ自己が完成してくるわけだから、そういう要素はかなり薄れてはくる。

 この作品の主人公の少女である美香は、ちょうどその境目の年齢であるが、そのあたりの距離感を、本作品ではうまく描かれていると思われる。


 本作品には、養護施設を取り巻く人物たちが、おおむねすべて、何らかの形で登場している。養護施設を卒園し、結婚して子供ができた卒園生たち、養護施設の子どもたちの担任をする学校の先生たち(こちらは登場する)、そして子どもたちの親や親せき・・・・・。

 ただ、養護施設を監督する都道府県や市町村の福祉担当の職員は直接には出てこない。しかし、「児童相談所や市役所からやってくる女の人たち」との表現が出てくる。子どもの親としての「大人」とは違う大人(ここでは、子供を「虐待」する親とはまた違う世界に生きる大人たちというぐらいの趣旨である)が、実は社会にはいくらもいるということを、それとなく作品に添えている。

 子どもたちの世界は、多かれ少なかれ、狭い中での、濃密なつながりである。その中での「悲劇」は、虐待する親のもとにいても、また、養護施設にいても、その質が幾分変わるだけで、実のところ、本質的な解決にはならない。養護施設の職員らを、これを奇貨として責めるつもりはないが、それを導けるような能力のある大人など、そうそういない(私は導ける能力があるなどというつもりもない)。

 養護施設に過ごす子どもたちは、同世代の子どもたちと比べても、社会的には「弱者」といえよう。そういう「弱者」になった時、ごく普通の人がその前に出てきたあかつきには、その人は(たとえば養護施設の職員や福祉担当の公務員ら)、とんでもない強者となって立ちはだかる。これは、学校の先生と生徒、あるいは高齢者施設の職員と入所されたお年寄り・・・・・いろいろな世界で展開されていることでもある。

 もちろんこの作品の職員たちのように、まじめに、しかもおおむね良心的に務めている人も多い。しかし、なかにはとんでもない方向(施設内虐待など)に走ってしまう人もいるし、そのような危険が付きまとっている場所でもあることを、ここで申し添えておきたい。そんな場所でも、本作品の子どもたちには、「居場所」なのである。ただしそれは、いかに現場が努力しても、いかに詭弁を弄しても、残念ながら、「家庭」となることはありえない。「同じ釜の飯を食った仲」などと、中途半端な地位をつけたそこらの中年男が、学生時代を懐かしんで酒の席でのたまえるようなおめでたい世界になど、金輪際なりっこない世界なのだ。

 この作品に出てくる子供たち(同じ境遇にいる子どもたちも含む)が、せめて、「負の連鎖」を断ち切って、自己を確立して生きていくことを願うしか、私たちにはないのだろうか・・・。(引用終)

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