第12話 不本意ながら欲情しています

 ……遠くから聞こえる音。

 これは何だ?


 ……近づいてくる音。

 これは何だ?


 「……で……が……」


 何を言っている?何を慌てている?


 彼女はどこだ?もう時間はとっくに……


 ……遠ざかる音。

 これは……サイレン。


 ……『あなたのせいで』



 はっ!として飛び起きる。心臓が早鐘のように激しく鼓動を刻む。気が付くと全身にびっしょりと汗を搔いていた。ああ、あの夢だ。もう随分見ていなかったのに。手で額の汗を拭い、辺りを見渡す。暗い。……ここはどこだ?見たことがない場所。頭が働かない。待て。確か俺は……


 「んん……」


 突然人の声がして、俺は驚きのあまり息を呑んだ。そして暗がりに慣れてきた目で声のした方向をじっと見つめる。


 「!!」


 もう少しで声を上げるところだった。思い出した!アリーシャの部屋だ。<スキル>の効果を確かめるため彼女の部屋に泊まったのだ。


 「げっ!」


 さらに目が慣れて視界がはっきりし始め、俺は慌ててベッドから視線を逸らした。アリーシャはベッドの上で仰向けになって眠っていたが、薄い掛け布団がめくれ、全身が見えてしまっている。しかもシャツの裾がめくれ上がり、下半身が丸見えの状態だった。


 「マジかよ、勘弁してくれ」


 アリーシャはやはり下着しか身に着けていなかったのだ。健康そうな足が本当に全て見えてしまっている。男と二人でいるというのにこの無防備さはどういうことだ。いくら手が届かない状態で力の差があると言ってもこれはあまりにひどいだろう。一族の規律はどうした?


 「うう……ん」


 その声に反射的にベッドの方に視線を向けてしまう。まずい、と思ったときには遅かった。アリーシャはこちらに向かって横向きとなり、腕を体の前に垂らした体勢になっていた。下着を着けただけの下半身が正面から見える。おまけにシャツの胸の部分がたわんで、谷間が覗いている。健康な男子にとってはあまりにも危険な眺めだ。


 『お前がもしそうなったとしても軽蔑などせんよ』


 アリーシャの言葉が頭にリフレインし、それを都合よく解釈しようと心のどこかが言っている。いかん、このままでは危惧した通りの事態になってしまう。


 色即是空、空即是色!


 俺は一度自分の頬をパン、とはたき、アリーシャに背を向けて丸くなった。固く閉じた瞼の裏にさきほどの悪夢とアリーシャの姿が浮かび上がる。鼓動は一向に治まってくれなかった。


 


 ……どれくらい経っただろう。眠っていたのかずっと起きていたのか判然としないぼやけた頭でぼーっと自分の右手と繋がった部屋の入口のドアを見ていた俺は急に漂ってきた香気に刺激され、完全に目を覚ました。匂い、というのとは少し違う感じがする奇妙な雰囲気。意識が覚醒していくのに、頭がぼうっとする相反した感覚が全身に広がる。何だ、これは?


 「ん……ん」


 背後でアリーシャの声と衣擦れの音が聞こえる。途端に俺の中で何かが弾けた。弾かれるように身を起こし、アリーシャの方を向く。


 「朝か。起きたか、トーマ」


 ベッドから身を起こしたアリーシャが眠そうな声で言う。その声を聞いた瞬間、下半身がズキッと疼いた。いかん、まさかこれは!


 「私はまだいいが、お前はそろそろ……」


 アリーシャがベッドを下り、こちらに近づこうする。さらに頭に靄がかかったような、酔っぱらったような心地になってくる。


 「ダメだ!来るな!」


 俺は必死で叫んだ。ダメだ、と思う頭とは裏腹に体がアリーシャの方へ向かおうとする。


  「どうした!?トーマ!」


 甘酸っぱいような匂いが鼻腔をくすぐる感覚が襲う。目の前がチカチカして息が荒くなる。


 「近づかないで!は、早くシャワー……を!」


 「まさか!?効果がなかったのか。わ、分かった。しばらく待っていろ」


 事態を察し、アリーシャが俺に背を向ける。その瞬間、俺の中で本能が見境なく暴れ出した。


 「ぐあああああっ!!」


 ものすごい力で右手が紐を引っ張り、アリーシャに近づこうとする。目の前の女性に襲いかかれとオスの本能が命じる。ダメだ、止まれ!俺の体!


 「がああああっ!」


 しかし頭で考えているのと正反対の行動を俺は取ってしまう。紐が食い込んで右の手首から血が滲んでくる。しかしその痛みも気にせず、俺はさらに紐を引きちぎらんばかりの勢いで右手を前に伸ばす。


 「よ、よせ!それ以上は右手が!」


 「あああっ!い、今のうちに早く!でないと……」


 アリーシャのフェロモンがこれほど強力とは思っていなかった。昨日から刺激的な姿を見せられてきたから余計に効果が強くなっているのかもしれない。女性に慣れていない俺だから尚更だ。


 ビシッ!


 まずい!あまりの力にとうとうドアノブに縛っておいた方の紐が外れてしまった。このままでは……


 「ぐうっ!」


 唇を強く噛み、今にもアリーシャに飛びかかろうとする自分を必死に食い止める。こうなってしまってはアリーシャにシャワーを浴びさせるわけにもいかない。彼女が服を脱ごうものなら、完全に自分を止められなくなる。


 「ちっ!」


 アリーシャが舌打ちし、俺に向かって構えを取る。襲いかかってきたら撃退するつもりだろう。そうして貰えれば助かるが、出来ればその前に自分を抑えたい。


 「気にするな。これは私のせいだ。お前が悪いわけではない」


 鋭い目で俺を睨みながらアリーシャが言う。そうかもしれないが、そもそも中途半端に期待をさせてこの状況を作ったのは俺だ。みっともない真似を晒したくはない。だが全身を掻き毟られるような欲情が俺を駆り立て続け、理性が崩壊するのも時間の問題に思える。どうにか出来ないか、どうにか……


「!?」


 汗ばむ手を握りしめた時、ズボンのポケットに触れ、俺は一瞬我に返った。そうだ、これがあった!


 「うおおおっ!」


 俺はポケットからそれを取り出し、一気に自分の太腿に突き刺した。それは昨日パタラから借りたペーパーナイフだった。万一の時のために準備しておいたのだ。


 「なっ!何をしている、おい!?」


 短いが先がよく尖ったペーパーナイフが深々と突き刺さり、太腿から血が溢れだす。かなりの激痛だったが、おかげで少し正気を取り戻せた。


 「何てことを!い、今治癒魔法を……」


 「い、いいから……今のうちに、シャ、シャワーを」


 「し、しかし!」


 「早く!この痛みでも長くは持たないかも……しれません」


 「ええい!少し待っていろ!」


 アリーシャは引き戸を開け、中に消えていった。ほどなく微かに水の音が聞こえてくる。よし、これでなんとか……


 「ぐうっ!」


 やばい、思ったより出血が多い。意識が遠くなってきた。


 「無事か!?トーマ!」


 しばらくしてアリーシャが飛び出すように帰ってきた。よし、これでフェロモンが落とせ……


 「!」


 「しっかりしろ!今治癒魔法を……」


 戻ってきたアリーシャを見て、失いかけていた意識が急激に覚醒する。何と彼女はバスタオルを巻いただけの恰好だったのだ。あああ阿呆か!それじゃフェロモンを洗い落とした意味ないだろうが!!


 「治癒ヒーリング!」


 アリーシャの手から光が放たれ太腿からの出血が止まる。さすが先生、と言いたいところだが……。


 「せ、先生、服を着てください」


 「しゃべるな!じっとしていろ!思った以上に傷が深い。全く何を考えているんだお前は!頭がおかしくなったのか!?」


 「い、言ったでしょう。みっともないところを……見せたくなかったんですよ」


 「お前のせいではない!私も言ったぞ!軽蔑などせんと。それに返り討ちに出来るともな。しかもこれは私の体質のせいなのだ。お前が気にする必要は……」


 「でも無責任に期待を抱かせたのは……俺のせいです」


 「トーマ……」


 「女将さんの時は上手くいきましたけど……今回は失敗だった。最初から出来るかも分からないことを言って……む、無暗に期待をさせたのは……うっ!」


 「私が怒っているとでも思ったのか!バカにするな!思い通りにことが運ばないことなど星の数ほどあると言ったではないか。私はお前の気持ちに感謝こそすれ、責める気など毛頭……」


 「あ、ある人に言われたんです。……自分が相手と同じように傷つく覚悟があるのなら、それは身勝手な行動ではないと。先生はそう言っても今残念に思っているでしょう。あなたの心を傷つけて俺だけが無傷というのは……耐えられない……です」


 「そんなバカな理屈があるか!今お前が感じている痛みが、私の痛みと比較できるものか!私は……そんなに弱い女ではない!」


 「せ、先生……」


 いつの間にかアリーシャの目には涙が溢れていた。どうしたのだ。あなたは弱い女ではないと今言ったではないか……。


 「こんなことをして……こんなことをして私が喜ぶとでも思ったのか!?ふざけるな!こんな真似をされるくらいなら襲われた方がまだマシだ!待っていろ!傷が治ったらお仕置きだ!ボロボロになるまで殴ってやる!」


 それ、傷を治す意味ありませんよね?

 

 5分以上治癒ヒーリングを受け続け、ようやく傷はふさがった。が、痛みはまだ残っている。


「とりあえずは落ち着いたか」


 ふう、とアリーシャが息を吐く。額には玉のような汗が浮かんでいた。相当消耗したらしい。


 「すいません、結局迷惑をかけて……」


 「全くだ!朝からこれほど魔力を消耗するとは。疲れて動く気にならん。しかし一昨日に続いて遅刻など断じて出来んからな。私もすぐ出かける。ゆっくり歩いていけば間に合うだろう」


 「本当にすいません」


 「いいか!この際はっきり言っておくぞ!今回失敗したのはお前の責任でもなんでもない!元々無くなるはずもないものだったのだ。一切気にするな!命令だ。今後このことに関して臆するような態度を取ったら本当に許さんからな!」


 「分かりました。だから早く服を着てくれませんか?フェロモンの効果は消えたようですが、その恰好だとまた足を刺さなきゃいけなくなりそうです」


 「え?ああ!!」


 そこでようやく自分の姿に気付いたらしく、アリーシャが慌ててタオルを体に押し付ける。


 「み、みみ、見たな!貴様またしても……」


 「じっくり見る余裕なんてありませんでしたけどね。その恰好で飛んできたのは先生ですよ?」


 「し、仕方ないだろう、緊急事態だったし。と、とにかく目を瞑れ!すぐ着替えてくる!」


 慌てながら収納スペースを開けて服を取り出し、アリーシャはまたシャワー室の方へ消える。って結局見ちゃってるな、俺。


 「先生、俺このまま先に行きます。ありがとうございました」


 「へ、平気か!?痛みの方は?」


 奥から返事が返ってくる。


 「まだ少し痛みますが、歩くには支障なさそうです」


 「そ、そうか。気を付けろよ」


 「はい」


 シャワー室の方に向かって頭を下げ、俺は痛む足を引きずりながらアリーシャの部屋を出た。早朝の澄んだ空気が肺に吸い込まれて心地いい。しかし俺の心は沈んでいた。


 「ダメだった……」


 女将さんの<スキル>を消せたことで俺はどこか自惚れていたのだろう。アリーシャはああ言ってくれたが、俺は彼女に無駄な期待を抱かせた自分を許せなかった。軽々しく「汚れ」を消すなどと口走った自分が腹立たしい。転生してから美少女に囲まれて舞い上がってるのか?お前は主人公なんかじゃない。ただのモブキャラだ。思い上がるな!


 「くっ!」


 しかもさらに最低なことに俺は今もオスの劣情を抱えたままなのだ。フェロモンが消え、のっぴきならない状況は脱したが、一昨日からの一連の出来事のせいもあって、体の疼きが治まらない。転生によって若返ってしまったから余計にタチが悪い。あのまま部屋に残っていたらフェロモンのせいではなく、アリーシャに抱きついていたかもしれない。そんなことになったら本当に俺は立ち直れないだろう。


 「ふふふ、怖い顔してるねえ、お兄さん」


 いきなり頭上から声がして、俺は驚いて顔を上げた。見ると高さ数メートルはあろう太い鉄柱の上に一人の女性が座っている。朝日を浴びて輝く、長い水色の髪。裾が広がったワンピースを着た美人だった。


 「お、俺のことですか?」


 「君しかいないじゃないか。ねえどうしたんだい?野生の獣みたいな雰囲気じゃないか。女に飢えてるのかな?」


 彼女の言葉にドキッとする。この世界には読心術者しかいないのか。


 「こんな朝早くから女を漁ってるのかな?お盛んだねえ」


 「そ、そんなわけないじゃないですか!あ、あなたこそこんな時間に客引きですか!?」


 「まさか。朝の風を浴びに来ただけだよ。そうしたら面白い感情を垂れ流している人がいたもんでね。つい声を掛けちまったのさ」


 「え?」


 感情を垂れ流している、だって?まさかこの人も何らかの能力を……

 

 「顔色が変わったね。見たところ知ってるようだね、<スキル>を」


 やはり!この人も転生者なのか?


 「ふふふ、そう警戒しなさんな。別にあんたをどうこうしようとは思ってないよ。でもせっかくお近づきになれたんだ。サービスでその欲情、楽にしてあげようか」


 「な、なんですって?」


 「気を楽にしなよ」

 

 そう言うと彼女はいきなり鉄柱の上から飛び降りた。あっ、と思う間もなく、その体がふわりと音もなく地面に降り立つ。


 「なっ……」


 「ふふふ、ほうら」


 彼女が両手を体の前に伸ばし、掌を広げる。と。何かいい香りが漂ってきた。アリーシャのフェロモンとは違う、心の安らぐような香りだ。

 

 「ゆっくり息をして。さあ」


 不思議なことにその香りを嗅ぐうちに、本当に心が落ち着いてきた。さっきまで猛り狂っていた欲情がみるみる消えていく感じだ。


 「どうだい、楽になったろう?」


 「あ、あなたは一体?」


 「まあいいじゃないか、そんなことは。縁があったらまた会えるよ。その時はお代をいただくがね。ふふふ……」


 「あ、ちょっと!」


 呼び止める俺を無視して、彼女は羽根が生えているかのように軽やかにジャンプしながらあっという間に俺の視界から消えて行ってしまう。何者か知らないが只者でないことは確かだ。


 「また美人か。でも今回は少し危険な感じがするな」


 俺はさっきの女に得体のしれない不気味さを感じながら、監督署へ向かった。


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