第7話 稼がない自由

「······ロシーラ」


 それは、静寂に包まれた深夜の牢獄で聞こえた。聞き覚えのあるその声に、眠けが吹き飛んだロシーラは身を起こした。


「······アーズス。アーズスなの?」


 黄色い髪の女は、生死が定かで無かった男の名を呼んだ。アーズスの名を二度呼んだ時、ロシーラは既に涙声だった。


「助けが遅くなって済まない。ロシーラ。今この牢屋から出すよ」


 アーズスは笑顔でそう言うと、看守から奪った鍵で牢の錠前を開ける。ロシーラの視界の先に、倒れている看守の姿が映った。


 鍵が開けられると、ロシーラは泣きながらアーズスに抱きついた。アーズスは震えるロシーラの肩を優しく抱く。


「······良かった。アーズス。生きててくれて


「ああ。あの時、瀕死の俺は仲間の傭兵達に助けられたんだ。今も仲間の傭兵達が城内を混乱させている。この隙に逃げるんだ」


 今は緊急事態。再開に浸る余裕が無い事をロシーラは悟り、力強く頷いた。城外の踊り場に風の呪文の使い手が待機している。


 そこ迄辿り着きこの城から脱出する。それがアーズス達の手筈だった。アーズスは三度の兵士達の遭遇を全て退け、城の外に出る事に成功した。


 だが、そこに待ち構えていたのは砂色の髪の魔法使いだった。


「······生きていたか。アーズス。コイツは喜ぶべき事なのか。難しい所だな」


 細い二重の瞳を更に細め、複雑な心境のロッサムは、杖を構え用心深くアーズス達から距離を取る。


 半月の夜の下で、かつての仲間同士が対峙する。


「なあ。アーズス。そこに居るロシーラが俺の裏切りを予言すれば、こんな苦労は無かったのにな」


 ロッサムの言葉の意図を、ロシーラは理解出来なかった。裏切り者ならそれに徹すれば良い物を。中途半端なその態度に、ロシーラは怒りを覚えていた。


「······ロシーラは予言していたさ。ロッサム

。お前の今回の行動を」


「······何?」


 アーズスの普段通りの声色に、ロッサムは細い目を見開き驚愕する。そして、強張った口を開く。


「······何故だ?アーズス。俺の裏切りを予見しながら、何故何も手をうたなかった!?」


「ロッサム。お前は俺の仲間だ。幾らロシーラの予言とは言え、俺はお前を信じていた」


 アーズスの穏やかな両目とその口調に、ロッサムは無言で立ち尽くす。だが、一瞬の静寂はバリーザンの怒声によって破られた。


「何をしているロッサム!早く巫女の娘を捕まえんか!!」


 邪神教団の大司教が、部下の兵士と共に城外に現れた。だが、アーズスは既に行動を起こしていた。


 アーズスは快足を飛ばし、猛然とバリーザンに迫っていた。そして、大司教が髑髏の杖を構える前にアーズスは長剣を一閃する。


「ぬうっ!?」


 アーズスの一刀は、バリーザンの右肩を切り裂いた。鮮血が地面に落ちる前に、アーズスは踵を返し駆け出していた。


「走れ!ロシーラ!!」


 アーズスは叫びながら、傭兵仲間の待機場所をロシーラに指で知らせる。仲間は既に風の呪文を用意していた。


「逃がすか!!知れ物共が!!」


 飛び散った血を頬に浴びながら、バリーザンは怒りの表情で髑髏の杖を突き出す。すると、杖の先から巨大な火球が飛び出した。


 その火球は、風の呪文を用意していた傭兵に直撃した。深夜の闇の中で紅い火柱が立ち昇る。


 アーズスとロシーラは風の呪文の使い手を失い、この城からの脱出の手段を絶たれたかに思われた。


「来い!アーズス!ロシーラ!」


 砂色の髪を揺らしながら、ロッサムは叫んだ。その身に風を起こしながら、アーズスとロシーラの元へ走って行く。


 ロシーラは一瞬迷ったが、アーズスはそのロシーラの手を引き、僅かな逡巡も見せずロッサムに向かって走り出す。


「ぬう!?ロッサム!貴様、私を裏切るつもりか!?」


 バリーザンは再び髑髏の杖を構えようとするが、肩の傷口からの出血が祟り、よろめいた所を配下の兵士達に支えられた。


 アーズスとロシーラはロッサムと合流を果たし、風の呪文で城から飛び去った。闇夜に消えていく三人の軌跡を、バリーザンはいつまでも睨みつけていた。






 ······日曜日の朝。麻丘あかねはベットの中で外から聞こえる雨の音を聞いていた。


「······もう。何なのよロッサム。あんた一体どっちの味方なの?まあ。アーズスの誠実さに心打たれて改心したのかな」


 あかねは眠りから覚めていたが、直ぐに起きる気分では無かった。全身が筋肉痛で身体が起床する事を拒否していたからだ。


 そして昨日の出来事。あかねはそれを考えるだけで顔が赤面し、掛け布団で頭を隠した


 昨日、農業研究会の四人は、郊外の田んぼが連なる長閑な場所を訪れた。古びた平屋の居住者、丸尾に会う為だ。


 四人は丸尾に家の中に招かれた。年季を伺わせる建物の外見を裏切るように、室内は意外にも綺麗だった。


 部屋は二部屋あり、フローリングの床は丸尾自ら張り替えたと言う。


「長い間空き家でね。直せる所は自分で直したんだ」


 丸尾が呑気な口調で新顔のあかねに説明する。五人は丸いちゃぶ台を囲み、丸尾が淹れたお茶を飲む。


「······美味しい。これ、なんてお茶ですか?


 個性的な配色の陶器に入った液体を飲んだ

あかねは、思わずその味を賞賛した。


「髭茶って言うんだ。トウモロコシって皮の中に髭みたいなのがあるでしょ?それを干してお茶にした物だよ」


 丸尾は気さくに答える。あかねはこの家に入ってから気になる事があった。とにかくこの家の中は物が無い。


 ちゃぶ台の上にノートパソコンがぽつんとあった以外は、畳の部屋にダンボール箱が二つある程度。


 台所には食器や料理器具、そして瓶がいくつか並んでいる程度だった。


「丸尾さんは持たない生活を実践しているのよ」


 行儀良く正座しながら、桃塚ひよみがあかねに説明する。この平屋は持ち主の大家から月一万円で借りていると言う。


 その大家が所有している田んぼも無償で借りており、米と大豆を自分で作り、庭の畑で野菜も作っている。


 庭にはロケットストーブと言う薪を燃料にガスの代わりになる道具を使い。平屋から少し歩いた所に湧き水が流れる場所があり、水もそこで手に入れている。


 丸尾は近くの農家の手伝いなどで収入を得ていた。つまり、アルバイト収入のみだ。


「月によってまちまちだけど、まあ平均月に七万円あれば生活出来るよ」


 一人暮らしなどした事の無いあかねには、それがどれ程凄い事なのか実感が湧かなかった。


「約八十四万。丸尾さんは一年をその金額だけで生活しているんだ。働くのは週に三日程度。残りの四日は休み。言い方を変えれば自由な時間が四日もあるんだ」


 荒島亮太がちゃぶ台に手にしたお茶を置き

、要を得ないあかねに説明する。岡山翔太は相変わらず無愛想に黙っている。


「まあ自由と言っても、家を直したり畑や田んぼでの作業。何かとやる事はあるけどね」


 丸尾はあぐらをかきながら、緩い表情で笑う。


「あ、あの。丸尾さんはどうして携帯電話を持たないんですか?」


 あかねは一番気になる事を口にして質問した。


「そうだね。普通皆はお金を稼ぐ為に一生懸命働くよね?でも、稼がない自由もあっていいと思うんだ。携帯電話もそれと同じ。持たない自由。周囲と繋がらない自由。そんな所かな」


 お金が無くても幸せに暮らせる。丸尾の気負わないその態度と声色に、あかねはそんなメッセージを感じ取っていた。


 四人はその後、丸尾の畑の草むしりや、近所で丸尾が懇意にしている農家の手伝いを行った。


 慣れない農作業に、あかねは普段使用しない全身の筋肉を酷使し、帰り道では歩くのもやっとの有様だった。


「うん!身体を動かすのはやっぱり気持ちいいわね」


 農家から譲られた大量の野菜が入った袋を両手に持ち、桃塚ひよみは疲れを感じさせず

機嫌良く歩く。


 そんなひよみの姿を眩しく見ながら、あかねは疲労から背を丸め最後尾を歩いていた。左右に田んぼが見える直線の道を四人は歩いていた。


 後方からバイクのエンジン音が聞こえた為

、四人は道の端に寄る。だが、あかねは足がもつれ、道の真ん中に倒れそうになった。


「危ない!!」


 あかねのすぐ後ろに迫るバイクを見て、荒島亮太が叫んだ。その時、誰よりも早く動き

あかねを抱きしめる者がいた。


「岡山君!!」


 桃塚ひよみが野菜の入ったビニール袋を落として叫ぶ。岡山翔平は飛び込むようにあかねを抱きしめ、あかねと翔太は土の上に倒れた。


 あかねは一瞬、何が起きたのか理解出来なかった。自分の顔は誰かの胸に抱かれていた


「大丈夫!?怪我はない!?」


 必死にそう呼びかける主の顔を、あかねは見上げた。そこには、心配そうにあかねを見つめる岡山翔平の顔があった。


 それは、普段無愛想な翔太の様子からは想像も出来ない切羽詰まった表情だった。


 ······トクン。


 波打つ様な音があかねの胸の中で鳴った。それは、胸の高鳴りだった。そして同時にあかねは感じていた。


 その胸の高鳴りは、遥か遠い昔に感じた物と同じだと。それが何時だったのか。あかねはどうしても思い出す事が出来なかった。


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