もう一人の私
たかしま りえ
1.女としての価値(1)隣家との広がる格差
「もう二十年も経つのに、私、何をやっているのだろう」
色褪せたポスターは杏子の心に重くのしかかってくるのだった。
リビングでは七十歳になる父がテレビドラマの再放送を見ている。母はキッチンで洗い物をしていた。
「おはよう、何か食べる?」
母は杏子がフィアンセとの同棲を解消し実家に戻ってきてからも意外と優しく接してくれていた。
「うん、何があるの?」
母はどこかのホテルでしか買うことのできない超高級パン屋の名前を口にした。隣の奥さんから貰ったのだという。
「うちではこんなパン、高くて買ったことないのだけれどね」
ちょっと嫌そうな顔をした。
隣の家族とは家族構成も年齢もほぼ一緒だった。同時期に新たに区画整理され売り出された分譲地に新築住宅を建て、長女が生まれ四年後には長男が生まれた。家を建てた当時は、父親の年収も同じくらいだったと聞く。だがその十数年後、二つの家族の明暗は残酷なほどに別れてしまった。
杏子の父は四十五歳でリストラされた。テレビCMが連日流されるほどの大手企業だったのだが、業績悪化を理由にかなり大規模なリストラが敢行された。父が家族にリストラの話をして以来、我が家から無邪気な笑い声は消えていた。父がリストラされても、テレビCMは相変わらず放映されている。そのことを家族の誰もが指摘したことはなかった。
一方、隣の家のご主人は無名の中小企業で役員にまでなっていた。無名というのは杏子たち家族が知らないだけで、知る人ぞ知る企業らしいのだが。とにかく、その会社から最近まで高額の給料を得ていたらしく、年金受給者になってからも谷川家の倍近くの収入があるという。
「隣のお姉ちゃんが帰ってくるときにいつも大量にパンを買ってくるのですって」
「そう」
同級生で幼馴染でもある隣の娘とは、父がリストラになる前からも親しくはなかった。母親同士は仲がよかったのだが、一緒に遊んだ記憶は数回しかない。きっと、馬が合わないというやつなのだろう。
「聡美ちゃんの旦那さん、四月から海外勤務らしいわ。高級官僚も大変だって言っていたわ。智和君も商社マンでどこかの国に赴任しているようだから、なかなか会えなくて寂しいってこぼしていた。うちは皆一緒でいいわねって嫌味を言われちゃったわ」
「そう」
母は隣の奥さんと表面上は仲良くしているようだが、内心では快く思ってはいなかった。そのことを本人は認めたがらないため、迂闊な事は言えなかった。
「聡美ちゃんのお子さん、もう十歳と六歳になるのよ」
「そう。ごちそうさま。これからバイトに行くわ」
杏子はまだ話足りなそうな母を残して、キッチンから逃げた。母の話の続きはわかっている。三十八歳ならまだ子どもは十分産めるのだから、結婚相談所にでも早く登録して相手を見つけろ、ということだった。結婚相手の条件も長々と話してくるのだが、現実の厳しさをわかってはいないので、聞いているとイライラしてくるばかりだった。
結婚相談所にはとっくの昔に入会を済ませていた。友だちの中にはスマホのマッチングアプリで結婚相手を見つけた子もいるのだが、既婚者に騙されたケースもあって、リスクが高いことも事実なため、杏子は老舗の入会金が高いことでも有名な結婚相談所を選んでいた。
初回の無料コンサルティングに出向くと六十代と思われるスレンダーでオシャレな女性が親身になってアドバイスをしてくれた。
「希望年収は八百万円以上ね~」
相談員は大きなため息をついた。
「駄目ですか?」
「そうね~、難しいかな。それと身長百七十センチ以上っていうのもね。嵐の大野君だって百六十六センチよ。充分カッコいいじゃない」
「はあ~」
杏子の希望が叶ったのは禁煙者という条件だけだった。結婚経験の有無の項目でも、結婚経験者の方がむしろ人間性があるとかないとか言われ、無理やり変更させられた。
家に帰り婚活についてホームページで調べていくと、『三十八歳の美人より二十代の普通の女性の方が有利』との記事を発見し、絶望感で胸が押しつぶされそうになるのだった。
身支度を整え玄関に行くと母が杏子を待ち構えていた。
「今日はあなたのお誕生日だからケーキを買って、ご馳走を作って待っているから早く帰ってきてね」
「八時には帰れると思うけど・・・」
母親から予定はないのかと詰め寄られるよりはマシかもしれないと杏子は思った。
家を出て隣の家と自分の家を見比べていた。隣の家は数年前に大規模リフォーム工事をして外壁もまるで新築住宅のようだった。それまで同じような築年数で同じように劣化していたはずなのであるが、その差は一気に広がってしまった。我が家の傷み具合がより一層顕著になり、母の不満が手に取るようにわかるのであった。
公園の桜の木が満開の花を咲かせている。桜の花の時期は短いけれども、毎年毎年変わらずに咲く姿が、童話に出てくる怖い魔女に見えてくる。
「桜の花を心から歓迎できないなんて、寂しい人間に私もなったものだ」
独り言をつぶやきながらバイト先の喫茶店へと杏子は重い足取りで向かった。
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