白昼夢と砂時計

ならさき

白昼夢と砂時計

 部屋の中の熱気だけは、冬になろうとも変わりはなかった。朝からあけていなかったカーテンと窓を開けると、肌を切り裂くような寒さと街中の看板の光が部屋の中に入ってくる。閉めてよ、とリナは小声で呟いた。服を着れば済む話だろ、とタバコに火をつけながら尖った口で返す。昇る白い煙はタバコなのか寒さのせいなのか分からない。ただ、リナの生々しい荒息だけは微かに聞こえた。

「もう一度、欲しい、打って」

「あのなあ、安くはないんだ。安いやつならやる。だけどどうなるかは知らないぞ。」

それでもいい、とリナは呟く。きっとどうなっても彼女にとっての世界は変わらないのかもしれない。もっと厳密に言えば、『彼女には変えられないところまで来ている』のかもしれない。

 窓際の椅子に座ってしまった重い腰はなかなか上げられなかった。寂しさに輪をかけるように『時計じかけのオレンジ』が薄暗い部屋を染める。それでも火の着いたタバコを咥えながら、テーブルの上にあるであろう錠剤を取りに行く。足元など到底見えない。測ったように椅子の角に足をぶつける。じんとした鈍い感覚と生暖かいものに包まれてる感触だけが足の指を覆った。痛覚はどうやら、もうやられたらしい。しかし、タバコのジジという燃焼音だけはハッキリと聞こえていた。

手さぐりに錠剤を手に取るとプチペキと包装から取り出す。そして1枚の紙に包んでウイスキーの瓶で力強く潰した。粉と言うにはあまりにも程遠い荒さだが、液体に溶かすには十分だった。

「ウイスキー、残ってる?」

残ってる、と言うと嬉しそうに「それに混ぜよ」とはしゃぐ。まるで5歳児が家族に連れられて公園に行くような、そんな無邪気な声で。

「どうなっても知らないからな」

コップに入っていたアルコール消毒液を窓から流し、その中にウイスキーを入れる。リナの声が癪に障ったので、あいつの分だけウイスキーの量を多くした。砕いた錠剤をウイスキーの中に入れると、砂時計のようにコップの底に沈んだ。もう二度と自分たちに時間は帰ってこないと暗示するかのようでもあった。

 ほらよ、と手渡すとそいつはすぐにそれを飲み干した。溶けきってない粉末とアルコールで喉に焼けきったような痛みが広がる。リナはベッドの上で噎せていた。体内に残っていたアルコールと新しく入ったウィスキーの味が混ざりあって、真っ直ぐに立てないような吐き気を催す。胃の奥底に溜まったドロドロを、不安のようなどす黒いものと一緒に飲み込んだ。心臓はバクバクと破裂する。フラフラとした足つきでベッドに身を任せる。奥にはリナが唾溜りを作りながら倒れていた。いつかに嗅いだ、路上に打ち付けられた魚の匂いがした。

 リナの顔からは熱を発していた。暗闇でよく見えなくとも、顔が真っ赤なことだけはハッキリと分かった。やれるのかよ、と呟くと、呼応するようにビクリとリナは体を震わせる。目は随分と虚ろながらも首だけは小刻みに縦に振った。

 やるとなるとあとは獣の仕業だ。意識などとうに果てていたため、何も考えてなどいなかった。ただ、快楽の穴に自意識を奥深く差し込んだ。二人は理性を留めようとひたすらに叫び喚く。しかしそれに身体が耐えることはなかった。ぎゃんぎゃんと叫ぶリナの声は溶けきった脳にチクチクと突き刺さる。不快感を拭いさろうと、掌をリナの首元に当てた。そこには確かに「殺気」が伴ってしまっていた。

 ビクビクと体を震わせたリナの振動が、脳を揺らす。糸の切れたあやつり人形となってしまった体は、リナの上に崩れ落ちた。そして静かに中へ快楽を吐き出すと、身体から魂が離れていった。


 体から離れた意識は夢を見た。あまりにも現実のような、いやまさに現実そのものの夢だった。蝉の声さえ煩わしく感じた教室。16の夏。怠惰と退屈にまみれていた生活は「平凡」と呼ぶに相応しかった。そこに突然突きつけられたのはあまりにも残酷で生々しい現実。腐った果実が木から堕ちるような、人生という物語を変えるには十分すぎる思春期のストーリーだった。

 この頃から1人でいることが好きだった。誰もいない教室に篭っては、敬愛していたボブ・ディランを聞いた。群れないと何も出来ない奴らに心底嫌気がさしていたので、友達なんぞ作らなかった。しかしながらこの狭い部屋に音楽だけでは、見える世界が変わる気など一欠片も感じない。だから必要だった。誰かこの薄暗い世界、自分の世界を壊してくれるような人間が。

 『ワンモア・カップオブコーフィー』が流れ終わると、誰かがそこにいた。リナだった。学校には悪ガキもいたが、リナはその類とは違う。ただひたすら教室の隅で絵を描いている、誰もが近寄り難い存在だった。リナはいつものように、ずっと1人で机に向かっている。ミュージックプレイヤーでは『ハリケーン』が流れ始めていた。

 その時はいつもとは違う空気漂っていた。それが何なのかはよく分からないが、確かに異なる、硬い雰囲気だった。普段誰とも話さないリナが、突然俺のイヤホン越しから話しかける。顔も見えなかったので何を言っているのかはよく分からない。あまりにも珍しい事だったので思わず聞き直す。リナはレコーダーのように再生した。

「ヒトのことって、信じる?」

呆気に取られた俺は何を言い返したのか全く覚えていない。なぜこの質問をしたのか。なぜ俺にしたのか。全く理解追いつかなかったからだ。

「いいこととか、悪いこととか、それはヒトの事じゃなくてヨのナカのこと。ホントにヒトの事って、ないんじゃない?」

「なんでそんなこと、俺に言うんだ?」

そう聞くと、リナは少し頬を緩めた。まるで子供が褒められた時のように。席をおもむろに立つと、こちらにつかつかと歩いてくる。リナは自分の腕をずいと突き出してきた。そこに居たのは俺だった。俺の名前が赤いインクで滴るほどに切り込まれていた。

 その時、押し寄せる波のように理解が押し込んできた。彼女は″本気で自分が人であることを信じられていなかった″のだ。だから見せつけた。″自分が人である理由″を。俺に求めたのだ。″人でありたい願望″を。誰にも明かせなかった″自己の存在″を。

 唖然と、ではなく、気味悪く、でもなく、ただ興味深かった。そこには自分の知らない「湖の底」が見えた気がするからだ。青春より、ボブ・ディランなんかよりずっと深い湖の底が。

「ねえ、これから夜、ずっと付き合ってよ。教えてよ。あんたしか多分いないんだ。教えてくれる人。」


 目を覚ますと、微かな陽の光が窓から差し込んでいた。ベッドに倒れ込んでいる自分の存在に気づく。まるでそれは自分ではない、肉塊を誰かからの視点で見ているような気分だった。俺のとなりでリナは、息もしないまま倒れている。

 いつかはこうなるとわかっていながら、リナの背中を押していた。コイツが死ぬも生きるも掌の上で転がっている。なぜなら、コイツにとって″リナの存在″は俺の中にあるからだ。

 飲みすぎたな。そう呟きながらキッチンへと向かう。転がるマグカップを洗い流し、聖水で喉を潤す。今までに飲んだ水の中で1番清々しい水だ。引き出しからナイフを引き上げ手に取る。慣れたような手つきだ。そこには感情なんかが入る余地は一切なかった。

 俺は思う。別れなんてない。コイツには俺がいたらしいが、俺はコイツのなんでもない。ナイフを静かに欲望に突き立てる。血が吹き出るように、砂のようにサラサラと自我と精神がこぼれ落ちていった。もう二度と自分たちに時間が帰ってこないように。

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白昼夢と砂時計 ならさき @taumazein066

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