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ぼくは窓の外を眺める。アパートの一階、庭付きで南向きの部屋、少し家賃は上がるけれど陽当たりがいいから気に入っている。今は晴天の夜空、相変わらず月はない。
「その町が、ぼくらの生まれた場所」
そういって重い溜め息をついた。久々に口にした、ぼくとミドリの生まれた町のお話。
「そうね」
当時ダイヤモンド製の人形だったミドリは改めて頷き、微笑った。あの町のこと覚えてる、彼女はついさっき、ぼくに問い掛けた。ぼくは答えた。忘れるわけないじゃない、って。その時も今とそっくりな顔でいた。ヒツジでなくなって以来、ぼくは表情を失っていたのだ。
そんなこと訊いてどうするのって。ぼくはそう思った。
「ぼくはそれはまるで神様が存在するってことと、同じくらい当たり前なのだと思ってたのだけど」
つんと、鼻を突く吐瀉物のような臭気。泣きそうになりながら絞り出した。
「君には違うの?」
彼女は困った顔で、「いえ、違わないわ」とそう言った。
だけど違うんだ。彼女にとっては、それはたくさんの花が咲いていてその中から一つの花を選んで摘み取るように、たくさんある出来事のうちの一つに過ぎないんだ。何度も生まれ変わった場所の一つ、けれどぼくにとっては彼女と出逢えたそこが全てだったし、それが自分の根底だった。根底が、無数に生まれるヒツジの、ほんの一匹だったからこそ今のぼくがいる。
それは仕方ないことなのか。ぼくと彼女は全然違う立場にあったものなのだから。彼女は不変の永久。ぼくは無限に並ぶ、瞬間。白っぽい黒と、黒っぽい白のように、似ているようで全く別のもの。だからダイヤモンドは美しいし、ヒツジは何頭も何頭もそこに存在するんだ。
「忘れるという字はあんなにも美しいのに、その行為はどうしてこんなにも悲しいのだろうね」
彼女が帰ってからしばらくして、ぼくは虚空に向かいそう問うた。
「何それは、詩のつもりなの。君は詩人のつもりなの」
虚空が問い返す。問われたぼくは答える。
「仮にぼくが詩人だとすれば、詩とは何と空虚な物だろうね。大抵、何かを作る機械には材料が詰まっているんだよ、本当なら」
声に色があるのならばその声はきっと白かっただろう。色の無い色。
でなければきっと黒だ。光の無い色。
虚空はぼくの心臓から肺へと移り、呼気と共に中から外へと流れ出た。虚空の抜けた分だけぼくの心臓は小さくなった。虚空は開口一番こう述べた。
「ならそれは詩でも歌でもない、ただの呼気だ」
そして大気に圧し潰される。
「君と同じ、それはつまりぼくと同じ」
ぼくもそう応じた。
「生きる意味はないな」
再び心臓から。
「死ぬ由もないけどね」
再び心臓へ。そして嘆息した。虚空は今、血管を流れ脳髄を満たしている。
ぼくは罪を感じた。虚空は鎖で、檻だ。そして看守で、ぼくで、その上記憶にない罪を背負った囚人だ。
メシアは――今は虚空は舌を流れている、言葉は発せない――進んで十字架に懸かったらしい。彼は何だかという弟子の裏切りを知っていた上で敢えて死を選んだという話。後から言うなら何とだって言える。彼は死んだとしても、結局復活したのだから。
「ぼくらの原罪という奴は」
舌は解放された。
「購われたのでないっけ」
すると耳が語り尋ねる。
「誰に」
ぼくは答える。
「神に」
「何と引き替えに」
と鼻が問う。
「生贄、痩せこけた息子」
ぼくは答えた。
虚空が虚空でなかったら、きっと虚空は嗤えたろう。
しかし虚空は笑えない。語れるだけで不可解だ。
「彼は『許す』の判も持たない、使い走りのホラ吹きだろう」
ならどうして、
「メシアは」
殺されたの、とぼくは。
それは単なる、
「判例さ」
と虚空。
「神への反逆もまた神の意志という判例さ」
「何、異教のかい。王のかい」
「天使の」
幾順目かの肺に流れていた虚空は溜息に乗ってまた吐き出され、今度はしばらく宙を漂った。瓦斯の詰まった風船よりかまだ軽いから、天井まで浮かび流れゆく。天井を突き抜けると思ったら、けれど、それは弾けて溶けた。そしてまた、忘れた頃にぼくの心臓にいる。
「銀貨は好きかい」
虚空は言った。
ぼくは嘲った。
「ぼくの心臓に持っているのは君だけだし、ぼくの友達だって君くらいさ」
その時ぼくはヒツジでなくなって以来、久方振りに表情という奴を思い出したけれど、それは想像していたより残念な物だった。
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