15年くらい前の酔っ払いが書いた小説

ポンデ林 順三郎

夕顔の町

*** 1/5

1/11

 今、ぼくとミドリはレコード・プレイヤーの隣に座っている。音楽は掛かっていない。我が家にあるレコードはたった一枚だけで、ミドリはその曲が嫌いだったからだ。レコード・プレイヤーは退屈そうに、小声でとりとめのないことを呟いていた。

 ぼくがこのレコード・プレイヤーと出逢ったばかりの頃、つまりぼくが人間になったばかりの頃、ぼくの家のレコード・プレイヤーは今よりずっと無口だった。レコードを掛けて電源を入れたって、歌い出してくれないこともあった。或いは、彼はぼくに対して人見知りしていただけなのかもしれない。それでも彼はぼくにとって、自分が人間になったことの象徴のような存在だ。それまでのぼくは単なるヒツジだったのだ。「メェ」と鳴く、あのヒツジだ。


 あの町のこと覚えてる、ミドリは不意に、ぼくに問い掛けた。ぼくは答えた。忘れるわけないじゃない、って。

 あの町はぼくの生まれた町だった。町のほとんどを埋め尽くすヘチマの畑に、大勢の土人形が溢れていた町。ヒツジだった頃のぼくが暮らしていた町。それから、ぼくがヒツジでなくなって、人間になった町。



 結構前の、晴れた夜。ぼくらは月の舌に抱かれていた。満月の夜ほど明るくはなかったから、たぶん月は三日月、ないし半月だったんじゃないかと思う。

 いくつもの土人形が与えられた仕事を放棄して、地面に還ろうと躍起になっている時、ただ一つ、他の土塊の中から際立って輝くダイヤモンド製の人形は、畑でヘチマを刈っていた。

 当時一介のヒツジだったぼくはそんな人形たちを横目に、彼らが守るべきヘチマの一つにかじりついていた。けれど、この畑のヘチマには傷が付いていなかった。霜の降りない町で、ヘチマに傷をつける物はないのだ。傷が無ければ、ひ弱なヒツジにヘチマを割ることなどできるはずがなかった。普通ならこの季節には、畑は霜で覆われていて、それが作物に尖った傷痕をつける。ところが、この町はもともとヘチマが育つ土地ではなかったし、ヘチマの苗どころか、種だって一粒もありはしなかった。そこへ他所から移植してきたわけだから、ヘチマの育ち方だって原産地とはまったく違ったものになってしまう。要するに、この町の畑のヘチマを、ヒツジは噛み砕けないと言うことなのだ。噛み付こうとしたって、それは頭の悪いガスタンクに身軽な猫が爪を立てるようなもので、どれだけ一生懸命に力を込めても、甲高い音を立てて耳をやられてしまうのが終いだろう。今のぼくならそれが解る。けれど、当時のぼくには解らなかったし、たとえ解っても、他に冴えたやり方が思いつくわけでもなかった。


 だからヒツジは死んだ。空腹によって。

 ヒツジの情熱の、惰性の結晶は、ヘチマの実にへばり付いてはいたけれど、ヒツジそのものは既に地に臥している。ヘチマも死んだ。本来、ヘチマはヒツジによってその皮を食い破られ、その穴から種をばら撒く。しかしその畑のヘチマの種はそのまま、腐って蕩けたヘチマの粘液に包まれて、粘液は琥珀みたいに硬くなった。鼻の奥を打つような異臭が滲み出て、畑の土を侵食した。黒い染みの広がった畑は、遠目には単なるアスファルトの地面にしか見えない。このまま侵食が進めば町はきっと、この染みに侵されてしまうだろう、誰もがそう思った。けれど、それを止められる者はいなかった。寂寞とした空気、寂寥とした大地。残ったのは腐った土。そして平面を滑るようにして走り回る土石流。


 ダイヤモンド製の人形は、砕け散った。それもまた空腹によって。

 ヒツジは死んだし、人形に元より命なんてこもってはいない。生きているのかどうかもわからない惰性の結晶は、それからもしばらく死ななかった。代わりに月が死んだのだ。落下した三日月ないし半月によって、その町は砕け散った。

 そうしてやっと、砕けた琥珀の隙間から種が散布された。

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