第22話 バグ大戦4

 リーディスは今、一条の光すら差さない闇の中に居る。彼はとうに五感を喪失し、目にする物、耳にする音のない世界をただひたすら彷徨(さまよ)っていた。


 このまま自分という存在も消えてしまうのかもしれない。いやそもそも、自分は本当に実在する人物なのか。今やそれすらも分からなくなる。


「全部夢だった、とかな……」


 呟いた声が耳にうるさい。いつぶりかに聞こえた音は苦痛に塗れていた。やがて自由になる口すらもつぐむ様になり、心までも静謐(せいひつ)に同化させようと心に決めた。


 どこまでも広がる無間の闇。脱出法などあるはずもない。エルイーザの思惑通り消えてしまうのは酷く悔しいのだが、自分に一体何が出来るというのか。その悔悟(かいご)の念すらも、やがて黒く塗りつぶされていくだろう。自我が暗闇に飲まれ行くとともに。


(……うん? 何の音だろう)


 遠くから何か聞こえた。最初は耳鳴りかとも思ったのだが、そうではない事に気づく。意識を集中させ、そば耳を立てていると、微かな物音は話し声なのだと分かった。より神経を研ぎ澄まし、音の輪郭を掴もうとすると、やがて全てを聞き取る事が出来た。


——ロックされているキャラです。この改変には管理者権限を必要とします。ロックされているキャラです……。


 それはシステムメッセージだった。抑揚無く繰り返される定型文だが、リーディスの心に活力を与えるには十分だった。生きようとする気力が聴覚を取り戻し、触覚もそれに伴って体に宿る。そこでようやく地面がある事に気付き、重力が働いている事までを把握した。


 歩ける。見えないだけで、地面を踏みしめて行ける。そう思うなり、彼はメッセージの聞こえる方へと進んだ。歩くほどに音は大きくなり、肌に微かな振動すら感じるようになる。それでも構わず進むと、視界は突如として眩い光に包まれた。


「うわっ。何だ!?」


 脳が痺れる程の痛みが走る。瞼を閉じ、顔を両手で覆ってもまだ痛む。


 耐えた。ただ無言で耐えるしか無かった。そうして眩しさに慣れて痛みが引いた頃だ。恐る恐る眼を開いてみると、今度は全く見知らぬ場所で立ち尽くしていた。


「ここはどこだ?」


 彼が戸惑うのは、周辺の建築様式が異様だからだ。床や壁は純白の石材で出来ており、そこに流線型の模様が黒色で細やかに描かれている。一面がモノトーンの世界だ。壁に備え付けられた松明の光が無ければ、色が消えたと誤認したかもしれない。


 リーディスが訪れた場所は深層界だ。ゲームプレイ時に使用される戦場マップや、住民が暮らす街中などの表層界とは異なり、深層界は通常の手段で訪れる事など不可能である。有り体に言えば没データが格納される階層で、ここも膨大なデータのうちの極一部分であった。


 もちろんリーディスにとって未知なるエリアだ。いやリーディスどころか、主要キャラの誰も知らぬ世界であり、全容を把握するのは創造主(プログラマー)ぐらいなものだ。


「このまま進んでも平気なのか? まさか、戻れなくなったりしないよな」


 リーディスは知らないなりに、奥へ奥へと向かった。カツリ、カツリ。一人分の足音が遠くまで響き渡り、その音が強い不安をもたらした。進むべきか、退くべきか。そんな迷いが生じた頃、不意に横から声をかけられた。


——よくぞ来た。我が末裔よ。


「ギャァアアーー!」


 リーディスは飛びのいて倒れた。心臓の鼓動が聞こえる程に早鐘を打つ。大暴れする左胸を押さえ、声のした方に眼を向けると、一体の彫像が見えた。それがただの像でない事はすぐに分かる。


「これってもしかして、勇者ダリウス……!」


 ダリウスとはリーディスの祖先にあたる人物である。ただし互いに面識など無く、物語の設定上で定められただけの血縁関係なので、さすがに親愛の情までは湧かない。それでも状況が状況だ。どこか運命的な巡り合わせで、窮地を打開するキッカケのようにも思えた。


 像と向き合いながら次の言葉を待つ。だがそれっきり、一言すらも発しなくなった。スイッチでもあるのかと思い、像をまさぐり、あちこち触れてみたのだが結果は変わらず。単なる置物に成り下がっていた。


「さすがに空耳じゃねぇよな」


 未消化な物を感じつつも、更に奥へと進んだ。すると、また同じ声がした。新たな彫像の前を通り過ぎようとした瞬間にである。


——勇者とは、特定の人物や血脈を指すのではない。危険を顧みず、他益の為に力を振るう者こそが勇者の資格を持つ。


 先ほどと同じだ。この像も、言葉を切ったきり無言を貫くようになる。


「他益の為……、つまりは皆の為にって事か」


 ダリウスの言葉はまだ終わらない。通路沿いの像を見かけるたび、力強く、そしてどこか温もりのある声が響き渡った。


——闇は多くを飲み込む。捉えようの無い恐るべき力。だが光だけは飲まれぬ。どれほどか細くとも、光だけは闇に飲まれぬのだ。


——心の煌めきを失ってはならぬ。手放せば、無明の闇に落ちる。そして永遠に明けぬ夜を抱くだろう。


 呟きは教えだった。薫陶(くんとう)だった。勇者という肩書きを、あくまでも役割の一種としか捉えていなかったリーディスにとって、ダリウスの言葉はどれも新鮮である。自分の宿命とは何か、本当の勇者とはいかなる存在か。彼は急速に学び、心の歯車を組み立てていった。


 だが残念な事に、ここで不純物が混じりだす。いくつかの像は全く不必要な言葉を晒したのだ。


——女体は尻が至上である。


——どのような尻に敷かれるか。それを選ぶ事こそ本懐である。


——引き締まった尻、肉の薄い尻。どれも良きものだが、やはり崇高であるのは垂れ下がった尻である。


 リーディスは足早になった。徐々にダリウスの言葉が疎ましく感じられ、遂には聞く耳さえも捨ててしまった。何もこんな場所で祖先の性癖を知る必要は無いのだ。


 それから彼が辿り着いたのは終着点だ。通路に先は無い。しかし宙に浮かぶ不思議な光球が、単なる行き止まりで無い事を如実に物語っていた。


「これは何だろう。何だか懐かしいような、でも初めて見るような……」


 光に吸い寄せられるようにして、リーディスの手が伸び、やがて球の輪郭に触れた。すると途端に光は輝きを増し、暴力的なまでに煌めいた。


——忘れる事なかれ。誰もが勇者と成り得るのだと。


——勇気の源は心の光。強大な闇を前にしても恐れぬ光。


 ダリウスの声だ。リーディスの脳裏に再び教えが流れ込んでいく。だが残念なのは没データである事だ。完成度が低いせいか、やはり不純物が混入してしまう。


——尻を愛でる時は五感で味わえ。


——人は見かけによらないが、尻は嘘をつかない。


——多角的に眺める事で真価を見出せるのは、困難も尻も同様である。


——尻、尻、美尻。


 音と光の濁流がリーディスの意識を遠のかせる。それでも彼は最後の気力を振り絞って叫ぼうとした。


「ダリウス、あんたはどうして……!」


 それ以上は言葉にならなかった。リーディスは急激な浮遊感を覚えるとともに、再び意識を途絶えさせた。


 どうしてそこまでケツに執着するのか。その一事を聞けないままに。


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