6-3.

 珍しく都心で雪が降った。


 街はうっすらと白いベールに包まれ、外に出ると身を切るような寒さに襲われる。


 年が明けたばかりの街は静かだ。


 どこもかしこも新年を祝うムードに包まれている。


 しばらくは、この平和が脅かされることはないだろう。


 何となくそんな予感がする、しっとりと穏やかな空気。


 三が日を終え、大学が開いた最初の日。


 特に来なければならない理由はないのだが、明人は西湘大学のキャンパスにいた。庭園の一角のベンチに腰掛け、白い景色を眺めている。


 隣には東雲もいた。


 二人とも、耳あてにニット帽、手袋までして完全防備だ。


 それくらいしないと、外で座談するには寒すぎる。


 まだ日が昇ってそれほど時間も経っていないのだ。


 ぴゅうと、風が吹いて木々を揺らした。


 「合格おめでとう、椎名。これで晴れて立派な情報部員だな」


 東雲が言って、ふと笑いを零した。


 後輩が無事に試練を乗り越えた、安堵の笑みだ。


 明人は前を向いたまま、何も答えなかった。


 不思議に思った東雲が尋ねる。


 「どうした? 何か不満でもあるのか?」


 「いや、別にそういうわけじゃ。ただ、色々あったと思うと、感慨深いんですよ」


 用務員が雪に足跡をつけて歩いていくのをぼんやりと眺めながら、明人は言った。


 九月からの約四か月間、長いようで、あっという間だった。


 途中、どうなるかと思った入部試験。色んな出会いがあり、障壁を乗り越え、ここまで来た。


 できる限りのことをして、合格した。


 何も不服はない。


 清々しい気分である。


 「それにしては、随分と浮かない顔をしてるじゃないか」


 東雲に指摘される。


 浮かない顔をしているつもりはなかった。


 ただ、手放しで喜ぶ気分にはなれなかっただけだ。


 「どうしてか当ててやるよ」と、いたずらっぽい顔で東雲が言った。「万騎が原と上手く行っちゃったからだろ」


 むっとして、明人は東雲を睨んだ。


 「そんな軽く言わないでくださいよ!」


 「はは、図星だったか」


 そう。図星だった。


 「そうですよ、その通りです。それなのに、えりかはまだ俺の正体を知らない。断ってくれた方が、まだ気が楽だった」


 「ターゲットに情を寄せちまうってのは、本当はアウトなんだけどな」


 クリスマスイブの夜、えりかは明人の告白を受け入れた。


 二人は交際関係になった。


 元よりそういうミッションだったのだから、本来は何も気に病むことはないのだが。


 明人は本気でえりかが好きなのだ。


 えりかはその気持ちを受け入れてくれた。


 そのえりかは、明人のことを湊大学の椎明だと信じ切っている。


 恋人を騙し続ける罪悪感。


 試験後は、ターゲットに正体を明かしてはいけないという縛りは消える。


 だからと言って、重荷が消えるわけではないのだ。


 急に真相を話すわけには、もちろんいかないから。


 とは言え、親密な関係の中でいつまでも隠し通せることでもない。


 東雲の言う通りなのだ。潜入員として、ターゲットに情を寄せてしまうのは致命的なミスなのだ。


 取り返しのつかない失敗。


 明人の頭を悩ませているのは、それだ。


 ちなみに、明人の潜入活動は部内で評価されており、告白が失敗しても合格要件は満たしていたらしい。


 『告白を成功させる』というミッションではあるが、入部試験では達成へ向けてのプロセスが重視され、必ずしも成功せずとも合格の場合もある、というのは合格を告げられた後に教えられたことだ。


 断ってくれた方が良かったという明人の本音は、その事実によるものである。


 「まあ、そう気を落とすなって。元より、情報部員の毎日はそんなに楽なものじゃない。その種の葛藤はカルマだ。そう胸に刻んでおけ」


 東雲からスカウトを受け、憧れた秘密情報部員。


 試験を乗り越え、やっとなれたのだ。


 東雲の言う通り、こんなことで気を落とすようでは先が思いやられる。


 とは言え……ああ、恋情とはなんて厄介なものなのだろう。


 しばらく気が晴れそうにもない。


 ぼんやりとしたままの明人を、東雲は困った顔で見やる。


 自分が見定めた後輩。実力は確かだが、この一面は予想外だったのかもしれない。

東雲は励ますように明人の肩に手を置いて言った。


 「それにお前、くよくよしてる場合じゃないだろ。柳のやつと共同戦線を張るんだよな? 恋煩いが原因でミスりましたなんて、うちの名に泥を塗るようなことだけはやめてくれよな」


 入部して早々、明人はミッションに就くことが決まっていた。


 湊大学の裏サークル、冬枯れの花園のトップ、大川原雅史の行方を追うKCIAの柳りりなへの協力だ。


 冬枯れの花園は年々規模を増し、今では他大学へもその勢力が広げつつあるのだという。


 これを危機と見なした秘密情報部の上層部から直接、明人に指示が下ったのだ。


 湊大学の潜入生活は続く。


 くよくよしてる場合ではないことは、確かだ。




 この日は入部手続きをしに学校へ来ていた。


 とは言っても、大学公認の団体ではないため簡単な意志確認程度のものだ。


 手続きを終えた明人は、その足で港南学院大学のキャンパスへ向かう。


 りりなと会って、これからの方針を話し合うのだ。


 引き続き、ハルとまりなの協力を得ながらの計画となるだろう。


 明人の潜入捜査が要だ。


 入部早々ではあるが、それだけにここが正念場となる。


 気を落としている暇は、ない。



    *



 冬休みが終わると、試験期間まではおよそ二週間しか時間が残されていない。


 試験が近づくと、サボり気味の学生たちが急に揃って授業に出てきたり、学内で自習に励む学生が多くなったりして、キャンパスの人口密度が少しだけ高くなる。


 賑やかな光景を見て、ああ、もうすぐ試験か、という風に感じることができれば、それはキャンパスライフに馴染んだことの証と言えるだろう。

 

 湊大学市谷キャンパスに、四限終了を知らせるチャイムが鳴った。


 それを合図に、あちこちの教室からわっと学生たちが出てきた。


 すぐさま廊下はラッシュ時の駅のホーム顔負けの混雑具合を見せる。


 わらわらと湧いてきては、各々の方面へ向かっていく学生たち。


 その中で、神楽校舎のある教室から一人、小走り出てきた学生がいる。


 ブラウンのロングボブが可愛らしい女子だ。ベージュのロングコートに臙脂のミディアム丈のスカートを合わせたガーリーなコーデ。白のふわふわのマフラーが温かそうだ。えりかである。


 彼女は教室から出たところで一度立ち止まった。そして、スマホの画面に目を落としたまま一歩踏み出し、目の前にいた学生に頭突きをして悲鳴を上げた。


 「すみません!」頭を下げ、逃げるようにその場から去る。


 人混みを縫って階下へ向かう。焦っているようだが、その顔にはうっすらと笑みが広がる。


 一階に辿り着いた。


 校舎の入り口前の広間は待ち合わせ場所としても定番で、この時間はラッシュのピークだ。


 きょろきょろと辺りを見回す。人が多すぎて、思うように身動きも取れない。


 と、そうしていると後ろから彼女に声をかける者があった。


 「えりか」


 くるりと振り返ったえりか。


 にっこりと、満面の笑みを彼女は浮かべていた。


 例え不安で胸がいっぱいだったとしても、隅から隅まで綺麗さっぱり消し飛ばしてくれるような。


 目を合わせるだけで、明るい希望と活力をなみなみと与えてくれるような。


 そんな夢のような笑顔が、そこにはあった。

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秘密情報部 ~ミッション:他大学にモグって身バレせずに告白を成功させる~ おかか @okaka-okaka

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