5-4.
リベラルタワーの反対側の端に位置するオルガン坂校舎。
この校舎は大半の部分を小教室で占められていて、語学などの少人数制の授業で使われることが多い。パソコンが使える情報ルームや学食はあるものの、メジャーな授業が行われることが少ないため、一般学生にとっては比較的利用頻度の低い場所だ。
とは言っても、それは全ての学生に当てはまるわけではない。この校舎の地下には音楽練習室があるので、音楽系サークルに所属する者にとっては馴染み深い場所だ。
湊大学最大の軽音サークル『Rocking Hunters』に所属するララもその例外ではない。『ヴァネッサ』の練習の大半はこの場所で行われてきた。
怪奇現象に遭遇し、後輩の男子と突如現れた謎の巫女にララが連れてこられた先は、この音楽練習室だった。
果たしてそこには、彼女が最もよく知る三人の顔が揃っていた。
花月園えみり、成瀬瑠璃、浦賀愛美。バンドの仲間たち。
あっけに取られて固まるララ。バンドの仲間たちは自分を待っていたかのようにこちらを見つめている。
いつの間にか、隣にいたはずの巫女の姿がなかった。確かに一緒に入ってきたはずなのだけれど。
一緒にやってきた後輩男子は一歩後ろに下がり、何やら申し訳なさそうな顔をしている。どういうことかと尋ねても、「いや……」と、曖昧な返事しかしない。
いくらなんでもはちゃめちゃだ。
自分ではどうすることもできないと悟ったララは、状況を理解しようとする努力を早くに捨て、冷静さを取り戻していた。
さて、事態を乗り切るには、この空間で事情を一番詳しく知っていそうな人たちに聞くしかないだろう。
ララは救いを求める眼差しを仲間たちに向ける。
と、そこで後ろにいる明が「ララさん」と声をかけてきた。
とても申し訳なさそうに、委縮した声だった。
ちらと振り返ると、明はそこで平身低頭、頭の上にボードを掲げ、そこにはこう書かれたいた。
『ドッキリ大成功!』
ララはしばらく思考停止したように固まり、やがて小さな穴の空いたタイヤのようにふっとため息とも笑い声ともつかない声を出した。
タイヤの穴の数は徐々に増えていき、は、は、は、とそれは途方のない呆れをこめて低音に変わっていく。空気が抜けきったララはだらりと呆けた顔をして、力が抜けたように体勢を崩してその場にぺしゃりと座り込む。
――理解した。
まんまと嵌められた。
ララは魂の抜けた笑顔をそこでしばらく浮かべていた。
業を煮やしたえみりたちに、あらぬ手を使ってここまで誘い出されたのだ。
思えば自分の殻に閉じこもるようになってからもう一カ月だ。
突然登校しなくなり、連絡もまともに取り合わなかった。
気持ちが萎えてしまい、何をする気も起きず、自棄になっていた。このままではいけないとわかってはいたものの、一度崩れてしまったプライドや夢を含んだ自分という柱は元が堅固だっただけに簡単に修復が効かず、結局ララはこれまで支えのないまま地べたから起き上がる気力すら取り戻せなかった。
つけが回ってきたのだ、とララは妙に納得のいく気分だった。
それにしても、えみりたちの気持ちは痛いほどわかるのだが、もう少しやり方というものがあるのではないだろうか。もはや笑うしかない。
ララさん、と明から再び呼びかけられ、ララは顔だけをそちらへ向ける。
友人の一年生は申し訳なさそうな表情は変わらずとも、少しだけ人の良さそうな笑みを浮かべて、ララにだけ聞こえるくらいの声で言った。
「ララさんの歌がまた聴けるのを、楽しみにしてますよ」
そして一礼して部屋を去っていく。
残されたのは自分たちだけ。
さて、何を言われるのやら、とララは観念して仲間たちに向き直った。
*
次はこれ、と言ってハルが再生した映像はライブハウスでの映像だった。現在のヴァネッサのメンバー全員が映っている。
東京駅前での路上ライブの映像は、映っているのがララとえみりだけだったから彼女らが一年生の時の映像だろう。
映像の中での二人はしかし、今と比べたら多少幼い感はあるものの、この頃からオーラ抜群なので初々しい大学一年生という感じは全くしなかった。
今流れている映像に映るえみりは前よりも表情があどけなく見えるが、むしろ表情豊かな大人の女性という感じが増しており、ララは全体的にさらに明るく、鮮やかになっているようである。
瑠璃と愛美は、先程音楽練習室で見たイメージと何ら変わりはない。
セミロングの黒髪に無造作に青メッシュを入れた瑠璃はベースの超絶テクを披露することに集中しているようで、あまり顔を上げて表情を見せることがない。メンバーの中で最も神秘的な雰囲気を醸し出している。
愛美はともすればララよりもエネルギッシュだ。その有り余る元気さは爆発的で、漲る力を惜しみなくドラムに打ち付ける姿は並みの精神なら腰が引けてしまうほどの迫力がある。
明人は無意識のうちにヴァネッサのライブ映像に見入っていた。
確かに彼女たちには、人を魅了する何かがある。これまであまり彼女たちの音楽に興味がなかった明人も、この時初めて、いいかも、という気持ちになったのだった。
映像が終わったところで、明人はハルに尋ねた。
「ところで、どうしてこの動画を俺に?」
既に巫女装束から普段着に着替えを済ませているハルは、特に感情のない声で言った。
「ララの太ももを見たくてもじもじしてるようだったから」
「はあ?」と明人は呆れ返ったが、ハルはお構いなしに続ける。
「くっつかれて嬉しそうにしてたじゃんか」
ララを家の中からおびき出し、路上で偶然を装って鉢合わせたときのことを言われているのだと気が付いた明人はギクリと怯んだ。
あるはずのないヘッドホンに戦慄したララにしがみつかれ、確かにドキリとはした。変装していたハルに見られて、絶対に後でからかわれるともその時に覚悟した。
ララのような女子に触れられてそうならない男子はそうそういないだろう。
動揺したことは否めない――が、しかし!
嬉しそうには絶対してない!
「あれは不可抗力です。あの状況で俺にどういう反応をしろと!」
「素直な感情を表せばいいだろ。嬉しさのあまり昇天しそうだって表情を浮かべてさ」
「俺が嬉しがってた前提で話すのやめてください。嬉しくなんか全然ありませんから」
「嘘つけ。勃ってたくせに」
「勃、勃ってねえ……」言いかけて、明人は途端に顔を真っ赤にして怒鳴った。
「って、ハルさん!」
厄介なのが、これでもハルは容姿の面ではこの上なく優れているのだ。
ララが可愛らしい美少女ならば、ハルはひたすらに綺麗で妖艶な美女である。それでいながら――これは明人が最近になって気がついたことだが――ハルはあどけない笑顔をする。
純真さを顔全体にうっすらと満遍なく染み渡らせたようなハルの笑顔は、正直、とてつもなく可愛い。
明人は既にえりかに対しては好きだという感情を抱いていたので、えりかに対する可愛いとはまた別物ではあるが――しかし、ハルは卑怯だ。
卑劣と言ってもいい。何故ならば、彼女は間違いなく確信犯だからである。明人が何も言い返せないことを、ハルは知っている。
明人の怒りは、男子の夢を砕くことを躊躇せず、その才能を己が欲を満たすためだけに乱用せんとするハルに対する義憤であった。
明人は久しぶりに本気で怒りに駆られた。
しかし、何をしたところで、自分がハルに対して影響を与えられることはないという諦めも既にあった。
そして予想通り、ハルから返ってきたのはせせら笑いである。
「ほーん。あれほどの美少女を前にして何も感情が湧かないと? そりゃ男として終わってんな」
「ハルさん……あんたって人は……」
五臓六腑が煮えくり返りそうなこの思い。鬱憤を晴らせない、耐え難い屈辱感。
気にするだけ損だ。明人はこれ以上付き合うことはないと決め、そっぽを向いた。
ハルはけらけらと笑い声を上げた。
思えば、ハルの快活な笑い声というのは初めて聞く気がした。
陰湿な性格に反して笑うときは気持ちよく笑うんだな、と明人は意外に思った。
そして同時に、心地の良い声が彼女に対する反感をも消してしまいそうになるのが気に入らず、むしゃくしゃとするのだった。
明人はハルと二人きりで神楽校舎地下にある桜堂組事務所――否、ミナトフィルムズの会室にいた。
長らく他愛もない話に花を咲かせていると、ふとドアを叩く者がある。
会室のドアは基本的にオートロックだ。そのサークルに所属する学生であれば学生証をリーダーにかざすことで解錠できるが、そうでなければ中から誰かが開けてあげる必要がある。
ノックの音を聞いたハルは無言でドアを開けるよう、明人に目で指示をした。明人はせめてもの反抗としてハルを睨みつけてから、渋々と出入口へ向かい、扉を開く。
ぼかしの入ったガラス窓越しでもそれとわかる鮮やかな赤髪。誰が来たのかは明らかだった。
「お邪魔しまーす。どうも、お待たせしました!」
金のイヤリングがきらりと煌めいた。やってきたのは愛美である。明人とハルの二人は、ここで愛美を待っていたのだった。
「上首尾?」と明人が問うと、愛美は力強く親指を立てて笑ってみせた。
良かった、と明人はほっと撫で下ろした。事態に関与した者として、良い結果が出てほしかったというのが本音だ。
愛美は事の仔細を説明し始めようとした。だが、席から立ち上がったハルがそれを制した。
「詳しい話は後にしよ。三人揃ったことだし、まずは店に向かおう。りりなたちが待ってる」
そうですね、と愛美は嬉しそうに頷き、喜びの声を上げた。
「ん~~、飲み会楽しみ! 久しぶりに飲むぞお」
もちろん彼女は未成年であるが、それを咎める者はここにはいなかった。
北星川ララ救出ミッションに関わった者たちで、これから打ち上げなのである。
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