5-3.

 画面に東京駅が映っている。


 時刻は夜だ。ライトアップで辺りがきらきらと光っている。

 

 駅前の広場の一角に人が集まっていた。

 

 中心にいるのは女性二人。片方はマイクスタンドの前に立って歌い、片方はバイオリンを演奏している。

 

 その綺麗な歌声と音色に、誰もがうっとりと聴き入っていた。


 人の数は徐々に増えていく。曲が終わると、辺りは盛大な拍手に包まれた。


 観客の声援に応えながら、二人は次の演奏の準備に取りかかる。


 今度は二人ともギターだった。鮮やかなカラーリングが施されたエレキである。


 そして、演奏が始まった。


 先程のバラードとは打って変わって、重低音が響き渡る。

 

 二人の可憐なイメージとはかけ離れた攻撃的なサウンド。息もつかせぬリズム。

 

 しかし、そこにひとたびボーカルの歌声が乗ると、曲のイメージは一変した。闇夜に差し込んだ一筋の光ように、その歌声は聴いた者の世界を塗り替えた。

 

 演奏が終わる頃には、始まった時と比べて観客が倍に増えていた。拍手はしばらく鳴り止まなかった。

 

 やっと落ち着いたところで、演奏していた二人がマイク越しに話した。

 

 「湊大学一年の北星川ララと……」

 

 「花月園えみりです」


 「私たち、大学で二人でバンドをやってます。今度の学園祭でもライブやるので、良ければ聴きに来てください!」




     *




 とあるタワーマンションの一室。


 日が陰り出すこの時間帯、部屋の窓からは赤らんだ空に覆われてゆく街が一望できた。


 見渡す限り、ここよりも高い建物は数えられるほど。この家が相当の高層階であることを伺わせる。


 埃一つ落ちていない清潔なこの部屋に、今扉を開けて入ってきた姿があった。


 ミニスカ×タイツがこれほどまでに似合う者が他にあるかと疑問を呈するような抜群のスタイルの持ち主だ。ララである。


 家の中でもトレードマークのツインテは変わらない。


 数種類のギターやシンセサイザが置いてある自室をピンク色のもふもふとした可愛らしいスリッパですたすたと歩いていき、ララはデスクの前の椅子に座った。ゲーミングチェアのような大きくしっかりとした椅子だ。


 デスクには二十七インチのディスプレイがあるが、電源はついていない。


 ララは椅子に深く座り込み、ディスプレイの前に置いてあったヘッドホンを耳に装着した。


 デスクの上から今度はスマホを手に取り、操作する。座ったままキャスターを転がし、窓際に移動した。


 音楽を聴きながらぼんやりと景色を眺める。自宅にいるときのララの習慣である。

 

 スピーカーもあるが、外に響くのでスピーカーではあまり音量を上げることができない。BGMとして音楽を流しておくのにはいいが、ゆったりと自分の世界に浸りたいときはヘッドホンを使った方がいい。愛用のヘッドホンの音質は申し分ない。


 さて、とりあえずいつものあの曲を聴こうか。


 ララは再生ボタンを押す。

 

 何度聴いたかわからない、しかし何度聴いても飽きることのないイントロがいつも通り流れ出すのに身を任せる。


 

 ……任せようとしたのだが、ララの期待を裏切り、ヘッドホンからは音楽が再生されなかった。

 

 代わりに、お経が流れ出した。

 

 ララは眉を顰め、ヘッドホンを外した。

 

 

 何故に、お経?

 

 

 確かにスマホとブルートゥースで接続して、この曲を選んだはずなのだけれど……。

 

 

 ――いや、接続されていない。

 

 

 よく確かめてみると、スマホの方が接続待機状態になっている。

 

 なら、ヘッドホンを繋ぎ直せばいい――ララはヘッドホンを確かめてみて、首を傾げた。

 

 ヘッドホンは接続完了している。

 

 しかし、改めてスマホを見てみると、こちらは待機状態。

 

 二つの機器を見比べながら、ララは頭の上にはてなマークを浮かべた。

 

 試しにヘッドホンをもう一度着けてみる。

 

 やっぱり、お経が流れている。



 南無阿弥陀仏。一体何に接続されたっていうの?

 


 ララの意思とは関係なしに、お経の音量が上がり出す。


 ララは堪らずにヘッドホンをベッドの上へ放り投げた。すぐに大音量と化したお経が部屋全体に漏れだし、ララは慌ててヘッドホンの電源を切った。

 

 お経は鳴り止み、不気味な沈黙が訪れる。


 ララは両親と三人でこの家に暮らしているが、共働きの両親はまだ仕事から帰ってきていない。家にいるのは彼女一人である。


 ララは特段怖がりというわけでもないが、この怪奇現象はさすがに不穏に思った。


 百歩譲って別の機器が間違ってヘッドホンに接続されたのだとしても、うちにはお経を流すような機器はない!

 

 と、そのとき、こんこんと窓が叩かれる音がした。

 

 何だろうと窓を見やって、ララは目を見張った。

 

 

 誰かいる……。

 

 

 窓枠の下から顔を半分出すようにして、部屋の中を覗く男がいた。

 

 ここは、地上五十階を越えるタワーマンションの上から数えた方が早い階にある家である。

 

 

 ――超常現象。

 

 

 ララはすっくと立ち上がると、ハンガーラックからダウンのコートをひったくるように取って羽織ると、そそくさと部屋から出た。

 

 そのまま逃げるように家を出る。

 

 かつてないほどの早歩きで廊下を行き、エレベーターに乗り込む。

 

 階下へ向かっている間、ララは終始無言で俯いていた。その額に浮かんだ微かな汗のしずくで、前髪が濡れる。腕を組み、何か考え込んでいる風である。


 一階へ到着すると、ドアが開くや否や抜け出し、思案中のポーズのまま早歩きで建物から飛び出す。

 

 夕暮れ時の街。ララは必死に思考を巡らせていた。外へ出たのは、もちろん何か具体的な目的があったわけではない。


 先程起こった出来事が信じられず、そのような信じられないことが起こったという事実を受け入れられなかった。日常的な風景に溶け込んで、あれは夢だったと思いたい。

 

 道路の反対側、交差点の角にあるスペースに屋台が数件並び、小さなお祭りの様相を呈していた。簡易的な舞台の上で太鼓の音が鳴り響き、周囲の注目を集めている。


 おかしいな、お祭りの予定なんてあったっけ? それも、こんな場所で。

 

 心なしか、人の数が異常に多いように見えた。がやがやと、歩道から溢れるほどだ。お祭りにしても、規模に対して異様に人が多い気がする。 


 不思議に思いながらも、牧歌的な光景に少しだけ心を洗われるようで、しかしまだ平静を取り戻すには至らない

 

 一心不乱になっていたから、前を見ていなかった。

 

 道へ出たところで、そこにいた人に思い切り突っ込んだ。


 「あっ、すいませ……」

 

 と、言いかけ、顔をあげたところで言葉を止める。

 

 偶然にも、ぶつかった相手は知っている顔だった。

 

 「あれ、ララさん?」

 

 驚いた顔をして振り向いた相手は、同じ大学の学生だ。


 文学部の一年生。IEPという英語の授業で一緒の男子だ。

 

 「明! こんなところで何してるの?」


 ララが動揺している顔というのは、滅多に見られるものではない。自身のカリスマ性に裏打ちされた絶対的な自信を彼女は持っており、それ相応にプライドがものすごく高いのだ。


 それでいて性格はクール。滅多なことでは動じないことは、彼女に近しい者がよく知っていることだ。


 そんな彼女が険しい表情をしていれば、誰もが何事かと訝しむ。

 

 明という男子も、その例には漏れなかった。

 

 「こっちの方に用事があって、来てたんです。これから帰るところ。ララさんの方こそ、どうしたんですか? そんな幽霊でも見たような顔して」

 

 幽霊。


 その言葉はあえて考えないようにしていた。そんなものはいないと信じていたからだ。


 しかし、その言葉はパズルのピースのようにぴったりと先程見た光景に当てはまる。

 

 

 もしかして、本当に、そういうことなのだろうか?

 


 「ちょっと、ね。えっと、私、このマンションに住んでるから」


 ララは身の毛がよだつ思いを必死に堪えながら言った。


 こういう場合に、どう説明をしたらいいものかわからない。

 

 怪しまれるかとも思ったが、明からは率直な反応が返ってきた。


 「ええ! このタワマンですか? うっわ、めっちゃ金持ち」


 曖昧な笑みをララは返した。

 

 動揺を悟られたくなかった。心臓がどくどくと鳴るのが収まらない。


 まさかこの一年生に幽霊を見たかもしれないなどという話をするわけにもいかないだろう。まだ考えが定まっているわけでもないし、プライドというものがある。

 

 と、ララが内心で気まずい思いをしていると。

 

 明がふとララの背後に目線を止めて、そちらを指差して言った。


 「あれ。後ろにヘッドホン落ちてますけど、ララさんのじゃないですか?」

 

 「え?」


 そんなはずはないと思いながらも、ララは反射的に後ろを向く。

 

 ヘッドホンは自室のベッドに放りっぱなしだ。本当に落ちてたとしも、自分の物ではないだろう。


 と、いうかヘッドホンが道に落ちているなんて、随分と奇妙だ。想像してみると、シュールな光景。

 

 そのシュールな光景を実際に目にしたララは、その一瞬、衝撃のあまり時間が止まったような錯覚を覚える。


 深い深い水の中へどぼんと飛び込んだ感覚に似ていた。自分の知らない、どこか違う世界。

 

 紛れもなく自分のヘッドホンだった。

 

 特注のデザインだから、間違いようがない。

 

 あり得ない。

 

 理解不能――

 

 「あの、ララさん?」

 

 明が戸惑ったような声を上げたので我に返る。

 

 思わず明の腕に縋り付いていた。

 

 「あ……ごめん」

 

 ゆっくり手を放した。

 

 明は何やら気まずそうに目を逸らした。

 

 悪いことをしたと思いながら、ララは気が付いたら明の横顔をまじまじと見つめていた。彼女の目には、明ではない別の人の姿がそこに重なって映っている。 


 そして頭を過ぎった考え。そんなことを考えてしまった自分に気が付き、自嘲するように笑い、すぐさま頭から取り去る。

 

 そんなことを考えても、仕方がないのだ。

 

 人の気配を感じて振り返る。

 

 どこからともなく現れた人物がヘッドホンを拾っていた。

 

 白衣に緋袴。目に鮮やかな巫女装束。


 絵に描いたような美形の巫女だ。すらりとした体躯に、後ろで一括りにされ、腰まで伸びる黒髪。

 

 こんな街中にいては明らかに不自然な存在。街ゆく人の足を止めさせ、視線を集めている。


 巫女は崇高な代物を取り扱うかのように慎重にヘッドホンを持ち、しばらく観察するように眺めてから、ものものしい声で言った。


 「このヘッドホンは、呪われている」


 「へ?」と、思わず素っ頓狂な声を上げたララに、巫女は軽やかで、しかし厳かな足取りで近づいてきた。


 「これはお前の物か?」

 

 「そう……だけど……」

 

 まるで見えない糸で縛り付けられたようだった。


 巫女の声は静かではあるが、ララでさえ及び腰になってしまうほどの気迫が、まるで蒸留された高濃度のアルコールように奥底にこもっている。


 抵抗すれば、恐ろしい目に合うと本能が訴えている。

 

 巫女はその細く美しい腕を振り上げると、答えたララの腕をがっしりと掴んだ。

 

 予想以上に力強く、ララは成す術もなく巫女に引きづられる。


 「祓わねばならん。一刻も早く。このヘッドホンの持ち主はこれまでに全員死んでいる」

 

 それ、特注で買ったんだけど……と、いうララの呟きは無視された。


 車道の際までララを引きづった巫女は、走りゆく車を見やる。

 

 タクシーを探しているようだった。

 

 「俺も一緒に行きます」と、明が駆け寄ってきた。

 

 わけがわからないまま、ララは二人に連れ去られていく。

 

 向かいの歩道で踊りが終わったようで、ありがとうございましたー、と陽気な声が響いた。

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