5-2.

 ある日、えりかは図書館の閲覧室で自習をしながら鼻歌を歌っていた。

 

 歌っているのはヴァネッサの曲である。先程から何故だか頭の中からメロディーが離れず、気づかぬうちに歌い出していたのだ。


 それは何曲にも及んだ。


 ある曲の歌い出しだけ歌ったり、またある曲のサビだけ歌ったり。頭の中に次から次へとメロディが浮かぶので、それを鼻歌でひたすら辿っていた。

 

 と、そんなときだった。

 

 突然、どこからともなく隣に誰かが現れた。

 

 「ねえ、そんなにヴァネッサの曲好きなの?」

 

 えりかはぎょっとして振り返った。

 

 話しかけてきたのは、髪を鮮やかな赤に染めた女子だった。

 

 その顔を見て、えりかはさらに驚き、思わず声を上げた。

 

 「って、ええ、愛美さん!?」

 

 それがえりかとヴァネッサのドラマー、浦賀愛美の出会いだった。

 

 愛美はえりかと背中合わせの席で、ヴァネッサの曲のドラムのビートを貧乏ゆすりで刻んでいた。


 えりかは課題に集中するあまりそれ自体には気が付いていなかったが、耳に入ったリズムから無意識の内に曲が脳内再生されていたのだ。

 

 愛美は自分の刻んでいるビートに合わせて後ろの学生が完璧に鼻歌を歌っていることに気が付き、面白くなってしばらく色んな曲をランダムに演奏した。


 あまりにもえりかのレベルが高いため、気になって声をかけたというわけだ。

 

 偶然の出会いを経て二人は意気投合した。


 すると当然、えりかと仲の良いまりなも、えりかを通じて愛美と関わりができる。

 

 愛美はサボり魔で、既に単位が危うい科目がいくつもあった。


 えりかは愛美に協力的であったが、まりなは違う。論理学の課題の期限が今週までだと知らなかった、内容を教えてほしいと懇願されても、サボった罰だと突っぱねられてしまう。


 提出できなければ、愛美は落単確定だ。


 どうにか、どうにかと付きまとわれ、痺れを切らしたまりなは代わりの人を紹介すると言って、明人を呼び出した。

 

 もちろん、明人が論理学を取っているというのは全くのでたらめの話だ。

 

 えりかが愛美と知り合ったという話は、本人から少しだけ聞いていた。

 

 まさか、こんな形で自分も出会う形になるとは、明人は思ってもみなかった。


 

 …………


 

 論理学の課題はさておき。

 

 明人は浦賀愛美に会ったら、やるべきことがあった。

 

 それは、一カ月前にララと交わした約束。

 

 ララとはあれ以来会っていない。学園祭以来、ララはIEPに来なくなってしまったのだ。

 

 聞いた話によると、大学にすら来ていないらしい。

 

 えりかは愛美から、ララが体調不良でしばらく療養しているのだと聞いてそれを信じているようだった。キャンパス全体でもそれが通説となっている。


 しかし、明人はその通説に疑念を抱いていた。本当は、何か違う理由があるのではないか?


 その疑念は一カ月ほど前、ひょうんなことからララと夕食をともにした日、ララとの会話から生まれたものだった。


 あのとき、ララが口にした言葉。それが意味するところは明人にはわからない。


 何にしろ、明人はララから愛美へ伝言を頼まれていたのだ。


 愛美に会うことがないし、わざわざ探して伝えに行くというのも相手が大物だけに何となく憚れるので、これまで果たせていなかったのだ。

 

 ここぞとばかりに、明人は事の仔細を愛美に話した。

 

 そして、話を聞き終わると、愛美はさもつまらなそうに「ふーん」とだけ言った。

 

 「えっ。反応薄!」

 

 あまりに素っ気ない反応だった。


 これが超大作のクライマックスへと繋がる伏線だと思っていた明人は拍子抜けし、言葉が出て来ない。


 愛美はバンドメンバーの意味深な言葉に動揺するどころか、心なしか少し楽しそうな表情を浮かべていた。ララの言葉の意味には興味を持つ素振りすら見せず、


 「あの人が大学に来てない本当の理由って想像できる?」

 

 と、明人に問い返した。


 明人は首を傾げた。それはこの一カ月間謎だった点である。想像もつかない。

 

 愛美は辺りを気にしたのか、明人の耳元に顔を近づけて、言った。

 

 「恋煩い、ですよ」

 

 「え? そうなの?」

 

 あまりに予想外な言葉に、明人は素っ頓狂な声を上げた。

 

 「そうなのですよ。想像できないよね。あのカリスマっぷりで大勢を魅せたスーパースターが、たかが恋の悩みでここまでダメになっちゃうなんて」

 

 愛美の通り、常にに自信に満ち溢れた目をしているララが何かに悩んでいる姿というのは想像できなかった。


 いつかララ本人が根も葉もないと一蹴した噂があったりもしたが、やはりそのときの彼女の言葉通り、普段のララのイメージと恋煩いという言葉はどうしても結びつかない。

 

 「相手は誰? 噂通り、衣笠日向?」

 

 明人が尋ねると、愛美は首を縦に振ってから言った。

 

 「告白されて断ったけど、後から好きになっちゃうパターン、ですね」

 

 湊まつりの前にIEPで、ララと衣笠日向が付き合っているという噂について、えりかがララに尋ね、ララはそれを真っ向から否定していた。

 

 しかし、明人は衣笠日向とは会ったこともないし、ララとは週一の授業で話す程度の仲だ。ひょんなきっかけで一度夕食をともにしたようなこともあったが、それだけでララのことを知っているとは到底言い難い。


 バンドメンバーとして、誰よりも本人に近い位置にいる愛美が言っているのだから、間違いないだろう。

 

 ララは衣笠日向が好き。そういうことらしい。


 そこで、ふと湧いた疑問を明人は口にした。


 「けど、相手もララさんのことが好きなんでしょ? 両想いなのに、そんなに気に病むことってあるの?」

 

 「衣笠日向は既に別の人と付き合ってる。大学外の人だから、あんま知られてないけどね。ララさんと日向はずっと仲は良いけど、日向はララさんのことが好きだという気持ちはきっぱり捨ててる。だから、今はララさんの片思い」

 

 「うわ。タイミングの悪い」

 

 「そう、最悪のタイミングですよ。あの人、学園祭ライブの直前に急にしょげ出すもんだから、一時はどうなることかと思った」

 

 愛美の言葉で、明人はララが湊まつりの直前のIEPを休んでいたことを思い出す。このことと関係があるのかと気になり、愛美に尋ねると、予想は当たったようだった。

 

 「これだけ準備してきたのに、まさか中止するわけにもいかない。けど、あのままライブしてても、ララさんがまともに歌えるわけもなかった。だから、正直、あの事故は私らにとっては幸運だったんだよね」

 

 あの時、あの場には誰にも知られていないところでりりなたちの企みもあったわけだし、一見華やかな学園祭の舞台裏にも様々な事情や思惑が錯綜しているのだと感嘆の念を抱かざるを得ないがそれはさておき、明人はどうにも腑に落ちない点が一つだけあった。

 

 「それにしても、ララさん、一カ月も授業来てないんだよね。いくらなんでも、落ち込みすぎじゃない?」

 

 これは愛美も気にしていたことのようだった。

 

 そこなんですよね、と強調するように人差し指を立てて、愛美は言った。

 

 「授業に来てないどころか、まともに連絡すら取れない。放っておけばそのうち元に戻るだろうと思ってたけど、いくらなんでも、長すぎる。あの人、本当に突然、生きる気力を失くしたかのように目が虚ろになったんだよね。原因が日向だってことは聞き出せたけど、どうもそれ以上に何かありそうな気がする。長いこと付き合ってた相手にフラれたのならまだわかるけど、日向が別の人と付き合ってることは前から知ってたわけだし、何か突然日向のことを意識してしまうことがあったのだとしても、最初から叶わないとわかってる恋にそこまで深入りすることもないだろうし。まあ、実はララさんがただのスーパー重い女だったって可能性もあるし、仮にそうだとしても別にその点に関してとやかく言うつもりはないけどさ。けど、バンドの活動に支障が出るのは困る。そろそろ、夢見る少女ぶるのもやめろって殴り込みにいかないとって思ってたとこ」

 

 愛美の歯に衣着せぬ物言いからは、年齢や経験の差を越えた二人の対等で親密な関係が伺える。


 ほんの少し話しただけではあるが、愛美はどこかララと似ているように思えた。


 ララの金髪ツインテールに引けを取らないほど派手な髪色といい、奇抜な金のイヤリングといい、いかついライダースを着こなしているところといい。個性的なスタイルを貫き、その目、姿勢、体全体から自信が満ち溢れている。


 己が道を行くぞという確固たる信念、気概が一目で伝わってくる。

 

 浦賀愛美はララが直々にバンドに引き入れたという話をどこかで聞いた気がする。

 

 なるほど、確かに二人とも、ひときわ強いオーラを持っている人だ。

 

 「あなた、ララさんと多少仲良いんだよね?」

 

 愛美に問われて、明人はたじろいだ。果たして自分は、ララと仲が良いと言えるのかどうか。

 

 「少しだけ、話したことはある程度」

 

 「なら重畳。これはララさんのため、ララさんのファンみんなのためだと思って、ちょっと手伝ってほしい」

 

 「論理学の課題なら、俺、取ってないから知らないんだけど……」

 

 愛美はそこで思い切りずっこけた。

 

 「違う違う! 論理学は今関係ないから。いや、それも重要だけど、それは後で。そうじゃなくて、ララさんを復帰させるために一役買ってほしい」

 

 さりげなく話題を逸らそうとしたのだが失敗した。

 

 ララからの伝言を伝えるだけのつもりだったが、どうやらそれだけでは済まなそうな展開である。


 「……具体的には?」と、明人が観念して尋ねると、

 

 「あの人、ここ一カ月私らと顔を合わせてもくれないのよ。連絡してもまともに返事くれないの。あの人と直接話すことさえできれば、後はどうにかなると思うんだけど、会う手段がない。そこで、です……」

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