4-3.
馬込は運転が下手だった。
そのくせドライブデートにこだわるので、黒塗り高級車のレンタカーの運転は運転だけが取り柄だという後輩に任せていた。
馬込と柳原りなに扮した柳りりなが朝食を取っている間、運転手は一人、駐禁地帯から外れた場所で待機していた。
と、その時、前に停まっていた車から突如美女が降りてきて、車の調子が悪いから見てほしいと言ってくる。
馬込に忠実な彼は時間を気にし、返答に迷ったが、とてつもなく可愛い顔をした彼女の頬を伝った涙に負けた。
まだ時間はある。
先輩を迎えに行く前に、この子を助けてあわよくば連絡先もらってあんなことやこんなことをぐへへへ――彼は車から降りた。
ハルはそれから三時間、運転手に車のことも馬込のことも忘れさせた。
黒塗り高級車のレンタカーを拝借した明人は、運転手に扮して馬込とりりなを迎えに行く。
二人を乗せた彼はりりなの指示通りに、湊大学市谷キャンパスへ車を走らせた。
市谷キャンパスのリベラルタワーの地下には駐車場がある。
職員や来客専用で、基本的に学生は使えないのだが、体育会の自動車部はここに専用のガレージを持っていた。部で保有する車両を保管したり、車両の整備を行ったりするのだ。
日曜日のこの日は、駐車場の利用者はほとんどいない。
閑散としたこの地下空間には今、五人の人物が立っている。
明人とりりな。そして、二人が誘拐した馬込。
もう二人はりりなの仲間だ。途中で合流し、ここまで一緒にやってきたのだ。
りりなと彼女の仲間に囲まれて、馬込には逃げ道がない。
馬込に向けられるりりなの目は完全に軽蔑の色に染まっている。
この男と言葉を交わすこと自体が嫌々であるという思いがその表情に滲み出ていた。
対する馬込は、狡猾な詐欺にでも遭ってきたかのような顔だ。いや、実際そのようなものだが。
むすっと口をへの字に曲げ、りりなを睨み返している。
りりなが口火を切った。
彼女の冷ややかな声が、静かなこの空間にこだました。
「私からの要求は一つだけよ。大川原雅史の居場所を教えなさい」
KCIA。港南学院大学中央情報局。
それは、港南学院に存在する裏サークルである。
りりなはこのサークルのメンバーだった。
彼女は冬枯れの花園を潰すために、組織のトップである大川原雅史をずっと追ってきた。
今回の作戦は、至ってシンプルなものだ。
冬枯れの花園の幹部、馬込を誘拐して大川原雅史の居場所を吐かせる。
大川原雅史は、港南学院を去って湊にやってきてからというものの、めったに表には姿を現さなくなったのだという。
ハルによって半強制的にこの作戦に加担させられている明人は、未だに自分がここにいる理由を把握できていない。
指示されたのは、車を走らせるルートだけだ。車から降りた今、何をすればいいのかわからない。
馬込とは以前に顔を合わせたことがある。他でもなく、冬枯れの花園に勧誘されたときだ。
あまり自分だとバレたくない。
マスクと帽子でさりげなく顔を隠し、ひっそりと成り行きを見守った。
りりなの要求に、馬込は即答した。
「教えるわけないだろう。ブスめ」
ブスめ。
突拍子もない罵倒に、一同は唖然した。場の空気が凍ったようだった。騙されたとは言え、仮にもデートに誘った身でありながら、とんでもない手のひら返し。
りりなは冷静だった。幼稚な悪口は意にも介さずに対応する。
「この状況を理解してる? 私は強引にでも吐かせるつもりでいるんだけど」
「そんなこと知るか。気取りやがって、お前なんて全然可愛くないぞ」
今度は大きな舌打ちが場を静まり返らせた。
りりなの眉がぴくぴくと動く。完全にキレた。
「それなら、覚悟はできてるってことよね? これから世にも恐ろしい目に合うことを、むしろ待ち望んでるってところかしら」
「ブスがキレた! 怖え。とんでもねえ顔面凶器! 推定殺傷能力無限大!」
忍耐のベールはあっけなく破れ、りりなの全身からおどろおどろしい黒の感情が溢れ出す。
話し合いで解決することを、彼女は早々に放棄した。
合図を受け、彼女の仲間の二人が前へ進み出てくる。
一人は背が高くて体格が良い。スラックスとジャケットでクールなスタイルだ。体育会系の選手を思わせる。
もう一人は細身で、色白で綺麗な肌とスタイリッシュにセットされた髪が特徴的だ。服装も凝っていて、オシャレな雰囲気の男子である。
まずは体格の良い方の男子が馬込の前に立った。
馬込に思い切り睨まれているが、余裕たっぷりな様子だ。
ジャケットの内側のポケットからスマホを取り出し、その画面を馬込に見せつける。
画面に映っているのは、持ち主の彼と親しげに笑い合う女性の写真だった。
「港南学院大学二年の東堂、って言います。俺、高校時代からバスケが好きでずっと打ち込んでたんですけど、夢中になるあまり女の子とかあんま興味なくて、告白されたりちょっと付き合ってみたりしましたけど、長続きしたことは一回もなくて。でも、大学に入って今の彼女と出会ってからは、そんな生活もちょっと変わって。彼女とは授業で知り合ったんです。何だか、これまで会ってきた女の子とはちょっと違くて、話している内にたまらなく好きに思えてきて、何だかんだ去年付き合い始めてからちょうど一年くらい経ちます。バスケしか知らなかった俺に彼女はもっと広い世界を見せてくれました。何よりも大切な存在です」
藪から棒にのろけ話だった。
意味がわからない!
明人は衝動に駆られ、叫び出したくなる。全くもって、彼らの意図が掴めない。
と、思ったのも束の間。
東堂の次の言葉に、明人は舌を巻く思いだった。
「馬込先輩は、彼女いないんですか?」
KCIAの頭脳、恐るべし……
なるほどこれは効果絶大だった。
東堂を見据える馬込の目つきが変わった。
明確な殺意を持って被害者宅に侵入する男の目だ。凶器があれば、今この場で目の前の男を刺し殺していたに違いない。
非リア充の馬込は、リア充に弱いのだ。
東堂に代わり、今度はもう一人の男子が馬込の前へ立った。
「港南学院大学一年の南川です。俺、地方出身なんですけど、地元の高校は一学年に三クラスしかない小さい学校だったんです。そんなもんだから、三年の時に俺、クラスに元カノ三人いたんですよ。めっちゃ気まずくないですか? 今だから笑って話せるけど、その時はけっこうマジで毎日おっかなくて。同じクラスのまた別の奴と付き合ってたんですけど、元カノたちからの視線が痛いんですよ。その中の一人がけっこう重くて、振るのにも苦労したんですけど、いつ刺されるかと思うと授業どころじゃないですよ。まあ、実際には何も起こらず俺は進学に合わせて上京して、彼女らとはおさらばできたわけですが。大学はいいですよね。可愛い子たちいっぱいいるし、人多いから、振った女に付きまとわれることはなさそうだし。あっ、てかこの前早速振っちゃったんですよね、経済学部の女の子。可愛かったんだけど、文化祭でめっちゃ可愛い子見つけちゃって。今はその子と付き合ってます」
自慢げに語る南川に、りりなは軽蔑の眼差しを向けた。
「南川君ってほんッッとにサイテーな男だよねー。あんたみたいな奴がいるから世の中大勢の女の子が傷ついてるのよ」
「俺のせいにしないでくださいよ。俺のことを好きになるのは彼女らの方なんですから」
「それはお前が思わせぶりな態度を取ってたぶらかしてるからだろ。最低な野郎め」
東堂が南川を小突く。
上級生から罵られても、南川のへらへらとした態度は変わらない。
「ま、皮肉なことに人の心を操るそのセンスは捜査員にはうってつけなのよね。うちでその才能を活かしてくれる限り、とやかく言うつもりはないけどさ」
りりなは手を腰に当てて呆れたように言った。
「へへへ」と照れたように笑う南川を無視し、りりなは今度は東堂に質問を投げかける。
「東堂君みたいな真面目な人はモテて然りって感じだよね。東堂君の話は、聞いてて微笑ましいもの。今度もどこか出かけるって言ってたよね。どこだっけ?」
「紅葉を見に、日光へ」
「そうそう、日光。定番だけど、あそこいいよねー。高校の修学旅行で行ったな。二人は初めてなの?」
「はい、そうなんです。紅葉を見に行こうって話になって、じゃあどこに行こうってなったとき、二人とも日光は定番だけど行ったことないことがわかって。そしたら、まずは日光行ってみようかって流れで」
「行くのは車?」
「その予定です。ただ、俺免許はあるものの全然運転慣れてないんで、実は今密かに特訓中なんですよ」
「やっぱ運転でかっこいいとこ見せたいもんね。ふふ、バスケのことばっかに見えて、実はしっかり彼女のことも想って運転の練習だなんて、ちゃっかりしちゃってんなー東堂君。可愛いねえ」
「可愛い? 俺がですか?」
「そう、君だよ。彼女に尽くす男の子は総じて可愛いのだ」
「俺はどうですか?」南川が茶々を入れた。
「君は世界一可愛くないわ。あんたみたいな男はさっさと死ねばいい」
「ひっど! 先輩酷い。死ねばいいはあんまりだ」
「自業自得よ」
「ツンデレか? 先輩もしかしてツンデレ? そんなこと言って、本当はちょっと嫉妬してるんでしょう。自分が彼氏できないからって」
途端に凄みを帯びる、りりなの視線。「あんたねえ」と言いかけたところで、南川の追い打ちがかかった。
「でも正直、俺そんな先輩も魅力的だと思いますよ。ツンツンしてる女の人って、近づきがたいからこそ逆に近寄ってみたいなっていう欲求が生まれるんですよね。なんか精一杯怒ってる風に装おうとしている表情が可愛いんですよね」
「てめえ殺すぞ。これが装ってるように見えんのか?」
「やべえ、この人はガチだ」
ここまで長引いてくるとさすがに元の目的を忘れてしまいそうになってくるが、りりなたちの会話は着実に馬込に精神的ダメージを与えている。
馬込はギシギシと音がしそうなほど歯を食いしばっていた。
馬込はキャンパスライフを楽しみたくても楽しめない悲しい男子なのだ。
他の学生たちが仲良さそうにしている光景を見ることが、馬込にとっては一番の苦痛なのである。
しかし、そんな馬込の苦悩はどこ吹く風。
リア充たちの会話は続く。
「ちなみになんですけど、りりな先輩はいないんですか? 気になる人、とか」
東堂が冗談交じりに尋ねると、りりなは呆れたようにため息をついてから、頬を赤らめて「いる……」と呟いた。
すかさず、南川が「えっ、いんの。世紀の大ニュースだ。誰、誰ですか!?」と食いついたが、直後に真顔に戻ったりりなはその頭を鷲掴みにして力ずくで南川を沈める。「……わけねーだろクソが」
「あはは。じゃあ、先輩のタイプの男とか、どんなですか?」
東堂があいまいな笑みを浮かべて尋ねた。
南川を放り捨て、思案の表情をするりりな。
「うーん、どうだろうなあ。やっぱり、頼りがいのある人がいいなとは思うよねえ」
「年上?」
「年上も憧れるけど、そこまでこだわりはないかな。悩んでる時とか、いつでも相談に乗ってくれて解決に導いてくれる優しさと賢さがある人なら! あと、いざというときに守ってくれる強さも兼ね備えてる人。筋肉あってがっしりしてる人を見ると、ちょっといいなって思うかも。背は高い方がいいよね。最低でも七十五以上。そこまで高年収を求めはしないけど、自分より多くはあってほしいかなあ。と、言ってもまあ、そんなに求めてばかりじゃダメなのよね。やっぱり、頼りがいのある人、この一言に尽きる!」
さらに続く会話。「大学でいいなと思う人に会ったこと、あります?」「ない」「先輩やっぱ、理想高すぎなんだと思う」「えっ、そう? そんなつもりないんだけどなあ」「客観的に言って、そうです。無意識なのは、あんまよくないですよ」「わーん、東堂君にきついこと言われたあ」「先輩、見た目は良いのにもったいない」「……今のちょっと、本気でグサッと来たわ」
と、そこで突然悲鳴が轟いた。
「やめろ、やめてくれ!」
馬込は耳を塞ぎ、苦痛に顔を歪ませた。悲しみの涙が頬を伝う。
りりなたちの会話に心を蝕まれ、馬込の精神は限界に達した。
りりなはちらりと馬込に目をやり、不敵な笑みを零す。
これが彼女の狙いだった。
もう十分だと判断したのだろう、りりなは仲間の二人を後ろに下がらせた。
彼女は馬込の傍に寄って、優しく語りかける。
「私の友達にね、ミスコンで優勝するほど可愛い子がいるの。彼女がね、少し前に留学生歓迎パーティに参加したときに、ある男の人から言い寄られたんだって。話を聞く限りじゃ、その人の雰囲気って、あなたととても似通ってるのよね。同類の、モテない人」
馬込は耳を塞ぎ、顔を背けて会話拒否の意思を示している。
そんな馬込の耳元で、りりなは嫌がらせのように話を続ける。
「その子って、綺麗な見た目とは裏腹にめっちゃ口が悪いの。その人について友達が言ってたこと、あなたに教えてあげたいなあ。きっと、自分に何が足りないのか、参考になるんじゃないかしら」
「頼むから、それ以上は何も言わないでくれ!」
馬込はここでついに観念した。
りりなの話をこれ以上聞いてしまったら、馬込は精神に重大な後遺症を残す恐れもあっただろう。現実は辛いのである。
りりなは東堂と南川に顔を向けた。彼女の顔に浮かぶのは、勝利を確信した笑み。
二人も安堵の笑みをりりなに返した。
りりなは今度は明人に顔を向ける。
どう反応すれば良いのかわからず狼狽えた明人に、りりなはウインクを送ってきた。
誇らしげな笑顔だった。
馬込を落とした。
後は大川原の居場所を聞き出せれば、この作戦は成功に終わる。
そこから先のりりなたちの思惑は知らないが、ひとまず一件落着だ。明人も解放されるだろう。そしたら、りりな、そしてハルから、詳しい事情を聞き出せる。そういう約束だった。
ほっと胸を撫で下ろす。
KCIAの面子も作戦の完了を目前にして、早くも一仕事終えたような顔をしていた。
さて、最後の仕上げだ。
りりなが馬込に再び向き直る。
耳をつんざく爆音とともに予期せぬ闖入者が現れたのは、その時だった。
それは一台の車両だった。
湊大学のイメージカラーである朱色を基調に、レーシングカー風のカラーリングを纏っている。
自動車競技部の競技用車両であることは、すぐにわかった。
甲高いスキール音をまき散らし、後輪を滑らせながら、場内をサーキットに見立てているかのようにしてくねくねと常軌を逸した走行をする。
息もつかせぬ曲芸走行。エキゾーストのあまりの音量に、驚きの声すら掻き消される。
徐々に一同へ距離を詰めてきた車両は、勢いのまま横にスライドするような動きで突っ込んできた。明人とKCIAのメンバーは一目散に辺りに散り、安全な場所へと退避した。
部車は立ちすくんで動かない馬込の前にぴたりと停止した。絶妙なテクニック。
止まるや否や、ドアを開けて運転手が降りてきた。
「先輩! 助けに来ました!」
だぼだぼのジーパンに革ジャン、銀フレームの眼鏡。手入れのされていない髪に眉。
降りてきた運転手が馬込と同類の人間であることは「先輩」という言葉を聞かずともわかったに違いない。
当の馬込は、仲間の登場を予期していなかったようだった。
しかし、すぐに状況を飲み込む。どうにかして馬込の危機を察知した仲間が、慌てて助けに来たのだろう。
馬込はあたふたと傍に停車してあった黒塗りレンタカーの運転席に駆けこんだ。
「ちょっと、待ちなさい!」
りりなの制止の声は、競技車両のエンジン音に掻き消された。身も竦むような爆音が空間を震わす。
男は威嚇するように何度も空ぶかしした。そのあまりの迫力に気圧され、りりなは近づくことができない。
馬込が黒塗りレンタカーのエンジンをかけたことを確認すると、馬込の仲間が駆る競技車両はタイヤを空転させながら発進し、瞬く間に出口から脱出していった。
馬込も続いてレンタカーを発進させ、仲間の後を追った。アクセルを全開にし、ハンドルを回して方向転換を図ったが直後に車はコントロールを失い、前方にあった柱に車体側方から思い切り突っ込んだ。
一同があっけに取られて見守る中、馬込は何事もなかったかのように再発進し、その場を去って行った。
残された四人を、沈黙が支配する。
りりなの大きなため息が、静かな空間に虚しく響いた。
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