3-7.

 夜の街をゆく。


 都心のビル群の中をこんな風に歩いたことはなかった。


 夜空の下で瞬く街の光に包まれて。星々に囲まれ、静かな宇宙空間を漂っているような。

 

 それは全く非日常な景色だった。


 「東京の夜景ってけっこう好きなのよね。昼間とは違って、幻想的で。夢みたいな気分にさせてくれる」


 白のダウンのポケットに手を突っ込んで歩きながら、ララはふと呟いた。


 本当に夢を見ているかのように、彼女の目線はどこか遠くを向いている。


 彼女が喋ったのはそれきりで、二人ともしばらく無言だった。


 街灯に照らされる度に、ララの髪が反射して黄金のように光った。


 そのブロンドの輝きに見惚れていたことを、明人は密かに沈黙の言い訳にした。


 

 所狭しと高層ビルが立ち並ぶ区画に入り、気が付いたらそこは東京駅だった。


 市谷キャンパスと東京駅が地理的に近いというイメージはなかったから、歩いてやってきたという事実に少々ばかり驚きだ。


 荘厳な駅舎が煌々と佇んでいる。


 「話したいことというよりは、お願いなんだけど」


 壮観な光景を眺めるようにララは足を止めて、言った。


 「英文学科の一年生に愛美って子がいるんだけど、知ってる?」


 愛美というのは、ヴァネッサのドラマーの浦賀愛美のことだろう。


 彼女の名前は知っているが、彼女が英文学科所属であることまで明人は知らなかった。


 しかし、ここで迂闊に知らないとは答えられない。ララの中では、明人は湊大学の文学部英文学科一年生であるからだ。

 

 ララもそれを知っての質問だろう。


 同じ学科だからと言って必ずしも面識があるとは限らないが、浦賀愛美は『ヴァネッサ』のドラマーということでかなりの有名人である。

 

 全く知らないというのも不自然だろう。


 「話したことはないけど、知ってますよ。ドラムの人ですよね」


 明人はしれっと答えた。


 「そうそう。愛美に会うことがあったら、伝えておいてほしいことがあるの」


 伝言があるのなら自分で伝えた方が早いのではないか、と明人は疑問に思ったが、口にはしなかった。


 ララがそんなことを頼んでくるというのは、相当の理由があるのだろう。


 ララはふと目線を頭上に向けた。


 彼女の目は、もはやこの世界を見ていないようだった。


 そんな目をちらりと明人に向けて、ララは言った。


 「こんな私でごめんね、って」


 本当にごめん、と消え入るような声で繰り返した彼女の頬に、一筋の涙が流れ星のように伝った。



     *



 翌週、月曜日。


 明人は自分の大学で授業を受けていた。


 サークル活動に勤しんでいるとき以外は、彼も普通の学生らしく授業を受けているのである。


 普通の学生らしく友人もいる。

 

 あくまで普通の学生なので、履修している授業は友人たちと被せていることが多く、大抵の授業は親しい者と一緒に受けている。

 

 しかしやはり普通の学生であるから、誰とも被らずに一人で受けている授業もある。


 月曜日の五限は、知り合いは誰も授業を取りたがらなかった。


 学部専門科目の重要な授業はなく、開講されているのはマイナーな少人数制授業がほとんどのこの時間。


 明人は湊大学にモグっている時間の分の足りない単位を埋めるため、友人たちが帰った後の時間の授業も取らざるを得ない。

 

 百人規模の大教室で行われていながらも受講者は指で数えられるほど、各学生がそれぞれ三~五メートル間隔で不規則に席につく圧倒的人口過疎のこの授業。科目は経済学。


 担当講師は売れ残りの棚のような寂しい教室にマイク越しの熱弁をふるい、学生たちは少なくとも寝ずにはいる程度の集中力でノートを取っている。


 明人もその中の一人だった。彼は教室後方真ん中辺りの席で一人授業を受けている。彼より後ろの列に位置する学生はわずか数名だ。


 「誰かに恋した時って、四六時中その人のことで頭がいっぱいになって他の何も手につかなくなるよね。些細なことが気になって仕方ない。あの子は今、どう思っているんだろう? 自分はどう思われているんだろう? ああ、あの子に会いたい。あの子の声が聴きたい。希望と不安が入り混じる。嵐のような葛藤で脳内はめちゃくちゃ。そうか、恋っていうのはもしかしたら嵐なのかもしれないね。嵐が過ぎ去った後に好きの感情がただ一つ残れば、それは紛れもなく愛なんだよ。果たしてその愛が相手に受け入れられているのかどうかは別だけどね」


 隣の席の学生が藪から棒にそんなことを言った。


 明人は知りもしない学生に心を見透かされたようで驚いた。否、唐突にそんなことを話されたことに驚いた。


 そして気が付く。


 

 あれ、隣に誰か座ってたっけ?



 凍った手で心臓を鷲掴みにされたようにドキッとした。


 いつの間にか隣に、ハルがいた。


 人を小馬鹿にするような笑みを浮かべて、何食わぬ顔で彼女はそこにいた。

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