3-6.
湊大学市谷キャンパスの六十年館には屋上庭園がある。
ちょっとした花壇や東屋があり、屋内に比べると随分と開放的な空間だ。
五時限が始まり、空が夜の表情に変わり出すこの時間、この場所にちょっとした人だかりができていた。
その中心にいるのはキャンパス一の人気者、北星川ララだ。
彼女は転落防止用の柵に腰かけ、群衆を背に、街を包み込む夕空を向いて歌を歌っていた。一歩間違えれば中庭へ真っ逆さまの構図である。
しかし、ギターを抱えて気持ち良さそうに弾き語りをする彼女の姿は、見る者をまるでこれが絵の中の出来事であるかのような気持ちにさせる。
この場所はララのお気に入りの場所としてファンの間では有名だった。
彼女は不定期にこの場所へ歌を歌いに来る。
これはライブというわけではなく、彼女の個人的な趣味らしい。
ファンが集まっているのは、彼女が歌っていることに気が付いた人が勝手に集まっているだけだ。
この間、彼女は景色を眺めて歌っているか、物思いに耽るように沈黙しているかのどちらかだ。
振り返ってファンに対応することはほとんどない。
彼女の眼差しからはどこか哀愁が漂うようでもあるが、超人気バンドのリーダーが一人で何を考えているのか、それはおそらく本人しかわからない。
ララは大抵、二、三曲歌い終わると長い沈黙モードに入る。
固まっているかように静かな瞳で、ただただ景色を見つめ続ける。
キャンパス一の人気者である彼女の二つ名が『夢見る少女』である所以はここにあった。
歌が終われば集まったファンは勝手に去っていく。
なるべく、音を立てず、ひっそりと、だ。
彼女のプライベートは邪魔しない。
それがここに集まるララのファンたちの間での暗黙の了解なのだ。
日が沈み、夜の帳が下りた。
世界を照らす光が人工の明かりだけになってから、ララはやっと振り返って柵から降りた。
人気のなくなった庭園。
そこに一人だけ先程からずっと残っていた者がいることに、おそらくララは気が付いていたはずだ。
そうでなければ、振り返ったときに気が付いてちらりともそちらに視線を向けなかったのは不自然だろう。
ララはその人物の方に対して一瞥をくれることもなく帰り支度を始めた。
あからさまに無視したのだ。
熱心なファンに対して、随分とさっぱりした対応である。
と、そんな彼女にそこにいた人物は臆せずに「ララさん」と声をかけた。
その声を聞いて、ララは珍しそうに顔を上げたのだった。
「あら。誰かと思えば意外な顔ね。君がそんなに私のファンだったなんて知らなかった」
最初にここへやって来てからおよそ一時間。
寒さとの格闘の末、明人はやっとララと対面することが叶う。
「何の用? 告白でもしに来たのかな? 校舎の屋上に二人きり、夜景を眺めながら。確かにロマンチックなシチュエーションで、愛を語るのには最適な機会だと思うけど、ちょっと時期尚早すぎたかな。知り合ったばっかだし。お友達から始めるにも、私はたぶん忙しくてそんなに君に構っていられない」
いきなりフラれた。
あまりにも冷めた反応に明人は気を落としそうになったが、すぐにそんな目的でここへやって来たのではないことを思い出す。
「告白ではないんですけど」明人は慎重に切り出した。
「それに関連した、相談というか。アイドルのララさんでなく、先輩としてのララさんからアドバイスを聞きたいと思って」
それを聞いたララは「ほうほう」と呟いてギターを仕舞う手を止めた。「恋愛相談ってわけね。なるほど、そう来たか」
思ったよりも、彼女の気を引くことができたらしい。
「本当は授業のときに話そうと思ったんですけど」と、明人はララが今朝のIEPを欠席したことを口実にした。
その言葉に対し、ララは「ああ、今朝はごめんね。ちょっと外せない用事があった」と答えた。
いつも自信に満ち溢れたララにしては珍しく、自信なさげな口調だったように明人は感じた。
本当は何か別の理由があり、はぐらかしたのかもしれない。
しかし、目的とは関係ないので触れないでおく。
「それでいそいそとここまで会いに来たってことは、何かハプニングがあって、一刻を争う事態になってるってところかな?」
ララの問いに対し、明人は首を縦に振って答える。話が早くて助かった。
「そういうわけね。事情は把握したよ」
ララはにこりとそう言って、ギターケースを背中に担いだ。
小柄な彼女が大きなギターを背負っていると随分とアンバランスだ。
しかし、本人はそんなことちっとも気にしていないようで。
「じゃ、せっかくだし夕飯でも食べながら話を聞いたげる」と、足早に階下へ降りる階段の方へ歩き出した。
明人が後を追いかけると、振り返ったララは、
「その代わりってわけでもないけど、ちょっと私の話にも付き合ってよね」
と、そんなことを言った。
ララに連れられて、明人は彼女とともにキャンパス近くのファミレスに入った。
彼女とこのように二人きりで面と向かうのは初めてだ。
こうして間近で見ると、人並み外れて均整の取れた体型が嫌でも目に入る。
ミニスカ×ニーハイのスタイルがここまで似合うのは、彼女を差し置いて他にはいないだろう。
真の絶対領域とは、彼女のように異次元の細長さを誇る脚を持ってして初めて生み出されるものなのだと思い知らされる。
元アイドルの肩書は、やはり伊達ではない。
食事を取りながら、明人はララに事の仔細を話した(もちろん、自分が椎明である体は守って)。
包み隠さず話すことで信頼を得るためというのもあるし、恋愛ごとに長けていそうなララのアドバイスが本当に欲しかったという理由もある。
誰かが好きだという気持ちを話すのは、例えそれが偽りだとしても緊張した。
どうしても鼓動が早まるのを止められない。
明人は努めて平静を装ったが、彼の顔が赤く火照っていたことにララが気が付かなかったということはないだろう。
明人の話を聞いて、ララは表情一つ変えなかった。
このような状況になってしまった今、自分はどのようにえりかと接すればいいのか。
この疑問に対するララの答えは、拍子抜けするほどあっさりしたものだった。
「気にすることないよ」
「えっ」と、明人は素っ頓狂な声を上げた。
あまりに予想外な答えだった。
もう少し温かみのあるアドバイスをもらえることを期待していたのだけれど。
話を真摯に聞いてくれた割には、冷淡な反応だ。
説明も抽象的でわかりづらかった。
「だってさ、考えてみなって。どうしようもないじゃん、そんな状況。それで君が悪く思われるようなら、それは筋違いだよ。気にする必要はない。とは言っても、言葉の意味を履き違えないでね。何も気にせず、能天気に振る舞えと言ってるわけじゃない。起こってしまったことを気に病むな、って意味。これは君がどうしたいと思っているのかにもよるけど、本当にえりかのことが好きなのなら、彼女のことを第一に考えて行動しなさい。あの子がショックを受けているのは、間違いないだろうから」
具体的にどうするべきなのか、という質問は野暮な気がしてできなかった。
さっぱりとした彼女の口調には、自分で考えろというメッセージが込められているような気がしたからだ。
食事を終え、店から出たところで、明人は本題を口にする。
真意は悟られないように、さりげなく、だ。
「ララさんって、ハルさんと仲良いんですか?」
車通りが少なくなり、静謐な空気が辺りを満たしている。
街の明かりに照らされて、揺れる金髪ツインテールがちらちらと瞬いた。
答えるよりも先に「どうして?」と問い返された。
「すみません、ただの興味本位です」明人は軽く頭を下げる。
ララは、えりかのように何でも喋りたがりとは違い、まりなのように疑り深いというわけでもないだろうが、人一倍感性は鋭い人だ。下手な嘘はつかない方がいい。
ララは思ったよりもあっさりと答えてくれた。勘ぐられることはなかったようだ。
「ハルとは今年の初めに留学生歓迎パーティで知り合っただけ。学部が一緒だから授業でたまに顔を合わせたりもするけど、そこまで仲が良いというほどでもないよ」
なんだ、と明人は内心でため息をつく。
二人に関わりがないのなら、ハルのことを詳しく聞き出すことは望めない。
そうなんだ、と相槌を打って、明人は思わず本音を吐露する。「あの人って、変わった人ですよね」
「驚くべき変人だね」と、ララは語気を強めて言った。
思いのほか彼女と意見が合ったことがおかしくなって、明人は声に出して笑った。
つられてララも笑った。
笑いながら、ララは「聞いてよ」と留学生パーティでの出来事を語り出した。
と、いうのもハルはパーティの間中、仮にもミスコンを優勝するレベルの美女である彼女とは明らかに不釣り合いな男とずっと一緒にいたらしい。
それも、彼女に興味津々な留学生たちを差し置いて、だ。
しかし、後でララがその件についてハルに尋ねると、パーティで色気全開だった桜堂ハルはどこへやら、顔を真っ青にして首を横に振るだけだったらしい。
それ以来、ミスコン優勝者としてのハルの顔は見る影もない。
ハルの奇怪なキャラクターに、二人で思い切り笑い合った。
話の流れで、明人は桜堂組についてララに尋ねてみた。
「何それ?」と、ララは首を傾げる。
「今朝、ハルさんから聞いたんです。ならず者の集まりのサークルだか何とかで、ハルさん、モデルガンみたいなの持ってたりして、すっげえ危ない感じがしたんですけど……」
それを聞いたララは思い切り吹き出した。
「でたらめに決まってんじゃない、そんなの」
「え?」と、明人は思わず足を止めた。
途端に、決して犯してはいけない失敗をやらかしてしまったときのような、激しい焦燥感が襲ってくる。
冷や汗すら出てきた。
まずい、まずい、まずい。
やってしまったかもしれない。
隣で一緒に止まったララに、半分心配そうに、半分呆れた顔で見つめられた。
「あの口から突拍子もない言葉が出てきたときは、あんまり鵜呑みにしない方がいいよ。大抵が嘘だから」
その通りだった。
思い返せば、そうだった。
ハルがやたら長くて詳しい説明をするときは、いつも口から出まかせだったじゃないか!
桜堂組の話をしていたとき、ハルはどこからどう見ても美しき女頭領だった。
そのせいで明人は話を完全に信じ込まされてしまっていたわけだが。
見抜くヒントはいくらでもあった。
ハルは、役者だ。
ミスコン優勝者という側面ばかり目立っているせいで取り沙汰されることが少ないが、桜堂ハルは映画系サークル所属の俳優でもあるのだ(ちなみにそのサークルの名前は『ミナトフィルムズ』といい、ハルはかなりの実力派らしい)。
それに、あの会室。
最初に見たではないか。壁一面に映画の宣伝ポスターが貼ってあった。
あれは『ミナトフィルムズ』の会室なのだろう。きっと、ハルが勝手に入口に張り紙しただけだ。
撮影をするサークルの会室なら、そこに本物そっくりの拳銃の小物があったとしても何もおかしくはない。
騙された。
あまりに情けなく、明人はしばらくその場から動く気になれなかった。
「ところで、ララさんの話っていうのは?」
駅に向かって歩きながら明人は尋ねた。
いつまで経ってもララが自分の話をする気配がなかったからだ。
ララは前を向いたまま、ふとそこで足を止めた。
つられて明人も止まる。
ララは赤のマフラーに顔を半分埋めるようにして視線を落とし、少しの間そこでぽつんと立ち尽くしていた。
その時、いつも自信にみなぎるララの目が、いつになく弱弱しいように感じられた。
つんと冷たい夜気がどこか切ない雰囲気を醸し出しているせいだろうか。
「今晩、これから何か予定はある?」
ララはふと顔を上げ、言った。
「強いて言うなら、帰って寝るくらいですけど」と、明人は答えた。
もう二十一時を回っている。
明人はまだ一年生だからわからないだけで、大学生とは普通、夜が更けてからも予定があるものなのだろうか?
「それじゃ、腹ごなしにちょっと散歩でもしようか」
そんなことを言って、ララはふっと頬を緩め、少しペースを上げて歩き出した。
何故だろう。
今日久しぶりに会ったララは、これまでの彼女のイメージからすると別人のように見える。
それは例えば、今にも泣き出しそうなか弱い少女のような。
どうしようもない心の脆さが、全身から隠しようもなく滲み出てきているような。
この人はもっと、夜をも明るく照らしそうなくらいエネルギッシュな人じゃなかっただろうか?
今朝のIEP、どうして休んだんだろう?
今朝だけでなく、先週も。
明人の頭にふと疑問が浮かんだが、彼はそれを口にはしなかった。
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