3-5.

 こんな所でもあれだし、というハルに連れられて、明人はグローバルラウンジを出て、神楽校舎の地下へと向かった。


 神楽校舎の地下一階はフロア丸ごと数あるサークルの会室で占められる。

 

 昼間は比較的人気がなくしんみりとしているが、夕方時間が遅くになるにつれ、授業が終わった学生たちが集まりだして賑やかになる場所だ。


 二限目の授業が行われているこの時間帯、地下にはほとんど人はいない。

 

 夜ともあまり変わらない静けさ漂う廊下を抜け、ハルはフロアの奥の方にある一室の前で足を止めた。


 扉の脇にあるカードリーダーに学生証を通し、解錠する。

 一面ガラス張りの壁の中へ、足を踏み入れる。扉に掲げられているボードには、こう書かれていた。



 『桜堂組事務所』



 部屋に入ってまず目につくのは、壁一面を埋め尽くすポスターの数々だった。

 大小様々なポスターが所狭しと貼られている。映画の宣伝ポスターのようだった。


 「ここは……?」と口にしながら、明人は記憶を探っていた。

 

 このミッションに際して、湊大学について下調べをした際に体育会やサークル等の登録団体には一通り目を通していた。


 しかし、どれだけ思い返しても『桜堂組』という名前があったようには思えない。


 と、いうか桜堂組って何だ?


 この人は映画系サークルに所属していたはずじゃ……?


 仮に桜堂組という名前の団体があったとしても、これでも秘密情報部からスカウトされるセンスを持ち合わせた明人だ。

 記憶力には人一倍長けているので、桜堂ハルの名前を聞いた時に結び付いたはずだ。

 公認団体でなければ記憶になくてもおかしくはないが、会室を持っているということは非公認というはずはない。



 これは一体?



 「不思議そうな顔してるね」ハルは心なしか気分が良さそうだ。「こんなサークルあったっけ、とか思ってる?」


 心を見透かされたような気分だ。明人は無言でハルを睨みつける。


 ハルは全く動じない。


 完全に手綱を握られている。


 「図星、か。やっぱ君、ただのモグりじゃなさそうだね。女を口説くだけの目的にしては、いささか用意周到に思える。君もあれかな。どっかの大学の、極秘の諜報サークルのメンバー」


 愕然とした。


 完全に想定外。頭が真っ白になる。


 

 何故、そんなことを知っている人がいる?

 何故、この人が。何故、何故。


 

 固まっている明人をよそに、ハルは部屋の中で一つだけ豪奢な一人用ソファに腰かけた。


 悠々と、しかし隙がない。


 「裏サークルに所属しておきながら、同じようなサークルが他にはないと思い込んでいたのなら、それは随分と短絡的な思考だよね。自分たちがいるように、他にも酔狂の集まりがあったって何も不思議じゃないだろ。うちはまあ、酔狂というよりはならず者の集まりだけどね」


 ハルは喋りながら、テーブルの上にあった長方形の皮のケースを手に取った。


 慣れた仕草で蓋を開け、中から棒状のものを取り出す。


 葉巻だった。


 カッターで先端を切り、火をつけて口に咥えるところまで、ゆったりと、しかし無駄のない動作だった。長年の愛用を伺わせる。

 優雅に煙を吸っている姿は、もはや女子大生とは思えない貫禄だ。

 と、いうか完全にヤのつく人である。


 桜堂組という名前とハルが言った内容からして、おそらくこのサークルは暴力団を模したものなのだろう。


 つまり、今目の前にいるのは、暴力団のボスだ。


 彼女の驚愕の正体に度肝を抜かれ、明人は言葉が出なかった。


 と、いうか怖い。

 自分は一体、これから何をされるのだろう?


 ハルは葉巻を灰皿に押し付けて火を消す。


 明人は息を呑んだ。


 ハルは明人を見やって眉を顰める。


 何を言われるのかと思いきや、ハルは急に身を乗り出し、


 「ねえ、黙ってないで少しは返事してくれないかな」


 と、思い切り拗ねた。ボス感は一瞬にして消え失せた。


 あっけにとられる明人の前で、ハルはだらしなく体を大きく伸ばし、前髪をだらりと、腑抜けた顔をして、


 「一人でつらつらとこんなセリフ吐いてちゃ馬鹿らしい。君は女に恥かかせることを厭わないのかな。失礼な奴だね。興ざめだ。ふざけるのはもうやめよう。はあ、人生つまんな」


 そのままぐしゃりと氷が溶けるようにテーブルに突っ伏せた。


 何が起こっているのか、明人にはわからなかった。




 その後のハルとのやり取りは埒が明かなかった。


 「俺は一体、どうしてここに連れてこられたんですか」


 明人がおそるおそるハルに問いかけると、


 「頭撫でて」と、ハルは答えた。


 「へ?」


 明人が素っ頓狂な声を上げると、ハルは顔を伏せたまま夏の熱に溶けたアスファルトのように気の抜けた声で、「優しく、愛でるように私の頭を撫でて。落ち込んだ私の心を癒して」


 「身の安全が保障されるのであればやぶさかではありませんが」


 「セリフが長い。聞き疲れた。心が枯れ果てた。ああ、希望が失われた。もう立ち直れない」


 「……」


 と、そこでハルはのっそりと顔を上げた。


 感情という感情を全て抜き取り、乾ききった空漠に憎しみだけを残したような恐ろしい目が、明人を睨んだ。


 「出て行け」と、乾いた声でハルは言った。


 明人はただ唖然としてハルを見返していた。


 ハルは続けて、


 「お前にはもううんざりだ。慰みにならん男は不快だ。お前に関わったことは私の人生において最大の汚点となるに違いない。考えただけで五臓六腑が煮えくり返る。目障りだ。私の理性が働いているうちにここから出て行け。私は、この身体がお前を八つ裂きにせんとする肉欲をいつまで抑えていられるかわからない」


 ハルは勢いよく立ち上がった。

 その右手の辺りにそこだけ塗りつぶしたように黒い物体が顔を覗かせる。


 どこから取り出したのか、拳銃がそこには握られていた。


 生々しいそれを目の当たりにした瞬間、明人の心臓は破裂しそうな勢いで動き出した。


 ハルは冷めきった目で明人のことを見据えながら、ゆっくりと腕を上げていく。

 

 迷いのない、慣れた仕草だった。

 

 ハルの視線は、人を殺した経験のある者だけが持つ常軌を逸した冷たさを含んでいた。


 明人は一目散に逃げだした。


 そうするしかなかった。

 

 ハルは本当に、明人を殺しにかかってきそうだった。

 

 例え本物ではなかったとしても、あの形相で銃口を向けられては、正真正銘の恐怖を禁じ得ない。

 

 と、いうか偽物だったとしてもあんなものを持ち歩いている時点で異常である。


 人はよく、驚いた時に比喩で心臓が止まるかと思った、と言う。


 明人の心臓は一瞬、止まりかけた。

 失禁していてもおかしくなかった(しなかったことに、明人はほっと胸を撫で下ろした)。


 それほどの恐怖を、想像していただけるであろうか……



     *



 自分の大学に退散した明人は、三限の授業を受けながら頭を抱えていた。


 厄介なことになった。

 えりかへのフォローも重要だが、それ以上に桜堂ハルの対策を急がなければならない。


 正体を知られているというのは致命的だ。この問題を片づけない限り、ミッションの進行どころの話ではない。


 ちなみに、このミッションの大前提である『身バレせずに』という条件の対象は、あくまでターゲット本人に限られている。

 ターゲット本人にさえバレなければ、内部に協力者を作ったりすることはオーケーなのだ。


 ハルの言葉が思い返される。



 ――安心しなよ。私以外の人には気づかれてないと思うからさ。



 この言葉から察するに、彼女は前々から明人の正体に気が付いていて、しかしそのことはこれまで自分の胸の内に秘めていた、ということだろう。


 

 何故このタイミングで、ハルは明人にアプローチしてきたのか?



 そして、そもそどうやってハルは明人が湊大学生だということに気が付いたのだろう?



 ――君もあれかな。どっかの大学の、極秘の諜報サークルのメンバー。



 この発言はかなり気になるところだ。



 ハルが何を知っていて、何故そんなことを知っているのか。


 桜堂組の真相とは。


 彼女は一体、何者なのか。


 その謎の解き明かすことが先決だ。

 万が一にも彼女が誰かに明人の正体を喋ってしまえば、これまでの明人の努力はたちまち水の泡となる。


 「しっかしなあ……」


 思わず心の呟きを漏らした。


 隣の学生に好奇の目線を向けられたが、気にしなかった。


 先程の出来事からして、ハル本人の口から知りたいことを聞き出せるとは思えない。

 また理解不能なテンションで対応されかねないし、挙句変に彼女を刺激してしまったら大変だ。

 

 できれば、彼女のことをよく知る第三者と接触できればいいのだけれど……


 と、考えたところで気が付いた。


 一人、いる。既に関わりがあり、比較的ハルとの交流が深そうな人物。


 深い関わりがあるわけではないが、一応面識はある。

 新たな人脈を探すよりも、既にあるものを使って対処できるならその方が効率的だ。


 とりあえず、そこを当たってみよう。


 明人はこれからのスケジュールを頭の中で組み始める。


 事は急を要する。


 あの人に会うのなら、どうするのが最善か……

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