3-4.
IEPの授業中、明人はイライラが止まらなかった。
何でもなさそうに装ってはいるものの、貧乏ゆすりが止まならかったり、気が付いたら上の空になっていたりとあからさまに穏やかでない。
普段は落ち着きがありクールな彼がこうも様子が違えば、クラスメイトが気が付かないわけもない。
テキストの内容に関する資料映像を見ている最中に、明人は不意にハルからルーズリーフを一枚渡された。
いきなり何かと訝しみながら見て、思わず吹き出した。
描いてあったのは、閻魔大王をモチーフにしたようなおどろおどろしさ漂うキャラクターが妙にリアルに世界の終わりかのような絶望の表情を浮かべているイラスト。
『私と二人きりじゃそんなに嫌?』と、セリフもある。プロの漫画家を思わせるくらい上手かった。
「(はーい、明人。二酸化炭素排出量ゼロを目指すマスダールシティの計画のどこがそんなにおかしかったのか、教えてくれる?)」
マスダールシティとは今日の授業のテーマだ。
アブダビ近郊に建設中の未来型都市に何も罪はない。
ペギーに指摘され、明人は素直に頭を下げて謝った。
「(ちゃんと話を聞いててね)」そう言ってペギーが目を離した瞬間を狙って、ハルから送られてくる二枚目。
今度はえりかの絵だった。
ほのぼの四コマ漫画に出て来そうなソフトなタッチで描かれている。
よく特徴が捉えられていて、一目で彼女とわかった。
添えられていた言葉は、『Miss her?(あの子が恋しい?)』。
めちゃくちゃ可愛いのが悔しい。
明人は反射的にその紙をぐしゃぐしゃにしそうになったが、ペギーの目を気にして、すんでのところで思い留まる。
机に叩きつける勢いで裏返し、代わりに三人掛けのテーブルの逆端にいるハルを憎しみを込めて思い切り睨んだ。
対するハルは片眉を上げてにやりと、してやったりというような顔をした。
完全に確信犯であった。
明人はまだ、昨年のミスコン優勝者だというこの三年生のことをよく知らない。
ハルはあまり口数が多い方ではないが、無口というわけでもない。
既に見られたように、突然皮肉めいた口調で饒舌になったりするし、同級生のララに対してはやたらとちょっかいをかけたがっている気がある。
ハルについてこれまでにわかったことの一つに、彼女が映画系サークルに所属する役者だということがあった。
しかし、それはララの口から聞いたことだったが、ハル本人は自分のことをあまり話そうとしないので、映画に出演したりしているらしいが、詳しくはわからない。
と、そんな感じなので明人はハルがどういった人物なのかいまいち掴みかねていたのだが、自分のミッションにもあまり関わることのないだろうこの人に、無理に深入りする必要性もないと感じていた。
昨年のミスコン優勝者で映画サークル所属だということ以外にはよく知らないのはえりかも同様で、えりかもこの三年生に関しては近寄りづらさを感じていたようであるからだ。
そんなわけでこれまで関心薄だった上級生に、この日明人は強烈な腹立たしさを媒介として気を引かれることとなった。
えりかのこと、ミッションのことで頭がいっぱいなこのタイミングだったことが、その苛立ちに拍車をかけた。
授業が終了した途端、明人はハルからの視線を感じた。
荷物をまとめている間も、じっと見つめられているようである。
まとわりつくような視線。支度を終えて席を立ち、ハルの方に目を向けると、やはり彼女はこちらを向いていた。
ハルは長い前髪でいつも片目が隠れている。
視線も落としがちなので、一見すると暗い性格の持ち主のようにしか見えない。
しかし、彼女の顔の露出している部分を近くで見れば、その化粧をせずとも透き通るように白い肌にガラスの工芸品のように細く綺麗な線の輪郭がすぐに目に焼き付く。
茶色の瞳はその奥底に凛とした光を湛えているようで、きりっと切り揃えられた眉とそのまっすぐな視線が本人の確固たる信念を象徴しているようである。
と、いうのはあくまで彼女の端麗な容姿の表面的要素にのみ焦点を置いた話だ。
普段彼女はぬぼーっと夏空の下で溶けた飴のような目つきをしている。
その口から発せられる言葉も独特で、実際に暗いその性格ばかり際立つのであまり美人オーラは感じられないのが実情だった。
構ってほしい――そんな思いを、ハルは目で訴えかけてくるようだった。
あからさまな上目遣いで、しかも涙ぐんでいるように見える。
こちらの反応を伺っているような絶妙な距離感。色目を使うことに躊躇がないようだが、このタイミングで使う思考が理解できない。
明人は当てつけのように、わざとらしくそっぽを向いて無視した。
そのまま早足で教室を出て、ラウンジの出口に向かう。
狂った計画の立て直しを図らなければならなかった。
自分の大学に戻って、先輩のアドバイスを仰ごうか。
思いを逡巡させながら、扉を開けて廊下へ出た。
そこで、明人は思わぬ人物と遭遇する。
まりなが、そこに立っていた。
目が合うなり、明人は彼女に頬を思い切り殴られた。
「あの子に何かあったら許さないって言ったの、忘れたとは言わせないから」
その目に湛えられるは憎しみの涙。
反論を許さない、凄まじい剣幕。
授業の合間の休み時間には多くの学生の移動経路となるこの廊下だが、明人とまりなの間に生まれた尋常ならざる剣呑なフィールドは群衆の激流をもはねのけた。
おかげでものすごい大渋滞が生まれているが、二人は今そんな俗世とはかけ離れている。
あっけに取られ、とぼけた顔をしている明人が気に食わなかったのか、まりなはもう一度腕を振り上げる。
しかし、その手が振り下ろされることはなかった。
「ハルちゃん……?」と、まりなは手を上げたまま驚いたように声を上げる。
その視線が向けられているのは、明人の背後だ。
明人はそこにただならぬ気配を感じた。
おそるおそる振り返ると、そこには少しだけ開いたドアの隙間からちょこんと顔を覗かせるハルがいる。
長い前髪を地面に向かって垂らし、感情の読み取ににくい目を二人に向けている。
廊下へ出ようとしたらいきなり出くわした場面に興味津々のようだが、それに対して彼女が何を思ったのか、その無表情からは想像もつかない。
動揺したのはまりなだった。
彼女はハルの顔を見た途端にまずそうに唇を歪めた。
どうしたのかと問う間もなく彼女は外の流れに乗り、足早に立ち去っていってしまう。
ハルのことを知っている様子だった。どういう関係なのだろう?
ハルに尋ねる前に、明人は彼女に腕を引かれ、ラウンジの中へと連れ戻される。
「どうしたの。どうしてあの子に殴られてたの?」
出入口の脇に二人並んで立つ。
ハルはくつくつと笑いを堪えられない様子だ。完全に馬鹿にされている。
「別に。ハルさんには関係のない話だ」
明人はぶっきらぼうに答えた。
先程の憤りも残っているし、クククと奇妙な笑い方をするこの上級生が薄気味悪かったせいもある。
すると、ハルは急に気味の悪い笑みを止めて微笑んだ。
ミスコン優勝者らしい、常人とはかけ離れた美しい微笑みだった。
慈愛に満ちた神聖な光がその目に宿ったようにも見える。何なんだこの人は。
「それがね。驚くべきことに関係あるのよね」ハルは微笑みながら言った。
「関係? どんな?」
コロコロと表情が変わる目の前の三年生がひたすらに不気味で、明人は内心引き気味になる。
「さっきのあの子。まりなは私の妹」
「はあ?」思わず素っ頓狂な声をあげる明人。
「まじで?」目の前の三年生とまりなが姉妹だということは、見た目からしてにわかには信じられなかった。
「うん。まあ、嘘だけど」ハルは平然と言ってのける。
「あの、殴っていいですか」明人は拳をプルプルと震わせながら言った。
ハルは咄嗟に自分の身を庇うようにして、一歩後ずさる。
「怖いっ。私みたいな人間国宝級に出来のいい女を殴るって言うの? 最低な男っ。人でなしっ」ハルの顔は恐怖に引きつった。
見る者全てを底知れない不安の闇に引きづり込むような真の絶望がその目に浮かんでいる。
今度こそ明人は言葉を失った。
唖然として目の前の三年生を見つめる。彼女が全く理解できない。
怯えきった様子でいたハルは、しばらくすると何事もなかったかのように姿勢を正し、
「つまんなっ。反応してくれないとかつまんなっ。せっかく男子が大好きか弱い乙女を演じてみせたげたっていうのに、君ったらそんな目で見てくるんだ。へえ、そうなんだ。ふーん。あー、無駄に恥かいたわ。てか、けっこう普通に恥ずかしい。誰かに見られてたかな。あ、やば、事務の人たちめっちゃ見てる。私って痛い子? はー、ショックだわ。凌辱された」
しーん……
完全に沈黙した。
いつの間にか、セミナールームの方から何人かの学生が顔を覗かせていた。
仮にも昨年のミスコン優勝者であるのだから、桜堂ハルはキャンパスではそれなりに有名なのだ。
彼女が誰かと何か話している。
一体何の話をしていて、この男子は何者なのだろう。
そんな好奇の目が向けられる。
「そろそろ次の授業いかないといけないんで、俺はこれで……」
この場に耐えられなくなった明人は、腕時計を確認するふりをしてその場を去ろうとした(もちろん、次の授業はない)。
まりなとハルの関係性は気になるところではあるが、目下のところ優先されるべき事項は他にある。
想像以上に変だったこの三年生の相手をしている暇は、今はない。
そそくさと廊下へ出ようとした明人だったが、次のハルの言葉で足を止めた。
「うっそだあ。次の授業なんてないくせに」
…………?
はてなマークが浮かび上がる。
次の授業なんてないくせに。
どういう意味だ?
何故、この人がそんなことを知っている?
何故、この人がそんなことを言ってくる?
動作を停止したまま、頭がフル回転していた。
その間、時間にしておよそ三秒。
猫のように素早い動きで近づいてきたハルが、明人の耳元で囁いた。
「君がここの学生じゃないってこと、私は知ってるんだよ。椎名明人、くん」
天敵の気配を察知した野生動物のように、明人はがばっと振り返った。
ハルから距離を取りたかったが、後ろがすぐ扉だったので、背中を張り付けるようにして目の前の三年生を睨む。
心臓が破裂しそうだった。
どうして。
どうしてこの人が?
対するハルは得意満面。セリフの最後にはハートマークが付きそうだった。
上機嫌に口元を緩め、余裕綽々の視線を返してくる。
「驚いた? まあ、安心しなよ。私以外の人には気づかれてないと思うからさ」
「どうして……どうやって?」
明人はそう口にするのが精いっぱいだった。
潜入は完璧に成功していると思っていた。
それがまさか、最も接点の少なかったこの人にバレていたなんて。
原因が皆目見当つかない。
「どうして私が君の正体を知っているのか。それが知りたければ……」
ハルは鼻歌を歌うように楽しげな口調で言った。「これからちょっと、私に付き合ってくれる?」
それでいて視線は鋭く、狙った獲物は逃さない猛禽類のような目が、顔半分を隠す前髪の隙間から明人を捉えていた。
普段は例えるならペルシャ猫のように、おっとりとして呑気な家猫のような彼女。
そんな桜堂ハルが持ち合わせる完璧に美しく獰猛な豹の一面を、明人はこの時目前にしたのだった。
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