3-3.

 順風満帆に思われたこの日のデートであったが。


 最悪の出来事はこの直後に待っていた。


 突然開け放たれる、テラスの出入口の扉。

 がやがやと飛び出てくる大柄な男たち。


 ゲラゲラとしゃがれた声が鳴り響く。

 甘やかに澄み渡っていた空気が一瞬にして消し飛ばされた。


 明人とえりかは同時に振り向いた。男たちは四人。

 全員百八十センチは優に超えている。肌は色黒く、ラグビーやアメフト選手を思わせる筋骨隆々とした巨体。


 四人は互いに小突き合い、大きな笑い声を上げながらふざけ合っていた。

 薄汚れただぼだぼの服を身に纏い、静謐で洗練されたこの空間には明らかに不釣り合いな男たち。

 

 彼らは大型犬がじゃれ合うように騒ぎながら明人とえりかのいる方へとずんずんと向かってくる。



 調子を狂わせる……



 明人は顔をしかめ、ちょうど店を出る頃合いだと思っていたこともあり、えりかの手を引いてその場を離れようとした。



 と、その時だった。



 男たちのうちの一人が、傍にいたもう一人に思い切りタックルをかました。

 

 どうやら、ふざけて仲間を川へ落そうとしたらしい。


 そのまま体を抱え上げ、勢いで突き進み、その進路上にいたえりかを巻き込んだ。


 巨岩のような男たちに比べれば、一片の花びらのようでしかなかったえりか。

 華奢で軽い彼女は大風に舞うように吹っ飛んだ。

 巨体の男とともに柵を乗り越え、悲鳴を上げる間もなく水中へ落ちていく。


 バシャーンと勢いよく水しぶきが上がった。

 ぎゃはははと残った男たちの笑い声が辺りを支配した。


 「えりか!」


 あまりに突然すぎた。

 状況を飲み込めたときにはえりかは水の中だった。

 明人は躊躇せずに柵を乗り越え、自らも水中へ飛び込んだ。


 えりかは水面に顔を出し、ぽかんと口を開けたまま微動だにしなかった。

 何故自分が冷たい水に浸かっているのか、全く理解できていない様子である。


 明人はえりかを促し、何とかテラスに引き上げた。

 二人とも見るも無残にびしょびしょで、せっかくの服装や髪型も台無しである。

 テラスの床はそこだけ大雨が降ったように濡れた。


 我を取り戻したえりかは、途端に顔を青くし、両腕を抱えて蹲った。

 

 寒さが襲ってきたのだろう、凍えて身を震わせている。

 

 だらりと垂れた髪が顔を覆い、水が絶え間なくしたたり落ちる。

 

 水を含んだ洋服は鮮やかさを失い、見るからに重苦しかった。

 

 えりかの表情に、つい先程までの明るさは見る影もない。


 えりかと一緒に水に落とされた男がへらへらと笑いながらテラスに上がろうとしてくる。


 その姿を見た瞬間、明人は激しい怒りに駆られ、気が付いたら柵へよじ登ろうとしていた男の顔面を殴り飛ばしていた。

 体格の差はあれど不安定な体勢でいた男はあっけなく水中へ戻っていく。

 再び水しぶきが上がったのを見届けた直後、明人は突然重力がなくなったような感覚に襲われた。


 何が起こったのかを理解したのは、数メートル宙を舞い、その先のテーブル席に背中から突っ込んでテーブルと椅子を激しく散開させた後だった。


 明人は残っていた男たちの一人に投げ飛ばされたのだった。

 仲間を水に還した報復だろうか、しかし男たちは相変わらずゲラゲラと不快なハーモニーを奏でている。


 男たちは自分たちが爪弾きにした明人には目もくれなかった。

 

 彼らの目は今、水と戯れている仲間の一人と、そしてすぐそばに無防備で蹲る少女に向けられている。


 「おいおい、こんなところに可愛い子猫ちゃんがいるぜ。誰が連れて来たんだよお」


 「知らねえぜ。最初からここにいたんだよ。気づかなかったけど、たぶんな」


 「びしょ濡れじゃねえか。どうしたんだろうな。水遊びでもしてたのかな」


 「あいつがいきなり落ちてきて、びっくりして上がってきたんじゃねえ?」


 「ぎゃははは。そりゃ悪いことしたな。ごめんよお、悪かったな、子猫ちゃん」


 と、その時川に落ちていた男がやっとテラスに戻ってきて、だみ声を周囲に浴びせた。


 「俺、落とされる直前に何かぶつかった気がする。もしかしたら、それがこの子だったのかもなあ」


 穏やかな夜の気配を一掃するように、男たちの爆笑が渦巻いた。


 「まじかあ。全然気が付かなかったや」


 「可愛い猫ちゃんだなあ。濡れたままじゃ可哀想だし、俺らで飼ってやるか?」


 「ぎゃははは。猫ちゃんじゃなくて、オンナノコだよ、オンナノコ。ケーサツに捕まるぜ、そんなことしたら」


 「でも本当に飼いたいくらい可愛い顔してるぜ、この子」


 「猫ちゃんよお、どうだい。俺たちと一緒に来るかい?」


 えりかが危険に晒されているこの状況で、明人は全身を打ち付けた衝撃で身動きが取れなかった。

 この間、五分にも満たなかっただろうが、永遠にも感じられる時とは彼にとってまさにこの時のことだった。


 やがて騒ぎを聞きつけた店員たちが駆けつけてくる。

 他の客たちもいつの間にか野次馬に集まっていた。

 

 誰かが電話で警察を呼んでいる声がする。

 野蛮な男たちに誰もが不安を募らせ、店内が不穏な空気に包まれる。


 男たちは面倒を嫌ったのか、あっさりと退いていった。

 

 質量を持って圧迫されるような不快な笑い声を轟かせながら去っていく男たちに自ら関わろうとする者は誰一人おらず、男たちはゲラゲラと店内を闊歩してどこかへ去ってゆく。

 

 残された明人とえりかに、心配そうな顔をした店員たちが駆け寄ってきた。


 「えりか、えりか!」やっとの思いで身体を動かした明人は、店員たちに応えようともせずにえりかのもとへまっしぐら。

 「怪我は? 身体に異常はない? 寒い? ああ、顔が真っ青だ。誰かタオルを!」


 目の焦点も合っていない様子のえりか。

 濡れた肌からは血の気が失せ、ぶるぶると身体の震えが止まらない。

 明人の必死の呼びかけに、やがて彼女はうっすらと弱弱しい笑みを浮かべた。


 「ごめんね、ごめんね。うう、すっごい寒いの。身体が凍えちゃって、動けない。せっかく楽しいご飯だったのに、こんなことになっちゃって、ごめんね」


 その言葉に、明人は胸が張り裂けんばかりの怒りを爆発させた。


 「どうしてえりかが謝るんだよ。君は何も悪くなんかない! 全部あいつらのせいに決まってるだろ! ああ、何だったんだよあいつらは。ちくしょう、俺の方こそごめん。あんなに近くにいたのに、君を守ってやれなかった。ごめん、ごめん、ちくしょう、ちくしょう!」



 えりかはすっかり具合を悪くしてしまった。

 暖かい店内で休み、多少落ち着きはしたものの、身体の震えが止まらなかった。

 顔色は悪いままで、それでも気丈に振る舞う彼女は見ていて痛々しかった。


 明人は警察の事情聴取に応じた後、えりかをタクシーで家に帰した。

 家まで送るつもりだったが、えりかが頑なに拒否するので、その場で見送るに留めたのだった。


 「本当に大丈夫だって! そこまで迷惑かけられないよ。暖かい布団で寝れば、すぐに体調良くなるから。そんなに心配してくれなくても平気だよ、本当に。明日はIEPだし、明日には絶対元気になってるから、ほら、また明日会おうね」


 翌朝、明人はえりかから熱が出たから授業を休むという報告と謝罪のメッセージを受け取った。


 激しい怒りと屈辱感。

 そして何よりも、思いがけないハプニングでミッション進行の計画が狂ってしまったことに、明人は言いようのない焦りを感じていた。

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