3-2.
湊まつりが終わった後の最初の木曜日。
五限の法学の授業が終わってから、明人とえりかの二人は水面のレストランにやってきた。
既に夜の帳は下りきって、水面は静かに揺れながら街の光を映してキラキラと幻想的に輝いている。
このレストランのテラス席は、春には川沿いで満開になる桜並木の景色を求めて人々が殺到し常に満席状態となるのだが、十一月にもなれば誰も外には出たがらないので、窓越しの景色の一部となっていた。
明人は窓際の席を予約していた。煌々と街を照らすビル群に挟まれた夜景を一望できるこの場所は、季節を問わずいつでも人気だ。
ロマンチックな空気に包まれて、仄かな明かりに照らされた店内はほどよい賑わいを見せている。
食事をしながら、明人とえりかは主に先日の学園祭の話をしていた。
「ララさんのライブを見られなかったのは、本当に残念だったなあ」
そう呟いたえりかは、本当に『ヴァネッサ』のライブを楽しみにしていたようだった。
湊まつり三日目の夜に起こった特設ステージの倒壊はあまり突然のことで、誰にも止めようがなかった。
原因は特定されておらず、それ以降のステージ公演は全て中止。
来場者たちから大きな落胆の声が上がることとなった。
怪我人が出ることがなかったのは、不幸中の幸いだろう。
北星川ララにぞっこんと噂の衣笠日向率いるバンドのライブが終了後、メンバーが全員ステージから降り、次の『ヴァネッサ』のメンバーが登壇するまでのわずかな時間にそれは起こったのだ。
小教室一つ分ほどの大きさもあるステージの足場の一部が崩れ、最初に大きく傾き、それから完全に崩れ落ちるまで数秒間のラグがあった。
その隙に周りにいた人は間一髪その場を逃れ、事なきを得たのだ。
「ララさん、ショックだろうなあ」と、えりかは心配そうな顔をしている。
「ショックを受けてるというよりは、ライブができなかった不満で大荒れしてそうだ」
明人はえりかを元気づけるように、努めて明るく言った。
明人の期待通り、えりかは面白そうに口元をほころばせる。
「確かに。復讐心に燃え上がってそう。来年のライブはすごいことになるかもね」
「来年まで一切衰えることなく燃え続けてるっていうのも、あの人に限ってはあり得そうだから怖いよね。来年のライブも絶対来るんだよ! とかって、明日早速言われそうだ」
「言われそう言われそう! 来年はララさんにとって最後の学園祭だもんね。絶対成功させてほしいから、今から全力で応援しちゃう」
「それはそれで、随分と気が早いことだな」
「えー、そうかなあ。ララさんの一ファンとして、当たり前の使命だよ。明君は、ヴァネッサの音楽あんまり興味ないの?」
「実は、そんなに知らなかったんだよね。今回のライブで聴くのを楽しみにしてたんだ。だから正直、俺もけっこうショック。確か、ネットで曲を配信してるんだよね。そっちで聴いてみようかな」
「聴いて聴いて、絶対聴いて。すっごくかっこいいから。そうだ、今聴こ。一緒に。あたし、けっこうダウンロードしてあるから。ちょっと待ってね」
えりかはスマホを取り出してイヤホンを取り付け、片方を差し出してきた。
シンプルな白の有線イヤホン。言われるがままに明人は片耳にイヤホンを装着した。えりかももう片方を自分の片耳に着けて、スマホを操作し出す。
「この曲ね、『ダダダダダ』っていうヴァネッサの代表曲の一つなの。新歓ライブで初めて聴いて、あたし一発で虜になっちゃった」
明人は普段のララのイメージからして、何となくヴァネッサの曲は明るくポップなものだとばかり想像していた。
そのせいで、イヤホンから暗い雰囲気の曲が流れ始めたときは意外に思わざるを得なかった。
曲の出だしは不安を煽るような重苦しいメロディ。
不思議の国のアリスのようなダークファンタジーの世界を連想させる。
かと思えばサビに入ると急にポップな電子音が入り、ぱっと空が晴れ渡るように明るくなった。と、すぐにテンポは落ち込んで、暗い世界に舞い戻る。
風変わりな曲だが、独特なリズムに心惹かれる。
えりかが小さな声で歌詞を口ずさんでいた。
堕ちていく 恋の奈落へ 底を見に行こう
ダダダダダダダダダ……
えりかはこの日のデートを楽しんでくれているようだった。
明人は適度に彼女を褒め、適度に笑いを誘い、初デートとしてはいい具合に進んでいると手応えを感じていた。
明人は頃合いを見て、そろそろ行こうと切り出した。
会計を済ませてから、最後にテラスに出てみようとえりかを誘う。
外はすっかり冷え込んでいたが、澄んだ空気の中で見る夜景はまるで別世界のようだった。
市谷キャンパスのリベラルタワーがよく見える。
耳をすませば、大通りを走る車の音が聞こえてくる。ミントのように爽やかな水の匂いが感じられた。
柵から身を乗り出し、二人はしばらく並んで景色に見入っていた。
「綺麗だね」と言葉を交わしたきりほとんど会話はなかったが、それは気まずさを呼ぶことのない、心地の良い沈黙だった。甘い、静謐な空気。
「都会だと、星が見えないのが残念だね」と、えりかが呟いた。
「その代わりに綺麗なえりかが見られたから、俺は満足かな」と、明人は景色の方を向いたまま返す。
返事がないと思った次の瞬間、明人は横から肩を強く押され、体勢を崩した。
振り向くと、こちらに顔を向けたえりかが頬を膨らませている。
「もう。よくそんな恥ずかしい台詞を何度も平気で言えるよね」
「別に恥ずかしくなんかないさ。本当にそう思ってるんだもの」
「あたしが恥ずかしくなっちゃうじゃん!」
えりかは顔を真っ赤にして叫んだ。
「それなら、何も言わない方が良かったかな。今日はせっかく服装も可愛くしてきてくれたっていうのに。何も言えないのは、残念だな」
明人が真面目腐って聞き返すと、えりかは返す言葉が見つからなかったようだ。
ぷいとそっぽを向いてしまう。「明君の意地悪」と、小さく呟いたのが聞き取れた。
明人が膨らんだ頬を指でつつくと、えりかはびっくりしたように振り返って、べーと舌を出した。
何だかその顔がおかしくて、明人は声に出して笑った。
笑いながら、「からかってごめん」と謝る。
えりかはふんと鼻を鳴らして、景色の方へ顔を戻した。
明人はその横に並び直し、今度は肩が当たるくらいの距離まで近寄った。
えりかはそこから動かなかった。
「意地悪な人は嫌いです」と、前を向いたまま言った。
明人は声のトーンを下げて、「悪かったよ」と本当に申し訳ない気持ちを込めて言う。
えりかはふくれっ面のままだ。
「本当にそう思ってるのなら、ちゃんと誠意を見せてください」
「そしたら、さっきの言葉は取り消して、改めて言わせてほしい」
そう言って、明人は柵に体を預けたまま、えりかの方に体を向けた。
えりかが振り返る。その目を真っ直ぐに見つめながら。
「今日は来てくれてありがとう。色々話せて、楽しかった」
その言葉を聞いて、えりかはわざとらしく睨んできた。
「どうして最初からそうやって、普通の言い方ができないのかな」
「ごめん」明人は素直に頭を下げる。「恥ずかしかったから」
えりかはくすりと笑った。
「いいよ。許す。こちらこそありがとね。あたしも楽しかった」
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