第三章
3-1.
湊まつりが終わり、キャンパスには平穏な空気が戻っていた。
学園祭の前だろうが後だろうが、授業はお構いなしに行われる。
学生たちはそそくさとありふれた日常の中へ舞い戻っていく。
学園祭で盛り上がった分の反動で、キャンパスは一気に冷え込んだように感じられた。
金曜一限のグローバルラウンジ。
セミナールームで毎週行われているIEPではこの日、出席率が通常の半分しかなかった。
「(あらら。今日はえりかがいないね。あの元気な子が休むなんて珍しい。ララも二週連続で休みだね。学園祭で盛り上がった反動で風邪でも引いたのかしら? ただの遅刻ならいいのだけれど)」
チャイムが鳴り、やってきた講師のペギーは珍しそうな顔をして部屋を見渡した。
その言葉の通り、この日は明人とハルしかその場にいなかった。
半期の授業は全十五回。
この日は七回目、ちょうど前半戦から後半戦に切り替わる折り返し地点にあたるのだが、前の週にララが学園祭ライブの準備で欠席したことを除けば、ここまでメンバー四人揃って皆勤賞だった。
それゆえに、部屋に二人しかいないのは妙な違和感がある。
とは言え、体調を崩しやすい季節だ。
体調不良で欠席者が出たとしても、おかしくはないのだが。
何か連絡を受けているかとペギーに尋ねられ、明人はえりかが風邪を引いてしまい、しばらく休んでいるのだと伝えた。
一方で、ハルによると、
「(ララがいつも身に付けているヘッドホンは実は彼女の一部なんだ。彼女はその昔、不慮の事故により脳が機能不全に陥ってしまった。あのヘッドホンが脳の機能の足りない分を補っているというわけ。彼女のアーティストとしてのセンスも、あのヘッドホンなくしては発揮されない。どうやら先日、外部からの衝撃でヘッドホンが壊れてしまったらしい。ヘッドホンがなければ、あのカリスマもただの空っぽのお人形さん同然だ。修理が終わるまでは、登校できないと思う)」
「(ハル、君のその想像力は感嘆に値するけど、今は真面目に答えてほしいな)」
ペギーに一蹴され、ハルはアイムソーソーリーと流暢に応えて肩を落とした。
実際は、何も知らないとのことだ。
誰にも連絡は来ていなかった。
この日の授業は、明人はえりかのことで頭がいっぱいで何も頭に入ってこなかった。
体調不良と伝えたのは嘘ではない。彼女は実際に高熱でここ数日間授業を休んでいるのだった。
ただそれだけのことであれば、明人がここまで頭を悩ませることはなかっただろう。回復を待てばいいだけの話だ。
お見舞いメッセージを送ることで、さらにポイントアップを狙えたかもしれない。
しかし、現実の事情はえりかがただ体調を崩しているという単純なものではなかった。
事の次第によっては、ミッションの進行に大きな障害を生む恐れもある重大な事態だ。
下手をすれば、えりかとの関係に悪影響が出てしまう可能性がある。
いや、もしかしたら、すでに取り返しのつかない状況になってしまっている可能性も拭い切れなかった。
まだはっきりとしたわけではないが、それだけに、明人は気が気ではない。
緊急事態である。
授業など受けている場合ではないのだ。
事の始まりは、湊まつりの前に遡る。
湊まつりの一週間前、明人はミッション達成に向けて一つの攻めの作戦に打って出た。
*
市谷ゲートにある学食は市谷キャンパスで最大の面積を誇る。
正門前広場の頭上に覆いかぶさるように張り出した三階がワンフロア丸ごと食堂になっているのだ。
ここは見晴らしという単語由来の『カフェテリア みはる』という名前が付けられていて、学生たちからは「みはる」の愛称で親しまれている。
壁は一面ガラス張りで、名前の通りキャンパス前を流れる川やその向こうの街並みがよく見渡せる。
この学食を含めた市谷ゲートは、外から見れば張り出した部分の存在感が圧倒的で、ともすれば現代美術館か何かと見間違えられかねない豪奢な造りをした校舎だ。
その日の昼休み。
満席状態の『みはる』で、どうやら席が取れないで困っている様子の学生の姿があった。
ブラウン×ロングボブの髪が可愛らしい女子だ。
花柄ブラウスに生成りのフレアロングスカートがよく似合っている。えりかである。
学食では混雑のピーク時でもぽつんと一席だけ空いていたりすることは多い。
それゆえ、一人だけなら意外と席探しに苦労はせずに済むのだが、この日はタイミングが悪かったのだろうか。
えりかは食堂内を歩き回ること十数分、未だに席につけずにいた。
と、うろうろと不安そうに辺りを見渡している彼女の肩を後ろから叩く者がいた。
明人である。
「席、探してるの?」と尋ねると、えりかは答えるよりも先に「明君!」と驚きの声を上げた。
先程までの頼りない表情はどこへやら、にっこりと笑顔に様変わり。
えりかはこの時間に昼食を取るのは諦めて、三限が終わるまで我慢しようと思っていたところらしかった。
やれやれといった風に肩をすくめて、「明君は、もうご飯食べた?」と聞いてくる。
この遭遇が仕組まれていたことを、彼女が知る由もない。
「これから食べようとしてたとこだよ。えりかは今、一人?」
聞き返した明人は、その質問の答えを既に知っている。
「うん。まりなと一緒に食べるつもりだったんだけど、急に用事ができたって言ってどっか行っちゃったの」
まりなの急用は明人の策略の内だ。
明人はしれっとした顔で答えた。
「おっ。それならナイスタイミングだったね。二人テーブル席取ってるんだけど、俺も一人だしちょうどいい。一緒に食べようぜ。先並んでてよ、荷物置いてきてあげる」
明人は定番のとんかつ定食、えりかは湊大学ではここでしか頼めない変わり種のクリームパスタを注文した。
パスタは他にも数種類あるし定食メニューも充実、うどんそばラーメンはもちろんカレーや丼ものもきっちり揃えられ、期間限定のフェアも数多いバラエティの豊かさがここ『みはる』の特徴だ。
「ここのクリームパスタ、安くて美味しくて好きなんだけど、いつもすぐ売り切れちゃうからなかなか食べられないんだよね。でも、今日は残ってからラッキー。明君のおかげだよ。ありがと!」
えりかは好物にありつけて喜色満面だ。
純度百パーセントのやわらかな笑顔。混じりけのない喜び。
えりかが笑うときはいつも、なんと言うか、自然だ。
決してそんなことはないとはわかりつつも、えりかの笑顔を知っていると、他の女の子の表情が作り物っぽく見えてしまう。
それくらいにえりかは、顔の隅々までに感情を行き渡っているような表情の作り方をする。
もちろんそのことについて、本人は無意識なのだろうが……
こんな女の子はめったにいない。
新入部員研修のターゲットとして先輩が選んできたのも頷けるくらい、嘘偽りなく可愛い。
相手にとって不足なし。
明人はそんなことを思いながらえりかとの会話を弾ませた。
「確か、えりかはパスタが好きって言ってたよね。普段もよく食べるの?」
「うん。休みの日とか、たまに家で自分で作ったりもするんだよ。と、いっても、スーパーで買ったソースを使うのがほとんどなんだけど。この前の日曜は、お昼にたらこスパゲティ食べたんだ。ちょっと贅沢しちゃえ、って思って二人分ソースを入れてみたんだけどね、これが失敗失敗。もう完全に入れ過ぎだった。たらこ感強すぎて、何かもう辛さ十倍ならぬたらこ十倍って感じ」
たらこ十倍という未知のワードに、明人は吹き出しかけた。
えりかは自作のたらこスパゲティをスマホで取った写真を見せてくれた。
あたかもカレーライスのように、皿の半分がたっぷりたらこソースで埋まっている。
麺と混ぜ合わせた後の写真はグロテスクな感じだ。
見た目によらず、えりかはおてんばっぽさがある。
と、そこでえりかがさらに、
「失敗しちゃったけど、何でもやりすぎは良くないんだっていう教訓を得られたから、まあフィフティフィフティってとこ?」
そんなことを言い、明人は今度こそ吹き出した。
「フィフティフィフティって、使い方おかしいだろ」
「えっ、そうだっけ? じゃあ、何だろ。ま、いっか。でね、でね、聞いて聞いて。今ので思い出したんだけど、えっと、写真あるかなあ……あった! これこれ。ゴルゴンゾーラのペンネ。家族で旅行に行ったときに食べたんだけど、これがすっごいおいしいの! チーズがほっっんとにもう濃厚で濃密で芳醇って感じで、ほっぺたとろけちゃいそうになるくらい!」
「ちょっと待って。ペンネの味の話の前に、今の会話の何でそれを思い出したのかを教えてほしい」
明人は完全にツボに入った。笑いを堪えられない。
しかし、えりかは何がおかしいのかわからかったようで、きょとんと目を丸くした。
「何でって、フィフティフィフティ」と、えりかが真面目腐って言ったのがおかしく、明人は腹筋が崩壊する。「フィフティフィフティとペンネの関連性って何!?」
「関連性かあ。たぶんだけど、ペンネじゃなくてゴルゴンゾーラが繋がったんだと思う。ほら、フィフティフィフティもゴルゴンゾーラもカタカナいっぱいだし!」
「単純すぎる!」
「もしくは、ゴルゴンゾーラって、何となく強そうな、ゲームのボスキャラみたいな響きするじゃん。もしくは、魔法かな。超特大火炎魔法みたいな。フィフティフィフティも、そうだ、言われてみれば魔法の名前みたい! 絶対に勝てないような相手でも、半々の確率で勝てるようになる必殺技!」
「何とも評価し難い! 一見しょぼそうだけどよくよく考えたらかなり反則技!」
こんな調子で、食事を終えるまで二人の間には笑い声が絶えなかった。
明人がえりかと一緒にいるときは、基本的に会話が途切れることが少ない。
女子から興味を持ってもらうためには、まずは自分から相手に興味を持つこと。
恋愛の定石に従って明人が積極的にえりかに質問を投げかけたりしているというのもあるし、何よりえりかが一度話し出したら止まらない。
知り合ってから一か月半近く、明人とえりかはすっかり打ち解け合った。
えりかは会うたびに聞いて聞いてと話をしてきてくれる。
授業で顔を合わせると、ぱあっと綺麗な花が咲くように笑顔を見せてくれるようにもなった。
悪くない。
明人は胸の内で、しっかりとした手応えを感じていた。
「ねえ、えりか」
授業開始まで残り十分。どちらからともなく席を立つ支度を始める。
空になった食器を載せたトレーを持ち、返却台の方へ向かおうとしたところ、明人はえりかを呼び止めた。
振り返ったえりか。「ん?」きょとんと丸まったその目を見ながら。
「水面のレストランさ、今度一緒に行こうよ」
水面のレストランとは、市谷キャンパスの近くにある有名なレストランのことだ。
――行ってみたいお店といえば、水面のレストラン! ずっと気になってたんだけど、機会がなくて。ああ、誰か連れてってくれないかなあ!
これは会話の中でふとえりかが漏らした言葉である。
水面のレストランは市谷キャンパスの傍の水路の上にある。
そんな一風変わったロケーションのおかげで非日常的な景色を楽しみながら食事をできることで人気なのだ。
市谷キャンパスの学生たちからは、絶好のデートスポットとしても名高い。
そこへ一緒に行こうというお誘い。
つまりはデートをしようということ。
えりかの反応は早かった。
「連れてってくれるの?」
やや上目遣い。うっすらと笑みを浮かべたその顔を、いつものえりかっぽくない微かな色気が覆った。
「もしえりかが良ければね」
明人が見つめ返すと、えりかはふっと相好を崩す。
今のは意識的な表情だったのだろうか?
明人は思わずドキリとしてしまった。顔に出ていなければいいが。
「いいよ」返事をしたえりかはいつもの無邪気な顔に戻っていた。
彼女は学園祭が終わるまではサークルで忙しいので、水面のレストランに行くのは学園祭が終わった後がいいということだった。
「そしたら、来週になってからまた連絡する」
「うん、わかった。ありがと。楽しみにしてるね」
デートの約束を取り付けたところでこの日は別れた。
一瞬だけであったが、えりかの大人っぽい表情を見て、明人は彼女に対する印象が変わったように思えた。
どのように変わったのかは、自分で納得のいく説明を見出すことができない。
それはまるで、これまでただの可愛い女の子だと思っていたえりかが、何かもっと大きな、不思議な魔力を持った存在に変貌したような。
確かなことは、それが何にしろ、明人がその存在に強力に惹きつけられたということだった。
この週の木曜日は、翌日から始まる学園祭準備のため午後の授業が休講となった。
そして金曜日からの四日間、市谷キャンパスはお祭り騒ぎの熱気に包まれることとなる。
明人は三日目に参加し、えりかのサークルの展示を訪れた。
その日の夜に特設ステージの倒壊事故というハプニングがあったりしながら、湊祭りは四日間の大盛況の内に今年も幕を閉じる。
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