2-5.

 万騎が原えりかと仲の良い柳まりなという女子が、ミッションの進行にあたって大きな不安要素となっていた。


 初めて会った際に彼女が明人に対して抱いた憎悪は根強く彼女の心に残っているようで、とある日に金曜二限が休講となったえりかと暇を潰している最中にばったり出くわしてしまった際には対処に困ったものだった。


 えりかと明人が一緒に授業を受けたりして交友関係を深めるようになっているということは、既にえりかによってまりなの知るところとなっていたようである。


 六十年館一階のグローバルラウンジの隣に、学生ホールと呼ばれる広々としたフリースペースがあった。


 そこででえりかと二人雑談に興じていたところ、えりかに呼び出されてまりなが登場したのだ。


 まりなは明人の姿を認めるなり、道端に潰れていたゴキブリの死体を見たかのような顔をした。


 「どこの馬とも知れない男にほいほいついていく女っていうレッテルを貼られたら、女子として終わりだよ、えりか。貞潔が失われる」


 えりかの隣に腰を下ろながらまりなが言う。


 今度はえりかが顔をしかめる番だ。


 「ちょっと、まりな。それはあんまりな物言いだよ。明君に謝って。そもそも、明君はどこの馬とも知れてなくないし。あたしたちの同級生だよ。頭も良いんだよ」


 まりなは返事をせず、ふてくされてそっぽを向いた。


 えりかは申し訳なさそうに明人に謝ってきた。


 「ごめんね、明君。まりなっていつもこうなの。一度嫌と思ったらすっごい頑固なんだから。何かね、最初に持った自分の考えを自分で取り消しするっていうことを、プライドが許さないみたい。明君のことも、話してみると良い人だよって、何回言っても聞き入れてくれないんだから。でも、根は本当に優しくて、いい子なんだ。だから、どうかお願い、ひどいこと言われて嫌かもしれないけど、明君はまりなのこと嫌いにならないであげて。あたしも一生懸命説得してみるから」


 「言われなくとも、そのつもりだよ。俺は別に」明人は言いかけたが、えりかの言葉に反応したまりなに遮られた。


 「私はえりかのことを思って言ってるの! えりかは優しすぎる。心が綺麗すぎる。疑うってことを知らない。私はそんなえりかのことが好きだし、尊敬してる。でもね、同時に、見かけに騙されて何か悪いことに巻き込まれるんじゃないかってとても不安なのよ! どう考えたって、この人は怪しい! あんな出会い方、普通じゃない! もちろん、絶対に私の考えが合ってるっていう証明はできないよ。けど、えりかにはもう少し警戒心を持ってほしいの。いい、よく聞いて? あなたの話を聞いてる限り、普通だったら、今この時点でそんな風に相手に心を許してることはあり得ない!」


 こうして、またもや仲良し女子同士の口喧嘩の火ぶたが切られた。


 二人を止めたくとも、明人は争いの火種そのものである。

 近づいたところで火力を強めてしまうだけだ。タイミングを見計らって撤退せざるを得ない。


 いやはや、何ともやりづらいのは、まりなの発言が確実に正鵠を射ていることなのである。

 

 バレているのではないかと不安になるくらい、彼女の指摘は鋭い。


 幸いにもえりかがこの出来事をきっかけに明人に対して疑念を抱くというようなことはなく、その後も変わりなくに明人はえりかと接してきたのだが、常に不安がつきまとっていた。


 『身バレせずに告白を成功させる』というミッションを遂行する上で、自分の正体を疑る存在は最高レベルの危険要素である。

 その要素が追加されるだけで、ミッションの難度は格段に上がる。ほんの少しのミスが命取りになるだろう。


 少しでもリスクを減らすために、明人は一度、えりかのいないところでまりなとの接触を図った。


 えりかはお喋り好きな女子である。


 例えば、この後のスケジュールを尋ねたとしたら、その日の授業全てについて担当教員から開催教室まで隈なく教えてくれるだけに留まらず、先週のこの授業ではただえさえ狭苦しい教室で隣の席の一・五人分の横幅がある男子が自分のスペースにまではみ出してくるのだが身体が当たっても気が付かない様子なので、彼を本来のスペースに押し込むのに人知れず奮闘していたせいで授業の内容が頭に入らなかった挙句結局彼ははみ出したままだったとか、その後の昼休みに食堂へ行ったら満席で、席が空いた瞬間を絶対に見逃さまいと目を凝らしていたらまさかの小学校時代の同級生を見つけるという事態に陥り、話しかけたかったものの時間がなかったのでその時は食事を優先し、後で連絡したら全然違ったとか、とにかく何でも色々と話してくれる。


 その話にはよくまりなも登場する。


 それゆえ、まりなと大半の授業を一緒に取っているえりかからまりなのスケジュールを聞き出すのは容易かった。


 まりなが一人で取っている授業を知った明人は、彼女がその教室へ向かうルート上で偶然のすれ違いを装う。


 「あっ」明人がふと気が付いた風に声を上げると、向こうもこちらに気が付いて立ち止まった。


 どちらもすぐには喋り出さなかった。


 ここでまりなが明人のことを無視して立ち去ったりしなかったのは、彼女は彼女で面と向かって言いたいことがあったのかもしれない。


 「大分嫌われちゃってるみたいだけど」明人は慎重に言葉を選びながら切り出した。

 「一つだけ、言わせて。俺は君とも万騎が原とも、いざこざを起こしたいわけじゃない」


 「杞憂かもしれないけど」まりなは静かに、しかし激しい敵意の炎をその瞳の奥に灯して言った。「学生証、見せてもらえる? 胸騒ぎがしてならない私のためと思って」


 秘密情報部を侮ってはならない。


 彼らは決して世のため人のためを思って活動をしているわけではなく、己が欲求を満たすため、持て余した自らの好奇心と探求心を満たすため、言い換えればただの遊びで潜入活動に精を出しているわけであるが、そのために必要とあらば下準備に手間は惜しまないのだ。


 と、いうのも彼は学生証を持っていたのである。


 「別に、いいけど」


 明人は懐から学生証を取り出してまりなに見せた。


 秘密情報部から支給された偽造学生証である。


 まりなは訝しげにそれを見つめていた。


 特に言及はなかった。


 それ以上、この会話は続かなかった。


 「あの子に何かったら、絶対に許さないから」


 まりなはそれだけ吐き捨てるように言い残して、足早に去って行った。


 移動中の学生たちの中に立ち尽くす明人は、一抹の不安を拭いきれなかった。

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