2-3.
IEPの受講許可を得た明人は、続いてもう一つの作戦を実行する。
神楽校舎の六階には千人近い収容人数を誇るホールがある。
ゆったりとした座席が階段状に並び、さながらコンサートホールを思わせるこのホールはセミナー等で使用されることが多いが、もちろん授業でも使われる。
おそらく全国でも有数の広さ、そして快適さを兼ね備える教室だろう。
木曜五限、明人はここへやって来た。
行われる授業は法学の講義だ。
湊大学では、授業科目を大別すると基礎科目と専門科目の二種類に分かれる。
基礎科目は基本的に学部の関係なく取れる授業で、専門科目は学部それぞれの科目だ。
学部によって異なる点はあるが、大体どの学部でも基礎科目と専門科目それぞれ一定の単位数を取らないといけない仕組みになっている。
基礎科目、専門科目の中でもまた細かな分類があり、国際教育センター開講のIEPなど変わり種もあったりする中で、学生たちは卒業までに全ての単位の基準を満たせるよう頭を捻らなければならない。
大学に入学して最初にだいたい誰もが苦戦する課題がこれである。
これから行われる法学の授業は、基礎科目の内の一つだ。
裏シラバスによると、この授業では担当の石川先生が初心者でも非常にわかりやすく、誰もが法学の世界に馴染めるよう、仏もびっくりなくらい慈愛を持って丁寧に説明してくれるそうだ。
石川先生はとにかく慈悲深い人で、授業をしっかり聞いてさえいれば試験は難なく合格できるよう配慮してくれることで有名らしい。
何なら、授業を聞いてなくたって大丈夫。授業の大半を欠席しても、単位はもらえるとか。
要するに、まあ、授業は退屈で楽単なのだ(ちなみに、法学部生にだけは評価が厳しくなるという噂もある)。
それゆえに、とても人気な授業だ。
巨大なホールの座席が次々に埋まってゆく。
明人は正面のステージに沿ってホールの端へ向かう。
教室の前方ゾーンというのは多くの学生に敬遠される場所だが、その中でも最前列というのは、特にこういった大教室では誰も座りたがらない場所ランキングでトップスリーに入る。
しかし、今その最前列の端の方の席ぽつんと一人で座っている学生の姿があった。
ブラウン×ロングボブの髪が可愛らしい彼女は、まだ授業は始まっていないにも関わらず姿勢を正しくして真正面をじっと見据えている。微動だにしない。えりかである。
「隣いい?」と話しかけると、振り返ったえりかはあっと驚いた顔をした。
「あれえ、明君! もちろんいいよ、ほら、座って座って。明君もこの授業取ってたの?」
「うん。と、いっても今週からね。履修、結局上手く決めらんなくて。石川先生の法学は誰でも単位取れるって聞いたから、一回も出てないけど履修登録しといたってわけ」
明人の言葉の半分以上が嘘であることを、もちろんえりかが知ることはない。
「わかるわかる、あたしも楽単って聞いたからこの授業取ったの。一限に取ってた政治学をやめてね、代わりに何かいい授業ないかなーって探してたら、サークルの先輩が教えてくれて。五限だけど、背に腹は代えられぬ! ってね」
「端っこで一人でぽつんと座ってるのがえりかだったから驚いたよ。でも良かった、一緒に受ける人がいて助かった」
「このホールの一番前って、何だかコンサートで最前列の席取れたみたいで特別感あるの、わかんない!? あたし好きなの。他の人には、どうかしてるって言われるんだけど」
「どっちかと言えば少数派だろうな」
「ええーっ、せっかくなら楽しく授業受けたいじゃんー。んっふふ、でもあたしも嬉しいな。実はね、これもまりなに一緒に受けようって言ったんだけど、逆にこんな授業取るだけ時間の無駄だからやめとけなんて言われちゃって。何それ、取ろうとしてるあたしのこと貶してんの!? って、まあそんなこと口に出して言ってないんだけどね。あの子みたいに頭良い人にとっては違うのかもしれないけど、普通はそんな難しい授業ばっか取ってられません! と、いうわけで結局一人で取ることにしまして。あたし、一緒に受ける人がいない授業ってこれだけだったからちょっと寂しかったんだ。でも、明君が来てくれたおかげでそうじゃなくなった!」
五限が終わった後の時間帯は、既に夜の帳が下り出している。
授業後、残ってすることもなかった明人とえりかは自然と一緒に帰路につく。
端的に言って、えりかは可愛かった。
えりかは本当によく喋り、よく笑う。
道行く人に無差別に特上の笑顔を振りまいていくかのようなその明るさは、他の人にはなかなか見られない貴重な魅力だ。
こんな人は、他になかなかいない。
出会ったばかりでもそう思わせるオーラが彼女にはある。
そのことに対して本人が無自覚だということも、グッと心惹かれるものがある。
「あ。そういえばこの辺だったよね。あたしたちがぶつかったの」
帰宅中の人々でごった返す駅前の交差点で、えりかがふと思い出したように呟いた。
明人もあの時の光景を思い出し、思わず苦笑いした。
「そういえば、そうだな。あの時はぶっ飛んだ奴もいるもんだって驚いたけど、まあ、袖すり合うも他生の縁とはよく言ったもんだよな」
「えっ、何? 袖すり何とかって、どういう意味?」
「袖すり合うも他生の縁。道で袖が擦れ合うようなささいなきっかけの出会いでも大切にしろってこと。まあ、今回のは袖が擦れ合ったどころじゃないけどな」
「へえ、いい言葉! あたしもあの時は授業のことで頭いっぱいで、まさかぶつかったのがきっかけで友達ができるとは思ってなかったよ。人生って何があるかわかんない!」
そう言ってぱぁーっと笑顔になったえりかに、明人は「なに開き直ってんだよ」とつっこんだ。
えりかはとぼけたような顔をしてから、また笑った。
交差点を渡りながらふと目が合い、どちらからともなくおかしくなって今度は爆笑。
駅前の雑踏に陽気な笑い声が響いた。
何事かという目線がいくつか向けられたが、そんなこと気にしていられないくらいおかしくなった。
「ごめん、そういえばスマホのお詫びしてないよね。修理ってもうしてる? いくらかかった?」
駅のエスカレーターに乗りながら、話題を変えたえりかはしかしまだ笑いの尾が引いている様子である。
明人はポケットから真新しいスマホを取り出し、得意げに見せながら答えた。
「補償に入ってたから、無料で新品に交換。だから別にお金のことは気にしなくていいよ」
「そうなんだ! でも、悪いなあ。手間かけちゃって本当にごめんね」
「いいよ、気にしなくて。おかげでいい友達ができたんだし」
お詫びしてくれるって言うんなら、そうだな。今度美味い飯食いに行くの付き合ってよ。
さらりと明人がそう言うと、えりかは「あーっ。しれっとデート誘ってる!」とわざとらしく眉をひそめた。
あながちまんざらでもなさそうな様子なので、明人は「別にデートだなんてそんな大層な。せっかく可愛い女の子と知り合えたんだから、少し話がしてみたいだけだよ」と冗談めかして言うと、「もう。男の子ってすぐそうやって誉めそやしてくるんだから。やんなっちゃう」とえりかは頬を膨らませた。
明人は笑って誤魔化す。えりかもすぐに頬を緩めた。
「じゃあ、俺は南○線だから、ここで」
「あっ、そうなんだ。うん、また明日だね。IEPで会お!」
改札の前で、二人は手を振って別れた。
去りゆくえりかはふと振り返り、ふっと笑みを零してまた手を振った。
雑踏の中ひらりと舞う美しい妖精のようなえりかの姿が、やがて人混みに呑まれて消えた。
この日の青春ドラマの一シーンのような帰り道を演出するために、明人は一週間えりかを尾行した。
もちろん明人は自身も学生の身分なので、これは自らの学業に勤しむ権利を一週間分放棄しての蛮勇と言える。
その結果、明人はえりかの時間割を把握した。
それだけでなく、えりかの交友関係も大体把握できた。
本人もよく話す通り、えりかは柳まりなと行動をともにしていることが多い。
二人は八割方の授業を一緒に取り、授業のある五日間中五日間一緒に昼食を取っていた。
他の同期生を交えて昼食を取っているような場面もあった。
えりかは教室では男女問わずよく話しかけられていて、予想に違わずモテるようであるが、本人のずば抜けた天然っぷりについていける人が少ないせいか、特に仲が良いのはまりなだけのようだった。
そんなえりかが取ろうとしていた木曜五限の法学。
彼女が珍しく一人でこの授業に臨んでおり、尚且つ授業後は一人でまっすぐ帰路につくということを、明人は事前に把握していたのだ。
気が変わって履修登録するのをやめたり、大教室にいる他の友達と一緒になってしまったりという可能性は残っていたが、結果ストーキングは奏功し、明人は賭けに勝った、というわけだ。
ちなみに、えりかに現在交際相手がいないことも明人は把握している。
入部試験のターゲットとなる他大学の学生たちは、秘密情報部の先輩部員が実際にその大学に潜入して選出する。
その際に、交際相手がいないことが選出の絶対条件となるのだ。
ターゲットの選出基準には、恋愛依存型でなく、簡単に落とせそうにない、というものもある。
もちろん対象が人間である以上、その選出に確実性は求められないのだが、えりかも厳しい基準を満たした上で選ばれたターゲットであることには間違いない。
自分の大学の新入生に紛れては才能ある新入部員を探し出し、他大学の新入生に紛れてはその新入部員に受けさせる試験のターゲットを選び抜く。
先輩たちの並々ならぬ努力によって、この秘密情報部の伝統は受け継がれているのである。
入部試験は期間が年内と決められている。
残された時間はおよそ三カ月。
今年が終わる前に、えりかに告白しなければならない。
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