第二章
2-1.
初秋とは言えども、年々パワフルになっている夏が残していった熱気がまだまだこの東京には充満している。
秋らしい気候を肌で感じられるのはもう少し先になりそうだった。
夏休みの過ごし方というのは学生の数だけあるものだが、その終わりに泣こうが笑おうが授業開始のゴングは全ての学生たちに平等に鳴る。
道行く人々が顔に汗を滲ませるこの季節、ここ湊大学は秋学期に突入した。
湊大学の文系学部が集まる市谷キャンパスは七つの校舎で構成される。
堀に面するガラス張りの神楽校舎。
神楽校舎のすぐ隣は市谷ゲート。
この校舎は、大部分が大きな柱に支えられて正門前広場の上に張り出しているという大胆な構造が特徴的だ。
神楽校舎、市谷ゲートに並んで二十五階建てのリベラルタワー。
市谷キャンパスのシンボルである。
ここだけ昔の大学校舎が現代にタイムスリップしてきたかのように年季の入った六十年館と八十二年館。
元々女子高だった建物をそのままキャンパスに組み込んだオルガン坂校舎。
そして、それぞれの校舎に囲まれる形で中庭がある。
と、ざっとこんな構成だ。
この中で、六十年館は市谷キャンパスで最も古い校舎だ。
外観に負けず劣らず内装も古い。色がくすんでいて、どこを見ても時代を感じさせる。
そんな六十年館には、少々変わった教室がある。
一階の廊下の途中にある、一か所だけ綺麗なガラス張りになっている場所がそれだ。
中は蛍光灯の明かりで煌々としていて、洒落たオフィスのような室内が伺える。
まるで何十年前の車に最新のカーナビが付いているかのような異質さである。
この教室の前の廊下は休み時間中に非常に混雑するのだが、この部屋に入っていく者はごく少数に限られる。
室内では十名程度の学生が、外の喧騒とは隔絶された世界で優雅に談笑している。
何やらただならぬ気配がするここは、グローバルラウンジと呼ばれる場所だ。
その名の通り、国際交流を目的とした活動が行われる場所なのである。
留学に興味のある学生や海外からの留学生向けに有益な情報を発信していたり、セミナーなどのイベントも行われたりするのだが、普段はもっぱら英会話ルームとして使われている。
英語力を高めたい学生たちが、英会話の練習をしているのだ。
グローバルラウンジの中は二つの空間に分けられている。
入ってすぐの部屋が学生たちが自由に使える英会話ルーム、その左手奥に進めば、仕切りで隔てられたセミナールームがある。
セミナールーム内にはホワイトボードとモニターが置かれていて、会社のオフィスの会議室のような雰囲気だ。
ここはIEPという授業が行われる場所でもある。
インテンシブ・イングリッシュ・プログラム。
学生の英語力の向上を目的とした、ネイティブスピーカーの講師によって行われる少人数制の授業だ。
国際教育センターが開講している。認知度はかなり低い。
ただえさえ知られてない上に、そのレベルの高さから敬遠されがちなこの授業。
講座によっては、一人か二人しか受講者が集まらないということも多々あるのだが……
金曜一限。
授業開始三十分前の今、グローバルラウンジのセミナールームには女子が一人いた。
ブラウン×ロングボブの髪が可愛らしい。えりかである。
まだ辺りはしんと静まり返っていた。
何しろ時間が時間だ。
たまにガラス一枚隔てた廊下を人が通り過ぎていく気配がするが、誰もラウンジに入ってくる気配はない。
部屋には二人掛けのテーブルが横に三台、後ろに三列並んでいる。
えりかは右側真ん中の列という遠慮がちなポジションにいた。
パステルカラーのシャツに膝丈のリボン付きフレアスカート、さわやかなサンダルという出で立ちだ。
「おしゃれも勉強もがんばります!」という熱意が伝わってくる。初々しい。
背筋をぴんと伸ばし、あっちを見たりこっちを見たりと落ち着かない。
緊張しているようだった。
空白の二十分が過ぎ、授業開始まで残り十分となった。
このまま授業開始の九時半まで誰も来なければ、マンツーマン指導が始まる!
えりかの頭に不安が過った。
と、その時、ラウンジの扉が開いた音がした。
えりかはびくりと音のした方を向き、咄嗟に姿勢を正す(元々良かったのだが)。
誰かがセミナールームに入ってきた。
「あ、こんにちは」
えりかに気がつくと、入ってきた学生は軽く会釈をした。
ダークブラウン×前下がりショートの女子だ。
漫画のキャラクターのように前髪で片目が隠れている。とても線が細く、背が高い。
薄黄色のブラウスと橙のガウチョパンツをゆったりと着こなしていて、ひらひらと舞う蝶のような印象がある。
一瞬目を奪われてしまうほど、繊細で整った顔立ちをした人だった。
「こんにちはっ」
えりかも慌てて挨拶をした。
落ち着き払っている様子から、上級生だと予想する。
少人数制の授業では、早めにクラスメイトとの関係を築いておくことが大事だ。
積極的に話しかけていこう。
この人が近くまでくるのを待って……
……
待ったが、来なかった。
まだ教室には二人しかいないのだし、近くの席を選ぶものだと思い込んでいた。
そうすれば、まだ誰もいないうちに教室に来たという共通意識ができ、初対面でも話しやすい。
しかし予想外なことに、前下がりショートの女子は会釈だけ済ませると、手近にあった入り口側最後列の席にさっさと座ってしまったのだ。
これじゃ話しかけづらい!
えりかは当惑しながら視線を前に戻した。
間もなく次の学生が入ってくる。今度は背の小さな女子だった。
目を引くような金髪ツインテール。結び目は下の方。ド派手なリボン。
低身長ながらも並外れた小顔のおかげでスタイル抜群。丸くて大きな目と真っ白な肌が日本人離れしている。
ミニスカ×ニーハイ、闇の中で光っていそうなピンクのリップにネイル、首には小柄な女子には似合わぬいかついヘッドホン。
と、かなり個性的な女子である。
ここまで派手なファッションも昨今日本ではあまり見ない。
が、本人はそんなこと微塵も気にしている様子もなく、
「おっはようございまー……れ? あっれれ、ハルじゃない。久しぶり!」
入口のすぐそばに座っていた女子に気がついて声を上げた。
「どしたの、ララ。この授業受けるの?」
どうやら二人は知り合い同士のようだ。
「そうだよ。私、一年のときからずっとこの授業取ってるんだ」
「へえ、意外。正直なこと言うと、ララって絶対『日本が戦争勝ってたらなあ!』って言うタイプだと思ってた」
「何だそれ! 大日本帝国が世界ナンバーワンってわけ? そりゃ日本語が世界公用語になってりゃ多くの日本人は楽だろうけど、英語好きなあたしとしては手放しで喜べる事態じゃないね」
「英語好きなの? 見えない」
「侮辱か? 私が留学生歓迎パーティにいたこと知ってるだろうに!」
仲良さそうに話している二人の反対側で、えりかはもはや緊張を隠せない。
授業の暫定のメンバーは何だかめちゃくちゃキャンパスライフを謳歌してそうな雰囲気の二人だ。
不安だ……不安すぎる!
色んな意味でついていけるか心配!
「もうすぐ授業始まるけど、全然人来ないね。私たちだけかな」
と、金髪ツインテールのララがえりか方に目をやった。
視線というのはどうしてふと重なってしまうものなのだろう、えりかはちょうど同じタイミングでふと二人の方に視線をやって、見事に目が合った。
えりかはびくりと背筋を張り、姿勢をさらに良くする。
ララは悠然とした笑みを返してきた。
「あなたは一年生? 名前はなんて言うの?」
まだ一年生だなんて一言も言ってないのに!
と、微かに悔しさを覚えながらえりかは答える。
「はい、そうですっ。一年です。万騎が原えりか、っていいます」
「やっぱそうだよねー。だってすっごいそんな感じしたもん。えりかね。よろしく!」
「そ、そんな感じですか、はあ」
そんな感じに彼女らの目に映っていたことが、えりかにとってはショックだったようだ。
「あたしはララ。北星川ララ。社学の三年だよん」
「ララさんって、あの、ロクハンの、ヴァネッサのララさん、ですよね」
ロクハンというのは、湊大学最大の軽音サークル、『Rocking Hunters』の略称だ。
ヴァネッサとは、そのサークル所属で最も有名なバンドの名前だった。
偶然にも、えりかはララのことを知っていたようである。
それを聞いたララは、途端に目を輝かせた。
「そう、その通り! ヴァネッサのララだよ」
「あの、あたし、新歓のライブ見て、けっこうファンになりました」
「いいねえ、嬉しいねえ。新歓ライブ、どの曲が好きだった?」
「いっぱい好きでしたけど、ヘッドホンガール大好きです」
「うんうん、いいよね。私もこの曲大好き。ヘッドホンガール、ノってるあたし♪」
「うわあ! こんな近くでララさんの声を聴けるなんて。なんか得しちゃった気分」
「んふふ、この私が真面目に授業を受けに来ることなんてめったにないからね。せいぜい幸運の女神に感謝しておきなさい」
「それ、偉そうに言うことじゃないから」
ふと、ララの傍にいた前下がりショートのハルから突っ込みが入る。
「にゃは」と、ララはわざとらしい照れ笑いをした。
えりかはまだまだララと話したい様子だったが、ハルが会話に入ってきたことで、一旦そちらに興味が向いたようだ。
「あの、もしかしてそちらの方は、桜堂さんだったりします?」
と、えりかから聞かれた途端、ハルは明らかに狼狽して前髪で隠れていない方の目をぎょっとさせた。
「えっ? 違う違う。桜堂ってあのミスコン優勝者の桜堂ハルでしょ。そんなわけないじゃん。いくら名前が同じだからと言って、あんなキラキラしただけの女たちが能無し共の恍惚の目を集めて悦に入るだけの茶番劇の舞台に呑気に乗り込んでいくような奴が実は私みたいな暗くてコミュ障な陰キャオタクだったなんてことあるわけ」
「いやいや、全部言っちゃってるし」
「あっ、やば。しくじった」
今度は逆にララに突っ込まれ、ハルは間抜けた顔をした。
物静かな人だと思っていたらその口からいきなり数多の罵詈雑言が飛び出したことに衝撃を受けたのだろう、えりかは目を丸くして固まっていた。
やれやれといった風にララがハルの後を引き継ぐ。
「ま、そういうことね。この子がその桜堂ハル。去年のミスコン優勝者。信じらんないでしょ? ミスコンの時の顔だけ見てれば誰もが羨む美人なのに、実際はこんなだったりする。私も最初はびっくりした」
「そ、そうなんですね。何というか、その、よろしくお願いします」
まごまごと頭を下げたえりか。
栄えあるミスコン優勝者のハルのことを知っていて、少なからず尊敬の念を抱いていたのだろう。
イメージとのギャップの衝撃から立ち直ることができない。
ハルは罰が悪そうに目を逸らし、「細かい事は気にしないで」と小さな声で言った。
間もなく授業開始のチャイムが鳴る。
上級生二人と思いの外すぐに打ち解けられたのは良かった。
しかし、えりかは他にも気にかけていることがあった。
まだ、来ない……。
ララを最後に、次に教室に入って来る学生はいなかった。
三人だけというのは何だか拍子抜けする気分でもあり、新鮮な感じもする。
一限でしかもマイナーな授業であるから、仕方ないと言えば仕方ないのだろう。
このまま追加メンバーなしに授業が始まっても、この二人となら楽しめそうな気もする。
それでも、えりかはもう一人参加者が現れることを期待していた。
人数的に一人増えてほしかったとか、同じ学年の人も来てほしかったというわけではない。特定の人物の登場を待っていたのだ。
一緒に授業を受けようと約束をした友達。
彼は一体、いつ来るのだろう?
もしかして、約束をすっぽかして現れないのではないか。
所詮は一度会ったきりのまだ浅い仲。
やっぱり取らない、なんて言われたらどうしよう……。
授業開始の時間が刻一刻と迫り、不安が募る。
彼女の気持ちも知らずに、チャイムは無情にも定刻通り鳴り出した。
そのタイミングを見計らったかのように、ラウンジの扉が開かれる音がした。
足早にこちらへ向かってくる。躊躇せず、勢いよく教室に入ってきた。
ぱあっと、雨上がりに蕾が開いたように、えりかはその顔に満面の笑みを浮かべた。
四人目の参加者は男子だった。
現時点で唯一の男子である彼は、教室の奥にいるえりかの顔を認めると、迷わずそちらへ向かう。
よっ、と上げられた手に、えりかは無邪気な笑みで応じる。
続けて、女性の講師も入室してきた。
英語集中プログラム、IEPが始まる。
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