1-2.

 清々しい秋晴れの空が広がっていた。


 いつまでも去ろうとしない執拗な残暑が鬱陶しいこの季節だが、朝には多少の涼しさは感じられるようになってきた、そんな日。


 オフィスビルが立ち並ぶ街中を明人は歩いていた。


 目線は進行方向に対して約四十五度下方。

 彼の視界の中心にあるのはスマホの画面。

 慣れた手つきでタッチとフリックを繰り返し、目線が外れることはない。ながら歩きである。


 絶え間なく誰かとすれ違う人混みの中、よく誰とも当たらないものだ。


 街ゆく人々を縫って、彼は歩いてゆく。

 

 と、そこへ、前方から全力ダッシュしてくる人の姿があった。

 私服の女子だ。見た目からするに、学生だろう。

 

 ロングスカートなのもお構いなしの全速力。

 周りの人にどかどかとぶつかりながら向かってくる。「あっ、すみません!」「ごめんなさい!」何度も謝罪が放たれる。

 脳内のアクセルとブレーキを踏み間違えたのだろうか?

 

 そして、ドカン。

 

 漫画のように見事な衝突だった。

 ながら歩きをしていた明人に、その女子学生は目の前から突っ込んだ。

 「きゃあ!」悲鳴が飛ぶ。

 明人はもろに後方へ吹っ飛んだ。


 女子学生はその場で急停止。

 ブラウン×ロングボブの髪がさらりと揺れて止まる。

 彼女はみるみるその顔を真っ青にした。


 「大丈夫ですか!?」

 彼女の手を借り、明人は立ち上がる。


 暴走したメトロノームのように何度も体を折って平謝りする女子学生に、明人は何も問題ないことを告げる。

 明人が促すと、その女子学生は見事なスタートダッシュで再び駆けていった。


 「本当にすみませんでした。またいつかどこかで会えたら、きちんと謝罪します故!」


 焦りのあまり最後の方は侍のような言葉遣いになっていたが、前世の記憶でもちらついたのだろうか?


 と、そんなことはさておき。


 明人は走り去ってゆく彼女の姿を見守る。


 さて、と。


 ここまでは、全て計算通りだ。



 

 ――計算通り、のはずだった。

 

 明人の頭の上に、ふとハテナマークが浮かぶ。

 どこか違和感を感じたのだ。


 視線をスマホの画面へ移す。

 ……移したつもりが、視界に入ったのはスマホを持っている風に指を軽く折っている自分の右手だった。


 あと、やけに耳がすうすうする。

 いつの間にかイヤホンから流れていた音楽が止まっている。雑踏が新鮮だ。


 違和感の正体は、すぐにわかった。


 スマホがない。


 まさか。落とした?


 咄嗟に周りを見渡したが、それらしき物は見当たらない。

 

 先程ぶつかった女子学生――ミッションのターゲットである万騎が原えりかが去った方を見やる。

 既に彼女の姿は遠く彼方であったが、一人だけカタパルトから射出された勢いで走っていればすぐに目につく。

 明人がスマホに繋いで装着していたイヤホンの白いコードが、走り去るターゲットの鞄の縁から飛び出して激しく揺れているのが、遠目でもわかった。


 即座に頭の中で再現映像が構成される。

 突進され、吹っ飛ばされる自分。

 その拍子に手から離れ宙を舞ったスマホが、奇跡的にすぽりと万騎が原えりかの鞄に収まる。

 双方とも気が付くことなく、明人のスマホを鞄に入れてターゲットは去ってゆく……


 考える前に身体が動いた。

 明人はすぐさま万騎が原えりかの後を追う。


 既に絶望的な距離が開いてしまっていた。

 正攻法では彼女の姿を見失ってしまうかもしれない。

 明人は歩行者が障害になるのを嫌って車道に降り、一直線に駆け抜けた。


 万騎が原えりかは道沿いにある建物の中へと入っていった。


 数秒差で明人も同じ入口を潜る。万騎が原えりかがこの建物に入ることは、予想済みだった。


 入口の脇に壁に、『湊大学』と古風な字体で大きく書かれた看板が掲げられている。


 湊大学、市谷キャンパスである。




 最初に入った校舎はガラス張りでモダンなデザインの建物だった。

 

 その校舎を一直線に走り抜け、反対側の出入口を出ると、サッカーコートほどの大きさのある中庭を挟んで向かいに他の校舎がある。

 ガラス張りの校舎とは対照的に古い外観の建物だ。


 古い校舎の入口を潜ると、エントランスホールの正面にエレベータが二基並んでいる。

 万騎が原えりかはベストタイミングでやって来たエレベータに駆けこんだ。

 そして、明人がエントランスホールに入ったのと同時に、エレベータは扉を閉じた。


 階数の表示ランプが上階に向けて順々に点灯する。

 エレベータは五階で止まった。


 隣のエレベータは六階にいる。待っている暇はない。

 明人はエントランスホールの奥へ続く通路を進み、階段を駆け上がる。

 キャンパスの地図は頭に入っていた。事前に下見も済ませていたのだ。


 階段は一段一段がかなり高い。

 外観、内観ともに随分と年季が入っている。

 

 五階のエレベーターホールへ辿り着いた。

 左右へ続く廊下はしんと静まり返っていて、人の気配がない。

 今は授業中なのだろう。廊下の方から、教室から漏れる教授の声が微かに聞こえてくる。


 明人の頭の中に、ふとこんなイメージが過った。


 彼のスマホを使い、登録されている彼名義のクレジットカードで勝手に散財したターゲットが、セレブのような出で立ちになって目の前に現れる。

 そして言うのだ。

 「あー、このスマホの持ち主さん? 良かった、やっと出会えたわあ。可哀そうだし、早く返してあげたいと思ってたのよ。ほら、安心して、勝手にいじったりしてないから。はい、これで返却完了だわね。うっふふ♡」


 いや、それはないだろう。

 万騎が原えりかは、事前情報ではもう少し謙虚な女子である。


 しかし厄介な事態を招いてしまったことには、間違いない。

 

 万騎が原えりかはどこへ?


 彼女がこの階にある教室で授業を受けていることは間違いない。


 彼女の時間割を手に入れていたら楽だったが、それはこれからやるべきことである。

 

 秋学期が始まったばかりなので、学生たちは絶賛時間割決め最中だ。


 授業中の教室に乗り込んでいって探すというのは現実的ではない。

 授業終了まで大人しく待っているというのが最善の手段だろう。


 明人は腹を括り、窓際のベンチに腰掛ける。

 教室の中で響く教授の声が漏れてくる。



 え~……授業ではレポートが評価の……出席は……フィールドワーク……。



 初週であるため、今行われている授業のほとんどはオリエンテーションだろう。

 ゆえに、授業時間は通常九十分のところ、早めに切り上げられることが予想される。


 今は二限目だ。既に授業開始時間から三十分ほど経過している。

 と、いうことは万騎が原えりかは三十分近く遅刻していたことになる。

 朝の早い一限目でもないのに、遥か遠方に住んでいたりでもするのだろうか?


 十分ほど経過して、明人は喉が渇きを覚える。先程の予期せぬ激しい運動が災いした。


 自販機を探しに行こうか?


 けれど、その間に授業が終わってしまったら、万騎が原えりかを完全に見失ってしまう。


 だが、喉がからからの状態では十分なパフォーマンスの発揮が難しい。

 これは重要なミッションだ。万騎が原えりかと対面する際には、万全の態勢で臨みたい。


 近くに自販機は無いだろうか?

 

 見渡す限り、この階には無いようだ。


 一階に降りればあるだろうか?


 失敗した。下見の際に、自販機の場所も確認しておくべきだった。


 一階に降りて、自販機が見当たらなかったらすぐに戻ってこよう。


 明人は教室の中に耳をそばだてて、まだどの授業もすぐには終わる気配がないことを確認する。

 五階に止まりっぱなしだったエレベーターに乗り込んで、一階へ向かった。


 二十人以上乗ることができそうな大きなエレベーターだ。

 建物と同じくかなり古びていて、動いている間もあちこちから軋むような音がして心許ない。


 一階へ到着する。

 中庭や廊下をぱっと見て回ったが、自販機は見当たらなかった。


 時間がない。長居は禁物だ。

 

 すぐに諦め、エレベーターへ戻る。

 上階行きのボタンを押し、止まりっぱなしだったエレベータの扉を開く。


 ちょうどそのタイミングで、中庭の方から男子学生がやって来た。

 その学生もエレベータに乗るようだったので、明人は彼が来るまで開ボタンを押して待った。


 男子学生は行き先階ボタンを押さなかった。

 明人と同じ、五階に向かうようである。


 扉が閉まり、エレベータが動き出す。

 

 しばらくの間、沈黙が続く。


 五階に着くと、明人は男子学生に続いて降りようとした。


 した……のだが、どういうわけか、男子学生はエレベータから降りようとしなかった。


 外を向いたまま、動こうとしない。


 不測の事態に明人は混乱した。


 こいつは一体……何者?


 仕方なく、明人は男子学生の脇を抜けて降りようとした。

 

 が、降りられなかった。

 扉の中央に立ったまま沈黙していた男子学生が半歩移動し、出口を塞がれたのだ。


 明人はさらに混乱した。


 今の、明らかにわざとだよな?


 明人は今度は反対側から出ようとする。

 すると、男子学生がやはりそちらへ移動して出口を塞がれる。


 押しのけて出ようとすると、男子学生も強引に明人をエレベータ内に押し込まんとしてくる。

 出口際の抗争が続き、時間が経ったところでエレベータの扉は自動的に閉まった。


 男子学生が隙を見て一階のボタンを押し、エレベータは降下を始める。


 五階で降りられなかった明人はぽかんとそこに立ち尽くした。


 理解不能な、この状況。

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