【SF】幻の東京2020オリンピック ~2020年夏、僕は気が付いたら真っ白な部屋にいた~

 2020年夏に予定されていた東京2020オリンピックは、新型コロナウィルスの世界的蔓延まんえんにより、2021年へと延期された。


 国際オリンピック委員会I O Cによる発表を受けて、選手たちは様々な感情をいだいた。


 落胆、安堵あんどいきどおり、歓喜――。


 そして僕は絶望組だった。


 競技選手として歳をとりすぎていた僕は、東京五輪を最後の大会と位置付けていた。これをもって引退するつもりだったのだ。


 出場すら危ぶまれていた僕が、なんとか接戦の末もぎとった初めての出場権チケット。それが一瞬で紙切れになった。


 たかが一年。


 長い人生から見れば大したことのない時間なのかもしれない。


 だけど、一秒を争う僕たちにとって、そして選手生命の炎が今にも消えそうな僕にとって、それは果てしなく遠い未来だった。


 一年後に選考会があったとして、僕は再び出場権を手にすることができるだろうか。内定取消しにならなかったとして、自分に恥じない競技ができるだろうか。


 答えはどちらもいなだった。


 その夜、僕は声を上げて泣いた。選考会で落ちたとしてもここまでは悔しくなかったと思う。


 そして、2021年の東京五輪がどういう形で開催されるにしても、挑戦しないと決めた。


 選手としての僕は2020年の夏で死ぬ。




 自宅待機が叫ばれる中、僕はトレーニングを続けていた。恵まれた環境とはお世辞にも言えないけれど、自宅でもなんとか練習できる競技でよかったと思う。


 もう競技には出ない。


 だからトレーニングの必要はない。


 それでも、僕はやり続けた。2020年の夏までは――東京五輪の大会の日までは、僕はまだ競技選手なのだから。




 2020年7月24日、当初予定されていた開会式の日。


 日課のトレーニングをしていたはずの僕は、気が付くと真っ白な部屋に立っていた。愛用のダンベルを手に持ったまま。


「えっと……?」


 自宅のリビングと同じくらいの大きさの部屋だ。家具も窓も扉もなかった。驚くべきことに、天井にライトさえなかった。


 突然、目の前の壁にちょうど人が通れるくらいの穴が開いた。上がアーチ状で下が方形をしている。向こうに見える壁も真っ白だった。


 そこから青いビブスを着た中年の男が顔を出した。


 その男は僕の名前を呼ぶと、


「ようこそお越しくださいました」


 と言って、両手で握手を求めてきた。


 僕は握手に抵抗があったけれど、男は何の躊躇ためらいもなくなかば強引に僕の手を握った。


 首からはストラップが下がっていて、カードケースに写真付きの身分証が入っていた。それを見てぎょっとする。


 TOKYO2020の文字とエンブレム。


「さあ、開会式が始まります。着替えたらこちらに来てください」

「え?」


 示された方を振り向くと床に服と靴が置いてあった。さっきまでは絶対に無かったはずだ。


 驚いているうちに男はいなくなってしまった。


 それは開会式の衣装だった。年初にデザインが発表されたものだ。


 訳がわからないまま、とりあえず男の言葉に従って着替えた。採寸なんてしていないのに、服も靴もぴったりのサイズだった。


 着替えたら出て来いと言われていたので、おずおずと穴をくぐって外に出た。


 ちょっとした眩暈めまいのような感覚がして、目をまたたかせたその瞬間、わんわんと耳に騒音が飛び込んできて、視界に色がついた。


 僕は――人ごみの中にいた。


 わけがわからない。


 穴を抜けた向こうも白い空間だったはずだ。なのにどこかの廊下のような場所に出た。振り返っても、そこにはぴかぴかの壁があるだけで穴はなかった。普通の壁だ。


 床はリノニウムのようだ。天井には普通のライトがついていた。


 視線を周りに向けてみると、そこにいた人たちは色とりどりの服を着ていた。同じデザインの服を着ている人たちで固まっている。人種も様々だ。


 彼らの顔を見てはっとした。見知った人物がいたのだ。


 そちらへ足を踏み出そうとしたとき、


「急いでください」


 目の前にさっきの男が突然現れた。


「えっ?」


 僕は乱暴に腕をつかまれ、男の先導で人ごみの中を縫った。


「ちょっ、訳がわからないんですけど」


 足を止めて腕を引くと、男は振り向いた。先ほどまでのにこやかな顔はどこへやら、恐いくらい真剣な表情をしていた。


「詮索はしないように。でないと退場して頂くことになります」

「はぁ?」


 そしてまた腕をぐいぐいと引き始めた。僕は男に引かれるままになった。


 僕と同じ服を着た一団がいた。


「あっ!」


 知った顔がたくさんあった。みな東京五輪の出場選手達だ。まだ出場が決まっていなかった選手もいる。


「遅かったじゃないか」


 チームメイトの一人に、何事もないように普通に声をかけられた。


「お前ら、なんで――」

「しっ」


 何が起こっているのかを聞こうとすると、彼は口の前に指を立てた。それ以上言うなと目が言っている。


 その横で、別の服を着た女性が彼女と同じ衣装を着た人物に話しかけた。


「ねえ、これ、どういうことなの?」


 その瞬間、ぱっと彼女が消えた。


「な――」


 驚きの声を上げた僕の口を彼がふさいだ。むぐっとくぐもった声が出る。


 ――詮索しないように。でないと退して頂くことになります。


 男のセリフが頭をよぎる。


 僕が口を固く結んで神妙にうなずくと、彼は手を離した。


 これは夢だ。今の今まで目の前にいた人間が、しゃぼん玉が弾けるかのように消え失せるわけがない。


 パンッと顔を両手で叩くと、ちゃんとほほは痛かった。


 だけど、夢の中では痛みがないかどうかなんて、僕は意識したことがない。痛みがあったからって、現実とは限らないじゃないか。




 開会式はいきなり選手入場から始まった。演出も聖火点灯もなかった。


 廊下の向こう側の選手たちがぞろぞろと動き出した。それに従って僕たちも歩き出す。


 アリーナの入口の近くまできて、呼ばれる順番がアルファベット順ではないことに気がついた。そう言えば東京五輪の入場順は五十音順なのだと思い出した。


 漏れ聞こえて来ていた歓声が、入場と同時にわっと大きくなる。スタジアム内は熱気に包まれていた。観客席は人で埋まり、立ち上がった彼らが思い思いに声援を送っている。


 ああ、これがオリンピックか、と思った。




 感動に浸っているうちに開会式は終わり、僕らは大型バスに詰め込まれて選手村に送られた。


 案内されたのは、ホテルのような内装の普通の部屋だった。


 壁にかかっていたカレンダーに目が留まった。それは五輪公式グッズの一つで、2020年7月のものだった。


 TOKYO2020という名称が変わらなかったお陰で、大半のグッズの作り直しはせずに済んだらしいが、これは作り直しなんだろうな、と思わず苦笑してしまった。


 必要な物は部屋の中に全て揃っていた。使い慣れたブランドの歯ブラシ、いつも飲んでいるミネラルウォーター、チェスプロブレムの本。もちろんユニフォームも。至れり尽くせりだ。


 もう遅い時間だったので、お気に入りのパジャマに着替えて、さっさと眠りについた。




 次の日も夢は続いていた。


 チームメイトと朝食を食べに食堂に行き、様々な国の料理が並ぶ中、僕は日本食を選んだ。美味しかった。

 

 雑談をしたり、トレーニングをしたり、他の競技を観戦したりしながら、僕は自分の競技の日程を待った。ちゃんとした場所で練習できたのは久しぶりだった。


 月が変わり、ついに僕の競技の日がやって来た。夢はまだ続いていた。


 競技は二日に渡って行われる。今日は予選、明日が準決勝と決勝だ。


 自分の出番まで、瞑想めいそうしたり、音楽を聴いて気持ちを高めたり、エネルギーを補給したり、体をほぐしたりしていた。今までの大会とやることは変わらない。


 自分の番はあっという間にやってきた。


 競技会場はオリンピックスタジアム。開会式と同じだ。


 観客席を眺め、他の選手たちが同じフィールドにいるのを見て、競技者としてオリンピックの場に立っていることに、改めて感動してしまった。涙がこみ上げそうになる。


 いやいや、泣くのはひとまずお預けだ。僕はここに参加しにきたんじゃない。勝ちに来たんだ。


 僕は気持ちを引き締めて、ふぅぅと長く息を吐いた。


 耳から観客の声援が消えた。時間が引き伸ばされたような不思議な感覚がする。


 次の瞬間――パンッとスタートの合図がした。




 結局、僕は準決勝に勝ち上がることはできなかった。予選敗退――それが僕の最初で最後のオリンピックの、そして選手生命最後の結果だった。


 だけど僕は満足していた。自己タイムを更新できたのもあるけれど、それよりも、全ての力を出し尽くしたという思いがあったからだ。


 僕は涙の代わりに笑いをこぼした。


 タオルで汗が止まらない顔を拭くと――僕はまた真っ白な部屋にいた。


 目の前には最初に出会った中年の男。


「お疲れさまでした。素晴らしい結果でした」


 男は汗まみれの僕の手を躊躇ためらいなく取り、最初と同じように両手で強く握った。


「予選敗退でしたけど」

「いやいや。あなたは全力を尽くしてくれた。私たちとしても嬉しい限りです」

「ありがとうございます」

「練習をサボっていて散々だった選手もいましたからなぁ。……おっと」


 男はわざとらしく口を押えた。僕は黙っていた。


「あなたの出番はここまでです。本当にありがとうございました」


 男が薄くなりかけた頭を深々と下げると――


 ――僕は自宅にいた。ダンベルを片手に。


 競技服を着て、TOKYO2020のゼッケンをつけて、まるでたった今競技を終えたかのように汗だくになって。




 世間では、7月24日に東京五輪の参加予定選手と選考会参加予定選手の一部が忽然こつぜんと姿を消し、ある日突然現れるという奇怪な現象の話でもちきりだった。僕は8月1日に、そして他の選手も8月9日を最後に全員無事に戻って来た。


 その間の話は、チームメイトを含めて誰一人として話さなかった。だから僕にも真相はわからない。


 僕は戻ってきた日に引退を表明した。


 2021年の五輪出場を期待してくれていた人たちは残念がってくれたけれど、僕自身は満足していた。



 だって僕はもう、東京2020オリンピックには出場したのだから。

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