15
目の前には砂浜と氷漬けの海、そして真っ暗な闇が広がっている。厚い雲に覆われているのだろう、月も、星の一つさえも見えない。そんな圧倒的な闇の中に、一つだけ光の瞬きがある。灯台島の赤色灯だ。わたしはそれを目指して進むよう、ニアに言った。
「灯台島を経由して君のデータを飛ばす。あそこの出力なら、基地まで届くはず」
『その後、あなたはどうするのですか?』
「そこまで考えてない。まず、送信が上手くいくかもわからないし」
『それもそうですね』
〈蟹〉は氷の上を進む。割れて盛り上がった箇所も、裂け目も諸共せず、灯台島の灯を目指して走り続ける。
歌が聞こえる。ハミングだ。口ずさんでいるのはニアだろう。別の誰かでは困る。
「それ、何の唄?」
『何でしょう。小さい頃に母がよく歌ってくれた唄です。歌詞も題名もわかりませんが、気付けばよく歌ってしまうんです。こういうのって不思議ですね』
「不思議?」
『他の色々なことは覚えていようと思っても、指の間から砂がこぼれるみたいに忘れてしまうのに、特に意識しないものはいつまでも記憶に残り続ける。こういうのって一体何なんだろうって、時々考えるんです』
「そこに本当の君があるんじゃない?」
『本当の僕、ですか?』
「物理的な肉体でも、データに変換され得る意識でもない、そういう可視化はできないけど確かに存在するものが、君を君として形作っている〈核〉みたいなものなんだとわたしは思う」
『それはもしかして〈魂〉ということですか?』
「そう言われると途端に胡散臭くなるけど、その理解が一番近いかも」
ニアは笑う。
「何よ?」
『あなたは意外とロマンチストなんですね』
「別にそんなつもりで言ったわけじゃない。単なる持論。むしろ君は子供のくせに夢がなさ過ぎる。合理を第一に考えるのは、もっと大人になってからでいいんじゃないの?」
『僕にだって叶えたい夢はありますよ。まあ、既にそれは叶ってるんですが』
「空を飛ぶこと?」
『そういうことです』
「ドローンと同化するのは、果たして正しい方法なのかしら」
『遠隔操縦よりはよっぽどマシです。飛行体そのものになれるんですから』
「君がそうなら、それでいいけど」彼の〈飛びたい〉という夢がいつ生じたものかは定かではない。軍に入る前から抱いていたのか、兵士になってからそう思うようになったのか。確かなのは、先ほど流れ込んできた施術に対する恐怖が本物だということだけだ。
『それより三尉』と、ニアが言う。『もうすぐレーダー施設の通信圏内に入りますが、このまま進んで大丈夫ですか?』
「というと?」
『何か様子がおかしいように思えます』
わたしはシートから腰を上げ、ハッチを僅かに開く。隙間から後方を見やる。遥か遠くに基地の光が塊となって浮かんでいるだけで、後は一切の闇である。左眼で機体の索敵レーダーを呼び出してみる。周囲にわたしたち以外の機体は見当たらない。
「誰も追ってこない」言ってから、ハッとする。「すぐに通信封鎖を!」
ニアからは否とも応とも返事がない。もっとも、彼が返事をしたところで、わたしがそれを聞き取れる状況になかった。
左眼に激痛、というより、殴られたような衝撃があった。わたしはコクピットの中へ転がり落ちた。起き上がろうにも、上手く身体が動かない。視界にノイズが幾重にも走る。意識が波のように遠のいては打ち寄せる。
『逃亡者を補足』声がする。抑揚のないわたしの声。ティンカーベル。お節介な隣人。妖精の名を騙る悪魔。待ち伏せしていたのだ。『マト三尉、軍規三十四条十二項から同三十一項までの違反容疑であなたの身柄を拘束します』
左半身が痺れる。喋ろうにも舌が喉に詰まり、唇も動かない。口の端から涎がこぼれるのだけは感じられる。
『あなたには如何なる弁明も認められていません。また、軍法会議以外での証言は全て無効となります』
「相棒に対して……」わたしは呻きと共に声を絞り出す。「冷たいんじゃないの?」
痺れは右半身にも回ってくる。右腕の感覚はまだある。トーチカは、まだ動いているようだ。ニアは健在なのか? いてもらわなくては困る。左眼のストレージ内で丁々発止の攻防を繰り広げるデータたちの姿を想像する。生憎、思い浮かべるだけで手出しはできないが。
わたしはシートへ這い上がる。そこから更に上へ右腕を伸ばす。
「ニア」思考と言葉を一致させながら、言う。「聞こえる? 真っ直ぐ灯台島へ向かって。真っ直ぐに」
返事はない。それどころではないのかもしれない。だが、機体が僅かに方向転換するのがわかる。まだ今のところ彼は、彼の意識データは残っている。
わたしは奥歯を噛み締めながら、無反動砲のトリガーを掴む。照準を合わせる余裕などない。引き金を引き絞る――
視界に赤い〈LOCKED〉の文字が明滅する。
『発砲は許可されていません』ティンカーベルの済ました声がする。『抵抗をやめ、速やかに機体を停止してください』
機体を停止と言われても、そもそも動かしているのはわたしではない。
ティンカーベルでも停められずにいる。〈彼女〉は、完全にはこちらの動きを掌握しきれていない。機体とわたしの右手の指。これがこちらに残された領分だ。
働かない頭で考える。取り得る選択肢は、そう多くはない。自ずと道筋の本数は減っていき、やがて一つに絞られる。最も実現可能な方法。最善かどうかは、この際関係ない。わたしは頭の中で呼び掛ける。
『聞いて――ニア――機体を灯台島へ――ぶつかって構わない――着いたらすぐにシステムへ侵入して――わたしから離れて――』
否定も同意もない。だが、彼が賛成していないのが肌感覚でわかる。
『わたしのことは心配しなくていい――どうにかする――どうにもならないかもしれないけど――とにかくここまで来たことを無駄にしないで――君が逃げられなかったら全てが無駄になる――』
迷うような間が空いた。少なくとも、わたしにはそう思えた。やがて機体が加速し始める。灯台島の本体へ突進しているのがわかった。
衝撃。わたしはモニターに顔をしたたか打ち付ける。モニターに赤黒い血が付着する。額が割けているのだろうが、肌が痺れて何も感じない。これでいい。何より、動かない身体を動かす負担が軽くなった。
『抵抗をやめ、速やかに機体を停止してください。マト三尉』
「うるさい、蝿女」
わたしは透明の蓋を上げ、中にあるスイッチを押し込む。機体放棄用の非常ボタン。平たく言えば自爆スイッチだ。
『機体破棄モードに移行しました』ティンカーベルが言う。それが奴の仕事だから。『速やかに機体から退避してください。当機は六十秒後に自爆します。繰り返します――』
わたしは鼻を鳴らす。ティンカーベルはどこまでも機械で、ニアはやはり人間だった。その事実を知れただけで、気持ちが安らかになった。
視界にカウントダウン表示が現れる。といって、身体の自由が利くわけでもない。わたしは麻痺したまま、〈蟹〉と共にこの世から消えようとしている。あと三十秒。二十九、二十八、二十七……
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