4.


 この日の放課後。野々花は地面を蹴っていた。


(私があの人にこ、恋? 名前も学年も知らないのに? 話したことだってないし)


 でも、ベーカリーヒラノが近づくごとに胸が高鳴ってくる。きっと走っているせいだけではない。野々花は商店街の洋服屋のショーケースの前で一度止まった。ガラスに映る自分は頬を紅葉させて、髪が乱れている。ちょいちょいと髪の毛を直して、あと数十メートルの距離は歩いた。


「こんにちはー」


 いつものように声をかけながらドアを開ける。


「こんにちは、野々花ちゃん」


 頼子はこの日も笑顔で野々花を迎える。中には女性のお客さんが一人いるだけで、カツサンドの彼の姿はない。いくら野々花の心臓が高まっていても、いつも通りの暖かい店内にほっと息を吐いた。


「頼子さん、交代します」


「それじゃ、よろしくね」


 荷物を置いてきた野々花は、頼子とレジの番を交代する。


 店内にいたお客さんが買い物を済ませて出て行き、三分ほど経った頃。この日も五時少し前にカツサンドの彼はやってきた。


「いらっしゃいませ」


 ほんの少し声が裏返ってしまった。分からない程度に顔をうつむかせる野々花。


(ダメダメ。今ちょうど二人だけだし、がんばって話しかけないと。今日も早い時間に来るなんて心配だし。まずは軽いトークから)


 彼はやはりサンドイッチコーナーに一直線に向かった。


「あのっ! どうして毎日、カツサンドを買うんですか⁈」


 野々花はレジの前から思いっきりひっくり返しながら声を上げた。彼はカツサンドに伸ばしていた手を止める。キョロキョロと他に人がいないことを確かめて、自分を指さした。


「俺?」


 うんうんと野々花は頷く。


「どうしてって」


 じっと見つめて耳まで赤くしている野々花は答えを待つ。少し目をさ迷わせてから彼は野々花を見つめなおして首をひねった。


「うまいから?」


 至極、当然の答えが返ってきた。


「そっ、そーですよねっ。あははは」


 野々花のから笑いをカツサンドの彼は不思議そうに見ている。


「店員さんのおすすめは?」


「え、あ、えーと、全部美味しいですよっ」


 言って野々花は気づいた。


 せっかく気を使って話題を振ってくれたのに、つまらない答えをしてしまった。クリームパンはカスタードたっぷりだとか、クロワッサンはサクサクでバターの風味が効いているとか、あっただろうに。笑顔を貼り付けたまま固まってしまう野々花。


「そうだよな。全部うまいから、もう一個、何を買うかいつも迷うんだ」


 それでも彼はニカッと笑って答えてくれる。えくぼのできたその口元を見て、野々花の心臓はキューッと縮まるような感覚がした。


「あ、あの、聞いていいですか? いつもいらっしゃいますけど、前まではもっと遅い時間に来ていたじゃないですか。どうして最近は学校が終わってすぐいらっしゃるんですか? なにか理由でもあるんですか?」


 今度は落ち着いて聞くことが出来た。


「ああ、大した理由じゃないんだけど」


 ポリポリと照れたように頬をかく彼。


「この春、ずっと入院していた母さんが退院したんだ」


「お母さんが? あっ、おめでとうございます」


「うん、ありがとう。パンはいつも自分が夜食に食べるために買っていたんだけど、母さんが退院したから早めに帰らないと行けなくなってさ。俺が早く帰って家事をしないとあの人、無理するから」


「そうだったんですか」


 野々花は思わず笑顔になった。早く買いに来るのは悪いことがあったからじゃなくて、むしろいいことがあったからだった。


「それじゃ、今日はカツサンドとマフィンにするよ」


 カツサンドの彼はこの日もカツサンドを買っていった。




 次の日の昼休み。四人で丸テーブルを囲んでお昼ご飯を食べている。


「っていう理由だったんだよ。ねっ! 聞いてよかったー」


 野々花は三人を前に、前の日とはガラリと表情を変えていた。おにぎりを食む姿には浮かれた蝶が周りを飛んでいそうだ。


「「「はぁ」」」


 目の前の三人は、そろってため息をついた。


「野々花にしたら頑張ったけれど」


「その人の名前も学年も聞けなかったんでしょ」


「これじゃ、謎は解けても恋は何も進展していません」


 口々に三人から言われ、野々花は反論する。


「なによぉ。たぶん今日も来るだろうし、今度は聞けるもん」


「どうかな。野々花のことだから、また振り出しに戻って話しかけられなさそう。他にお客さんがいたら遠慮して話せなさそうだし」


 光の言うことに確かにありえそうだと自分のことながら思う野々花。


「それに今日も来るとは限らないんじゃない?」


 夕美はお弁当のプチトマトのヘタを取りながら言う。


「そうですよ。カツサンドの彼だって、いつかは飽きが来ます!」


「そ、そんなぁ」


 レイアの言葉に焦る野々花。確かにいくらベーカリーヒラノのパンが美味しいからって、毎日のように食べていたら飽きてしまうのが人間だ。


「確かに……、カツサンドの彼だって人間だもんね」


「ぷっ」


 背後で笑いを押さえる声がした。聞き覚えのある声のような気がして野々花は振り返る。


「俺、もしかしてカツサンドの彼とか呼ばれている?」


 そこには背の高い、いつもベーカリーヒラノに来る彼が立っていた。彼の持つトレイにはしょうが焼き定食が並んでいる。


「いつも四人でこの辺の席に座っているよな。楽しそうだなって、思っていたんだ。それじゃ、野々花ちゃん。また放課後」


「は、はい。放課後に」


 野々花はへらへらと笑って、歩いていく彼に手を振る。


 その背後で、野々花以外の三人は顔を寄せ合っていた。夕美が人差し指を立てる。


「さて、ここで問題です。いくら美味しいからって同じパン屋に毎日のように通うだろうか。飽きなんてとっくに来ていると考えられる」


 レイアが小さく手をあげた。


「はい、先生。夜食を買うならお店なんて他にもたくさんあります」


 ニヤニヤと光は笑う。


「お母さんが退院する前は確実に野々花のいる時間に来ていたってことは」


 三人はがん首揃えて、手を振り合う二人を見つめる。


「カツサンドの彼ねぇ……」


「むしろ、それを言われるのを望んで買い続けていたとみる」


「カツサンドの彼は策士でした」


 この日の放課後も野々花は走る。


 ベーカリーヒラノで、まだ名前も知らない彼を迎えるために。


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