サンダルでダッシュ!

増田朋美

サンダルでダッシュ!

本格的に夏がやってくる前には、必ず大雨が降るというのが、最近の夏の常識になってしまっているらしい。その日も、ひたすらにざあざあぶりの大雨が降っていた。最近の雨の降り方は、広い範囲で少しずつというのは死語になっていて、固まった地域で短時間に一気にドカンとやってくるのが、当たり前になってきている。もはやそうなってしまって、毎年のように、豪雨災害がやってくるのは、当たり前のような時代になってしまうのであろうか。そうなるのはいやだけど、そうなってしまいそうなのだ。

由紀子は、そういうことを思いながら、今日も又製鉄所を訪れた。

彼女が製鉄所を訪れる目的というのは、水穂さんに会いに行くのが目的である。それだけのことである。少しだけでも水穂さんと一緒にいたいんだ。と、いう想いで、由紀子は、今日も製鉄所を訪れるのであった。

しかし、製鉄所には、こんな土砂降りの雨が降っているにも関わらず、先客がいた。なぜか、大雨なのに、ハイヒールの靴が置いてあった。それは、誰のものなのか、由紀子は、見当がつかなかった。ハイヒールの靴というのだから、間違いなく女性のものであるはずなのだが。一体誰が来ているのだろう。ちょっと気になって、由紀子は、いつも通りに四畳半に行く。

「水穂さん、こんにちは。」

と言って、ふすまを開けると、水穂さんはいつもなら、寝ているはずなのに、今日はなぜか、布団の上に座っていた。隣には一人の女性がいた。浜島咲である。

「浜島さん。」

由紀子は、思わず彼女に言った。

「あら、由紀子さん、こんにちは。右城君と大事な話をしていたところなの。せっかくだから、由紀子さんも聞いていかない?」

と、浜島咲がそういうので、由紀子は彼女の話を聞いてみることにした。でも、何だか、いやな予感がした。大体、こういう時に聞かされる話というのは、ろくな話ではないのが、経験で知っている。

「なんの話ですか。」

と、由紀子はとりあえず、縁側に座る。

「右城君の、治療についての話よ。」

由紀子がある程度予想していた内容だったが、浜島咲はかまわずに話を続ける。

「由紀子さんも来たし、もう一回言うわ。実はね、あたしは、右城君に、肺移植手術を勧めたいの。実はね、あたしのお箏教室に来ている人が、せめて最期には、人の役に立ちたいっていうことで、臓器提供の意思を示すカードを持っているのよ。高齢の女性だけど、右城君なら、喜ぶんじゃないかしらと思って。どう?やってみない?」

「浜島さん、そういう事なら、僕みたいな人間ではなくて、ちゃんとした人間の方に、提供してやってください。」

と、水穂さんは言った。

「どうしてよ。こんないい話、ほかにないでしょう。右城君。そうすれば、右城君だって、またピアニストとして、やれるかもしれないじゃないの。そのほうがよほどうれしいでしょう。どうなのよ。」

浜島さんに言われて、水穂さんはこまった顔をした。

「ねえ、右城君、考え直してくれない?だってあたしたちは、右城君に元気になってほしいから、こういう事言うの。もし、可能だったら、医療コーディネーターを通して、右城君とそのお弟子さんと合わせてもいいわよ。それで、何とかなるのなら、頑張りましょうよ。」

「浜島さん、その提供者のことは、尊重しないんですか。臓器を提供するって、つまりその人が生きている間にできるわけないでしょうに。」

ふいに水穂さんが、そういうことを言った。

「その人はなぜ、そんなに臓器の提供を申し出ているんです?」

確かに水穂さんが言う通り、臓器の提供は、生きている間にできることではない。心臓が停止してから出ないとできないことでもある。

「ええ、その方が言うにはの話ですけど、もう最後だから、せめて最期には役に立ちたいと願っているそうです。」

浜島咲は、そういうことを言った。

「最後には役に立ちたいですか。でも、そういうことを言うのなら、最後まで生き抜いてほしいのに。なんで、もう終わりにしたいようなことを平気で言うのかしら?」

と、由紀子は、そのような疑問を言った。誰でも、生きていたいと思うのは当たり前のことだと思うけど。そういうことは、思わないのだろうか。

「ええ、最後には役に立ちたいってそういってました。私たちもなぜ彼女がそういうことを言うのか、事情は分からないけれど、あたしは、彼女がかねてからそう願っているのであれば、かなえてあげたいと思ったんですよ。それだけのことです。」

と、浜島咲さんはそういうことを言っている。

「せめて彼女の名前だけでも、教えてくれませんか。」

と由紀子が聞くと、

「ええ、中川智子さんという、30代くらいの女性の方です。」

と咲は答えた。

「それなら、まだ、人生が残っているじゃありませんか。どうして、そんな展望のある女性が、どうして自ら終わりにするようなことを言うのでしょう?」

と由紀子が聞くと、

「ええ、でも、彼女はそれを望んでいるようなところがありました。うちの教室に来るのが、唯一の楽しみのようなそれだけのひとですから。それができなくなったら、彼女も終わりにしてあげた方がいいと思う。あたしも、何だか彼女の話を聞いてそう思いました。そのほうが、彼女のためにも、いいのかなって。」

と、咲はそういうことを言う。なんでまたそういうことを感じられるんだろうか、と、由紀子は思った。

「一体どういうことですか。浜島さんもおかしなこと言っているとしか思えないんですけど。」

「由紀子さんは幸せですね。」

と、ふいに水穂さんが言う。

「由紀子さんは、そういうことを言えるんだから、きっと人生恵まれていて、幸せなんだと思います。」

「そうね。あたしのお教室も、そういう訳ありのひとばっかりだからね。まったく、箏を習いに来る人は、なんでみんなこういう風に、重い事情を背負った人ばかりなのかしら。」

水穂さんの話に咲もそういうことを言った。由紀子はどうしてなのだろうと思う。

なんでその人は、そうやって、生きることをあきらめてしまっているのだろう。生きることは、どんなにつらい人生であっても、続けていくべきことなのに。

「あの、あたしも、その中川という人に会ってみたい。」

と、由紀子は思わずつぶやいた。

「由紀子さんは若いわね。それなら一度、彼女と会ってみてもいいかな。」

咲は、そういうことを言った。

「じゃあ、彼女に会ってみましょうか。あたしも、何だか由紀子さんがあってくれたらいいなって、思うようになった。じゃあ、いいわよ。うちの教室に来てくれれば、彼女と話せるから。」

と、咲に言われて、由紀子は、その中川智子という女性と会うことになった。


翌日。その日は駅員として出勤する日ではなかった。なので、苑子さんが主宰しているお箏教室がある、コミュニティセンターに行く。中川智子さんは、朝の11時にやってくるという。

由紀子が、お箏教室が行われている部屋の中に入ると、咲が、春の海を吹いているのが聞こえてきた。同時に、誰かがお箏を奏でている音もする。多分苑子さんではないだろう。でも、上手だ。誰が奏でているのだろうか。

「はい、じゃあ、中川智子さん、もう一度春の海を弾いてみてください。」

と、苑子さんの声がした。由紀子が、そっと中を覗いてみると、咲と一緒に春の海を合奏している女性がいた。彼女は、ほかの女性と比べると、ちょっとばかり太っていて、どこかしら病んでいるのかなという感じのする女性だった。

「あの。」

由紀子は、そう声をかける。

「ああ、由紀子さん、紹介するわね。彼女が、中川智子さん。こないだ、水穂さんのことでお話した。」

咲がフルートを置いて、由紀子に彼女を紹介した。確かにそこにいる中川智子さんという女性は、容姿的に魅力があるわけでもなかった。

「初めまして、中川智子です。今現在は、仕事してなくて、病院との往復と、この教室に来ることだけが、唯一の外出です。」

と、中川さんはそういうのであった。

「そうですか。私は、今西由紀子と言います。職業は、岳南鉄道で駅員をしています。」

と、由紀子は、咲から出された椅子に座りながらそういうことを言った。

「いいですね。仕事があって。仕事があるほど、幸せなことはないですよね。あたしは、仕事がなくて、結局家にいるしか方法もなくて、今、どこにも居場所がなくて、ただ、家の中で暮らしているだけです。」

と、智子さんはそういうことを言うのである。

「智子さんは、人の役に立ちたいと言って、臓器提供の意思表示カードを持っているんですよね。」

と、咲がそう説明した。それでは、まるで彼女が一生を終えることを望んでいるようだと由紀子は思ってしまった。

「ちょっと待ってください。あなたは、どうしてそう、生きることを放棄しようとしているんですか。お年は幾つなんですか?」

と、由紀子は急いで彼女にそう聞く。智子さんは、34歳だと答えた。

「でも、あなたの家族とか、お友達とか、恋人とか、あなたが逝ったら困るという人だっているでしょう?」

「いませんよ。」

と、智子さんは答えた。

「もう精神もおかしくなってしまったし、家族には迷惑をかけてばかりで、何も利益を出せないし、親には、豊かな老後を送らせない疫病神と言われているし、友達も、できても私の体を求めてくるようなひとばかりだし。そういう人生しか送ってこれなかったから、もう終わりにしてもいいかなと。仕事を探してみたけど、結局採用されないし、頑張って原稿書いて送っても、パソコンが使えないから、結局できないし。だから、生きていたって仕方ないなと思うようになって。それで、私は終わりにした方がいいって。そう思ってるんです。」

「でも確かに、あなたが弾いた春の海は、ほかのひととは違う魅力があったわ。」

と由紀子が言うと、

「いえいえ、あたしは音楽の才能何て有りません。もう親に負担をかけるようなことはしたくないし。あたしが、音楽の道へ行くことで、親は、死に物狂いで働いて。近所の人からはあたしは親殺しだとしか見られていないでしょうし。まあ、こうなる運命ですから、人生、あきらめていった方が、一番社会に貢献できることだと思いますよ。少なくとも家族も、周りのひとも、あたしにはいなくなった方が、いいって思っているだろうなと思います。」

と、智子はそういうことを言った。

「この世の中、お金がたくさんなければ幸せになんかなれはしないんです。それよりも、自分の身分をわきまえて、ちゃんと身分に応じた人生を生きないと、人も自分もみんなめちゃくちゃにしてしまう。その罪悪感と一緒に生きていくのなら、あたしは死ぬ方を選びたいです。」

そういう言葉、なんだか水穂さんに近い内容であると思った。由紀子は、智子さんに、水穂さんと会わせれば、うまくいくのではないかと思った。

「それでは、終わりにするのではなくて、もう一度人生やり直すとかそういう風にやっていくことはできないのですか?」

と、由紀子が聞くと、

「いいえ、そんなことできやしません。それはお金があって、何をするのにも不自由しない人がいう言葉です。」

と、智子さんはそういうことを言った。

「あたしみたいな人は、この世界に生きていちゃいけないんだって、それが答えなんだと思います。」

「そうなのよ。だから、臓器提供に協力しなさいって、私が言ったのよ。」

と、苑子さんが言った。

「そうすれば、あなたも、少しは、生きていてくれるかなって。」

由紀子は、そういうことを言っている苑子さんが、実は彼女に生きていてほしいと思っているのだろうなということに気が付いた。苑子さんにとって、彼女は大事な生徒なのだ。それはどう見ても、確かなことであるから、苑子さんはそれを、何かに託してそういっているのだろう。

「あたしは、消えていた方がよかったんです。そのほうがよほど、世の中のためになるんです。」

という智子さんに、由紀子は、彼女が感じている間違った思い込みを捨ててほしいと思った。

「ねえ、智子さん。外に出ましょうか。」

由紀子は、そういうことを言った。こんな密封された空間よりも、外のほうがよほどすっきりすると思う。もちろん、発疹熱の流行のおかげで、外に出るのはやめようという呼びかけが盛んにおこなわれているが、そんなこと、由紀子には関係なかった。そういう事よりも、中川智子さんが、生きようという気になってくれることに意味があると思った。

「いいわよ。今日のお稽古はここまででいいから、由紀子さんと二人で、思いっきり話すといいわ。」

と、苑子さんが優しく言う。苑子さんは、やっぱり、自分と同じようなことを考えていると、由紀子は思った。

「じゃあ、一緒に行きましょう。」

と、由紀子は、智子さんと一緒にコミュニティセンターを出た。智子さんは、今日は雨が降っていなかったためか、赤い色のサンダルはいている。太っているから、そんなものをはいても、実のところ全く似合わないという感じもしたが、それは、由紀子は口にしなかった。

二人は、道路を一緒に歩いた。由紀子は、歩きながら、自分のことを色いろ話してみた。自分もJRに就職したが、初めて勤務した久留里駅で、自分の一番愛する人に出あったこと。忘れようと思ったけれど、彼を忘れられず、JRを退職して富士市にやってきてしまったこと。そして、岳南鉄道という、田舎電車の駅員になったこと。JRの時のような待遇は得られないが、それでも愛する人と同じ町に住めて幸せだということ。決して、いい生活はしていない。だって、元国鉄と言われていたJRをやめてしまったんだし、けっして親だって、自分のことを認めていない。でも、私は、愛する人がいれば生きていける。だから、そういうひとがいてくれれば、生きていることができる。そう語った。でも、智子さんの表情は、何も変わらなかった。そんな人生を語っても、彼女は、動かないようだった。恋をすれば人生観とか、そういうものも変えてくれると由紀子は言ったが、智子さんは固い表情のままであった。

「そう。由紀子さんはそれでよかったじゃない。あなたはそういうことができるんだから、幸せなのね。でも私は、親の許可がなければ何もできないの、あなたのように、自由に家を出て、自由に職業を選べるのは、車があるからでしょう。あたしはそれがないの。だから、一緒にしないで。」

「そうね。確かに車がないと、この田舎では生きていくのが大変ね。」

と、由紀子は、智子さんの話にそう合わせてあげた。こういう人には、何よりもそうやって合わせるのが、一番大事なのだと思った。

「そうなのね。あなたは、そこがほんとにかわいそうだと思うわ。だけど、」

由紀子はそういうことを言って、彼女を生きていてよかったというところにもどそうとしたが、逆に、それは変な風に持っていかれてしまうのだった。

「ええ、言ってくれることはわかってるわよ。自分の道は自分で決めるんだとか、そういうカッコいいことを言うんでしょう。でも、私はできないの、人の援助がなければ生きていかれないの。そしてそれがすごく情けなくて、寂しいことも知っているの。そして、私が、自由になるには、家族を殺さなきゃできないことも知っているの。そうならないためにも、私は死ぬしかないのよ。」

その時、急にザーッと雨が降ってきた。急いでコミュニティセンターに戻ろうとしたが、智子さんはサンダルをはいていたので、うまく方向転換ができず、前に転んでしまったのである。由紀子は、急いで彼女を抱え起こした。

「大丈夫、ただのかすり傷だし、大した傷じゃないわ。」

という智子さんだが、ヒールの高いサンダルをはいていたせいか、足をくじいてしまったのだろうか。なかなか立ち上がれない。由紀子は大丈夫?と彼女を抱え起こした。智子さんは大丈夫だと言って歩こうとするが、それは痛いせいでできなさそうだった。由紀子は彼女に肩を貸してやり、彼女と一緒にコミュニティセンターにむかっって歩き出した。

「大丈夫よ。大した傷じゃないわ。本当に、あとは一人で、湿布でも貼っておけばよくなるわ。」

という彼女だが、由紀子は、最後までついていくと申し出た。彼女に、こういう人間もいるんだってことをわかってもらいたかった。水穂さんにも、同じように思い直してくれればいいなと思いながら。

一方、コミュニティセンターでは、楽器を片付けながら、

「智子さん、少し、考え直してくれるかしら。」

と、咲が、苑子さんに言っていた。

「ええ、きっと、由紀子さんなら、それをやってくれると思うわよ。」

と、苑子さんもそういうことを言う。

「それはきっと、あたしたちではできないことよね。あたしたちは、智子さんにいくら言っても、きっと頭の片隅に残されることもないだろうし。それなら、由紀子さんのようなああいうタイプの人が、一番うまくやってくれるわよね。」

と、咲は苑子さんに言った。

「そうね。きっと、智子さんも傷ついていることはわかるわよ。でもあたしたちのいうことは、聞いてはくれないもの。高尚な身分のひとだからとか言って、きっと壁を作っていると思うわよ。」

と、苑子さんは言うのであるが、咲もそれはそうなんだろうなと思った。彼女は、つらいとか苦しいとかそういうことを言うが、援助を受けようとなると、拒絶してしまう。家族と信頼関係を持っていないから、そういうことになってしまうのだと思うのだけど、そのまま彼女も気が付いてくれるまで生きていくしかないのだろう。

「あたしたちも、智子さんに何とか役に立てればいいんだけど、それは、あたしたちには、敵わない希望かな。」

と、苑子さんはため息をついた。

「それは、サンダルでダッシュすることをしないとわからないかもしれないわね。」

苑子さんの発言はよくわからなかったが、咲はとにかく智子さんが由紀子と一緒にやり直そうと思ってくれることを心から望んだ。きっと彼女が、生きるようになるためには、誰かが行動を起こさないとだめだと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サンダルでダッシュ! 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ