夕暮れに染まる
セツナ
夕暮れに染まる
夕暮れの空は、まるで私の心のようだと思う。
焼けるように赤く、見ていると少し心が苦しくなってくる。
校舎から見える、夕焼け空を教室の窓から見上げ、ふぅとため息を吐く。
私は、教師と言う職に就いている。
そんな立場にありながら、生徒の事を好きになってしまったのだ。
私の担当教科は国語で、主に古文などを教えている。彼は私の授業の生徒だ。
彼、山本たかし君は三年生で、今年受験生。
とても物静かで、あまり目立たないが勉強ができる所謂秀才タイプの男の子だ。
彼は私の授業中にも進んで手を上げたりはしないが、私の説明に適度に頷いてくれて、大事なポイントで的確にメモを取っている。
私は、教えながらこの子は本当に頭がいいのだなと感じながら授業をしている。
けれど決して、それが気になってしまったきっかけではない。
ないけれども、彼が授業中ふと窓の外を見て、物思いにふけっている様子は、教師としては心配だが、その憂い気な横顔は、どことなく私の女の部分をチクチクと刺すような魅力があった。
彼を気になりだしたきっかけは、放課後の委員活動の時間だった。
私は国語の担当教諭とは別に、学生時代に資格を取得していた図書司書の仕事を兼任している。
たかし君は図書委員として、その図書室の管理を手伝ってくれている。
他の図書委員の学生が忙しくなさそう、と言う理由で選んでいるのかあまり委員活動に積極的でないのに反し、たかし君は放課後のほとんどの時間を図書館で過ごしてくれていた。
それは、いつもと同じように放課後の図書室の管理に向かっている時のことだった。
「あっ、河野先生」
見ると、たかし君のクラスの担任をしている高田先生だった。
高田先生はガタイのいい、二十代後半の男性職員で、授業も面白くて分かりやすい。しかも爽やか好青年と言うことで、お母様方からも人気だ。
「あら、高田先生。お疲れ様です」
私が会釈と共にそう返すと、高田先生は少し困った顔をして私を見た。
「河野先生。あの、少しご相談したいことがあるのですけど、今お時間大丈夫ですか……?」
見ると、いつもは自身とやる気に満ち溢れている高田先生の表情が、珍しく曇っており心配になった私は二つ返事で頷いた。
「私でお力になれることがあれば…! どうされたんですか?」
私が聞くと、高田先生は少し言いにくそうな顔をして、そっと近くの教室を指さした。
「ここだと何ですので……そこの教室でお話しいかがですか…」
それに頷き、私は高田先生と教室へ入った。
教室内は既に生徒たちが皆帰っており、無人だった。
そんな中で、私と高田先生は生徒が普段座っている椅子をお借りして二人、隣の席に腰かけることにした。
「今回、河野先生にご相談したいことというのは、山本の事でして……」
腰かけしばらくしてから、高田先生は切り出した。
「山本君……。山本たかし君ですね」
いつも窓の外を見つめいる秀才の彼の姿を思い出しながら私は頷いた。
「彼が、どうかしたんですか?」
尋ねると、高田先生は少々顔をしかめながら言いづらそうに口を開いた。
「それが……」
高田先生がぽつぽつと話し始めた話によると、たかし君は三年次に提出しなければいけない進路希望の用紙をまだ出していないそうだ。
三年生の春のこの時期になっても、進路希望の紙が出ていないのは、相当やばいのではないか……?
しかし、普段から品行方正で提出物などは必ず期限日までに出す彼にしては珍しい。
しかも高田先生の話によると、提出を促しても顔を伏せながら「わかりました……」と言うばかりで、いまだに提出がされていないそうだ。
先生のそんな言葉に驚きを隠せずにいる私に、高田先生は両手を合わせた。
「そこでなんですけど……河野先生に、山本に進路希望の話をそれとなく聞いて欲しいんです」
「えっ……私が、ですか?」
それは、高田先生の仕事なのでは……? と思ったが、きっと真面目な先生の事だから、自分にできることは全て行った上でもう手詰まりなんだろう。
助けになりたいが、私なんかでいいのだろうか。
私が迷っていると、高田先生は「だってほら、河野先生は……」と口を開いた。
「河野先生、山本が力を入れている図書委員の顧問じゃないですか。山本は河野先生に非常に懐いていますし……自分的には河野先生が適任かと思ったんです」
高田先生のそこまでの言葉に、心の内ではまだたかし君が本当に私に懐いているのか。もしそうだとしても話をしてくれるかなんて半信半疑だったが、私は請け負っていた。
「わかりました。私にできる範囲でお力になれればと思います」
「ありがとうございます!」
高田先生は嬉しそうに私の手を握り、お礼の言葉を口にすると「では、よろしくお願いします!」と教室を後にした。
高田先生にたかし君の事をお願いされた、その日も。いつものように私の図書室の整理業務をたかし君に手伝ってもらうことになった。
図書委員の仕事と簡単に言っても、それらは多岐にわたる。その業務の中でも学生である、たかし君に比較的手伝ってもらいやすい返却本を正しい本棚へしまう作業をよく手伝ってもらっている。今日も、彼にはその仕事をお願いしていた。
今日はたまたま、私自身の仕事も落ち着いていたので、たかし君と一緒に返却本の整理を一緒に行うことにした。……実のところ、高田先生に言われたこともあったのでたかし君と話をしなければ、という気持ちもあった。
彼は頭がいいから、最初に返却本をまとめて分類してから本を所定の場所に返すので、要領よく作業時間も素早い。
だから、いつもは私も彼に任せっきりにしているが、珍しく私が手伝いに来たので、彼も不思議に思ったのだろう。
「あれ、河野先生。今日はお忙しくないんですか?」
「うん。結構落ち着いてるし、山本君とも話したいしね」
私が、そう言った瞬間。頭のいい彼は何か感づいたらしく少し顔を曇らせた。
「もしかして……高田先生に何か聞きましたか?」
顔を伏せて言った彼に、嘘はつけないと私は正直に話すことにした。
「うん、山本君が進路希望をまだ出していないという話を聞いたわ」
言うと、彼は「やっぱりそうですか」と呟いたのち、しばらく逡巡するように手に持っている本を見つめていた。
そうしてしばらく経った後に、意を決したように顔を上げると私の目を見つめて言った。
「河野先生。笑わないで、話を聞いてくれますか」
その目は真剣そのもので、私はこれから彼がとても大事な話をするのだと悟った。
「うん、笑わないから山本君の話を聞かせて?」
だから、大人の私も真剣に彼の目を見つめて頷いたのだった。私の誠意が伝わってくれたのか、彼は静かに話し出した。
「僕、作家になりたいんです」
言って、山本君はまっすぐに私の目を見てきた。
もしかしたら彼はこれまで誰かにその話をして笑われたのかもしれない。反対をされてしまったのかもしれない。
私は、慎重に言葉を選びながら、でも自分の伝えたい事は伝えるつもりでゆっくりと口を開いた。
「そっか。難しいけれど、凄く価値のある仕事だよね。私もね、昔少しだけ目指していた時期があったけれど。私はだめだったなぁ」
「そうなんですね……」
私がそう言った瞬間に、たかし君は分かりやすいほど落ち込んだ顔をした。その表情を見て慌てて言葉を続ける。
「だからって私は反対しないけどね」
「えっ」
たかし君はばっと顔を上げる。
「夢を持つのは素晴らしい事よ。その夢を自覚するのは賢い事だし、夢を追いかけようと思う事は勇気のいる事だわ。私は君に夢をかなえる人になってほしいな」
もしかしたら、大人として教師として私の言った言葉は正しい言葉じゃなかったかもしれない。それでも、私は彼に夢を目指してほしかった。大人になり過去を振り返った時に、後悔をしないでほしかったのだ。
それと、多分だけど夢を語る彼の瞳がすごく光って見えたから。個人的に応援をしたくなってしまった、と言うのもあるかもしれない。
こんな事を言って教師としてよかったのだろうか、私がたかし君の人生を決めてしまうかもしれない局面で、こんな無責任なことを言ってしまってよかったのだろうか、とか。後悔の思いが次から次に私の中で浮かぶ。
けれど、話を受けた当の本人は、やけにスッキリとした顔をしてにこやかに笑った。
「そんな風に言ってもらえたの、初めてでした」
その笑顔は雨がありに晴れ渡った空のように、清々しく。私が言ったことが正解かどうかは置いておいても、とても嬉しくなる笑顔だった。
「河野先生に思い切って話してよかったです。僕、自分なりに色々考えて後悔しない道を選ぶことにします」
憑き物が落ちたかのような彼の笑顔。そして、私は彼ならきっと誰のせいにもせずに、自分の選んだ道を突き進むだろうという確信を感じた。
彼はとても強く自分を持っている男の子だ。
そう感じた時、私は生徒へ対する思いとはまた違った、不思議な感情を抱いた。自分より年下で、私自身が勉学を教えなければいけない立場の彼に対して、私は尊敬の念を抱いたのだ。
それが彼の事が気になりだしたきっかけだった。
それからも、今まで通り私とたかし君は放課後の図書室管理の業務を二人で続けた。
二人で作業をしていると、自然と会話も増えていく。
「河野先生は、百人一首が好きなんですか?」
その日も、二人で返却本を棚へ戻していたが、唐突にたかし君が私に尋ねてきた。
「うん、百人一首が私は大好きだよ。教師になるきっかけが百人一首だったくらい」
自分の教師になったきっかけを思い出し、ふふと笑いながら「でも、どうしてそんな唐突に?」とたかし君に尋ねた。彼は、手元に持った本を見つめて言った。
「河野先生は、和歌や百人一首の話をするときに、凄く楽しそうに授業をするから」
そう言った彼の手には、百人一首の本があった。
「そんな風に見えるんだ……。なんだか嬉しいな」
自分の授業がどう見られているかを聞くのは、恥ずかしいがどこか嬉しい。
「ありがとう、山本君」
私がそう笑いかけると、たかし君は照れ臭そうに視線を本棚に移し、作業を再開した。
そして、着実に時間は過ぎていき、季節は秋になっていた。
その日も、放課後いつものように私は図書室へと向かった。
最近は、たかし君との放課後の図書室での作業が毎日の楽しみになっている私は、どこか浮足立つように図書室へと向かう。
そんな私だったが、それがたかし君に悟られると恥ずかしい。
図書室の前に着くと、そっとゆっくり図書室の扉を開ける。
いつものように図書室へ入ると、たかし君がいた。いつも通り、静かにそこに佇む彼だが、彼を取り巻く雰囲気はどことなくいつもと違う気がした。ハッキリと明言はできないけれど、なんとなく固い、印象だった。
「山本君、今日もありがとう」
いつも通りの調子を崩さないように、私は彼に声をかけて自分の作業スペース座る。
「河野先生、今日もよろしくお願いします。とりあえず返却本を戻してきますね」
たかし君はそう声を返し、作業を始めてくれた。
私も自分の作業を行い、放課後の時間はあっという間に終わりに近づいた。
ちょっと心配だったけれど、軽く言葉を交わした感じはたかし君もいつも通りで、最初に感じたあの違和感は気のせいだったか。と私は胸を撫でおろした。
放課後の委員会活動の時間もそろそろ終わりが近い。図書室にいる生徒もみな帰ってしまったし、私はたかし君に声をかけることにした。
「山本君、ありがとう。もう遅いからそろそろ帰っても大丈夫だよー」
私が彼にそう伝えると、たかし君はしばらく何か考えるように目を泳がせてから、意を決したように私へ向き直り、そして口を開いた。
「あの、河野先生。お話ししたいことがあるんですけど」
そう伝えるその顔は真剣そのもので、きっと以前の進路の話と同じような話をされるんだと悟った。
「うん、どうしたの? 話、聞くよ」
私は彼と同じように姿勢を正して、彼の話を受け入れる準備をした。
そっと手で自分の隣の椅子を引き、彼へ座るか視線で窺ったが、彼は首を振り座ることを断った。
そうして、大きく息を吸い込み、短く一回息を吐くと彼は軽く頷き言った。
「僕は、河野先生が好きです」
それは、欠片も察することのできなかった、告白だった。
驚きを隠せずにいる私に、たかし君は続けて言った。
「別に先生を困らせたいわけじゃありません。ただ、どうしても気持ちを伝えたくて……。突然こんなことを言われても、先生困るだろうけど、これだけ言いたくって」
それは、どこまでも芯が通った彼らしい、真摯な告白だった。
「好きです、先生。先生の授業も、人柄も、容姿も……全部、好きです」
その真剣な目に、声に。彼の事を好きだった私は、思わずうなずきそうになった。教師であることも、彼との関係も全て忘れて、告白を受け入れたかった。
けれど。
「ありがとう、山本君。でも、ごめんなさい」
けれど、これは受け入れることのできない、告白だ。
私の事はどうでもいい。彼が私と付き合うという事をしてしまったら、きっと彼が迷惑をこうむることになる。
……なんて。自分が彼と付き合う事の出来ない理由を、なるべく誰も傷つけないように言っているだけだ。
本当は、私も彼が好きだ。だが、好きなだけではだめなのだ。彼には未来がある。そして、彼の未来にきっと私がいてはいけない。
彼の事を意識し始めてから、ずっと考えていたことだった。ずっと考えていた、言い訳だった。
「私は、あなたの事を生徒以上に見れないの。ごめんなさい」
嘘ばかり吐く。彼に何度触れたいと思った事か。何度、その憂い気な横顔に不意打ちで口づけをする事を妄想したか。何度……。
けれど、そんな気持ちは彼にばれてはいけない。
「そう、ですよね」
たかし君は目を伏せて、呟いた。
「山本君、あのね」
私が何かを言おうとする前に。蛇足になるであろう言い訳を続ける前に、彼は首を振った。
「河野先生、それ以上はいいんです。でも、これだけ受け取ってください」
そう言って彼は、一通の手紙を差し出した。
青いシンプルな封筒のそれを差し出して、彼は言った。
「先生は、きっとそう言うと思ってました。だから、これだけ受け取ってください」
それじゃあ、と言うと彼はカバンをもって早足に図書室を後にした。
私には追いかける理由も、資格もない。
唇を噛みしめ、自分の作業の後処理をするためにパソコンに向かった。
後処理はすぐに終わった。いや、むしろ速攻で終わらせた。
たかし君の告白を受けて、私だって動揺していた。明日からどうしようとか、色々考え彼までもが来なくなったら悲しいな、とぼんやりと思っていた。
つまりは、仕事になんてならなかった。
帰り支度を終わらせ、パソコンを閉じるとたかし君にもらった手紙を手に取った。
封筒には『河野先生』と男の子の字とは思えないくらい綺麗な字で私の名前が書いてあった。
その字と封筒をそっと指でなぞり、そして封筒を開けた。
白い便箋に、綺麗な字で手紙は書かれていた。
『河野先生へ
突然、こんな手紙を書いてしまってすみません。僕はずっと先生の事が好きでした。図書委員になろうと思ったのだって、先生が顧問だと知っていたからです。僕は、先生の授業が大好きでした。先生の古文の授業はとても面白かったし、きっと先生は古文が大好きだと分かるくらい、授業をしている時の先生は生き生きとしていました。それを見ていると、僕は幸せな気分になるのです。
けれど、そんな僕は授業の時に、他の生徒と同じように先生の話を聞いている時より、先生と二人きりになれえる委員会活動の方が好きでした。図書室に先生と二人っきりの時には、僕と先生の二人だけの世界のようで、誰のも邪魔をされない、そんな静かで穏やかな時間が好きでした。
僕は、きっと先生に振られると思います。先生は、優しい人で良識もあるからきっとそうなると分かっています。でも、気持ちを伝えないと僕がダメになってしまいそうだったのです。色々考えて、想いを伝えることにしました。もしかしたら先生は、明日から僕が図書室に来なくなるのでは、と心配しているかもしれませんが、大丈夫です。きっと僕は行きます。先生との時間が僕は大好きで、そこでの時間が僕にとっての青春だから。
最後にもう一度だけ言わせてください。先生が好きです。いつか僕が大人になって、何にも邪魔をされることなく先生へ想いが伝えられるようになったら、また告白しに来ます。そうしたら、今度こそ先生の気持ちを教えてください。 山本たかし』
そして、その便箋の最後の行には一つの和歌が添えられていた。
『ゆふぐれは雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて』
百人一首の歌だ。私も大好きな、詠み人知らずの恋の歌。
私は、窓から見える夕暮れの空を見上げた。いつかの彼のように。
「ゆふぐれは雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて」
手紙に添えられていた和歌を、口ずさむ。彼は、どんな気持ちでこれを添えたのか。
「ひっ……く……」
呟き終えた私の頬には、ひとしずくの涙が流れた。
口から洩れる声と、目からこぼれる涙はしばらくの間途切れることなく、図書室の窓から見える夕焼けが、ただただ私の影を伸ばしていった。
◆ゆふぐれは雲のはたてにものぞ思ふ天つ空なる人を恋ふとて
――夕暮れの雲を眺めては、ぼんやり物思いにふけっています。手の届かぬところにいる高貴なあなたを思って。
-了-
夕暮れに染まる セツナ @setuna30
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