四章10 『漏れ出る声』

 しばらく俺は見とれていた。

 上気したアイスの顔――しかしその目は狩人のごとき鋭さを持っている。あるいは獲物を前にしたライオンか。

 いずれにせよそれは、捕食者のものだった。

 唇がスライダーを引かれたファスナーのようにすっと開いていく。

「ソアラ」

 彼女は「はぁああ」と吐息を漏らした。

 半開きになった俺の口の中に潜り込んでくる。生温かく湿って、甘ったるい。口内がまるでスイーツを頬張った後みたいになる。

 まるで夢の中にいるみたいな心地だ。頭の中がふわふわして、体が熱されたキャンディみたいに溶けそうになっている。


 視界をアイスの赤い瞳に占(し)められていく。同様に心も。

 マインド・コントロールでもされるんじゃないか――半分本気で思った。

 唇がぷるぷる震えている。自分の妄想に恐怖しているのだろうか?


「目を――」

 アイスの無機質な声がやや反響して、幾重にも重なって聞こえてくる。

「目を閉じて」

 考えるより先に――というかもう、思考は半分以上己が役割を放棄していた――形を保(たも)てなくなったソフトクリームのように瞼(まぶた)が落ちていく。

 鼻先に柔らかく滑らかなものが擦れる。

 この後どうなるかは、思考が鈍っていてもさすがにわかった。

 それはいけないことだと、脳裏にまで追いやられた理性が告げる。

 でもそれは、頬から首――とてもこそばゆい――華奢な肩へと落ちてきた小さな手につかまれることで、すっと潮(しお)のように引いていった。


 唇にぷにっとしたものが押し付けられる。熱くて柔らかい、そして気持ちがいい。立て続けに押し寄せてくる快感に、頭の中がとろけていく。今まで自分を縛っていたものが壊れて解放されたかのような気分。

 鼓動が微かに膨らんだ胸の形に添って鳴っていた。その響きによって押し広げられているような錯覚に陥(おちい)る。

 頬を流れ落ちていく髪をアイスの手がいじっている。長い毛の先まで一本一本、全てに神経が通ったかのように彼女の手の感触が伝わってくる。

 お腹の下あたりがじんわりと熱くなってくる。


 初めての直(じか)のキス。それで自分が女の子であることを強く自覚した。

 男の時にしたことはないが、全身に生まれた感覚の一つ一つが少女特有のものであることがわかる。それはきっとどれも男性よりも体の芯からくるもので、敏感な反応を示しているのだろう。唇も、胸も、髪の毛も、お腹も。

 肩から背中にアイスの手が這(は)ってくる。そのまま指先がすっと背筋を撫でた。肌にぞわぞわとした感覚――脳天に雷が打ち込まれ、体の隅々まで駆け抜けていくような衝撃。

 唇が離れていき、誰かに指で優しく持ち上げられたように――実際はそんなことはなかったのだけど――瞼が持ち上がっていく。


 細められた瞳が、艶(つや)やかな色味を帯(お)びて俺の目を覗き込んできていた。

 その目の色を見て、俺は自分の胸がジクリと痛んだのを感じた。

 アイスの顔が離れていく。心なしか、その目がゆらりと揺れて焔(ほのお)のようになった気がした。

「……今、いけないことを考えた?」

「そう、|いけない(・・・・)こと」

 背に回された手にぐっと力が込められ、体を引き寄せられる。ポリエステルの水着の感触が水着に守られていない肌を微かに擦る。

 右横へとアイスは顔をやり、俺の首元に顔を埋める。

 視界に緑色の筒状スライダーの内側が映る。光を受けて淡く色づくそれは、まるで日を透かす青葉のようにも見えた。もちろん形状はまるで違うのだが、纏う雰囲気やなんかがそれにどことなく似ているような気がした。

 そう思っていた時、ふいに首筋に固いものを突き立てられたような鈍い痛みが生じた。

「ぁっ、ああぁ……!?」


 何が起きたのか一瞬わからず見やると、アイスが顔を上げていた。その口からは透明内人のようなものが引いていた。

 まだ痛みの残る首元に手をやると、そこは生温かさを残して濡れていた。

 遅れて俺は彼女に噛まれたのだと理解する。触れていると、肌に微かな凹(へこ)みのようなものがあるのがわかった。アイスの歯型の跡だろうと想像できた。

 自分の身体に、彼女の身体の痕跡を残された――それを解した途端、背徳感とそれに勝る喜悦(きえつ)に脳から炭酸のように幸福物質を分泌(ぶんぴつ)させる。

「ソアラ」

 耳元で急にアイスの声がして、驚きに身体が跳ねかけた。


「お願いしたいことがある、あなたに」

「お願いしたいことって……?」

「二つあるんだけど……」

 ぺろりと耳に熱と湿り気が押し付けられ、縁をなぞるように広げられていく。微かに鳴る水音に耳朶がピリピリと小さな快感電流に震える。

 水蒸気のような吐息に混じって、アイスの声が聞こえてくる。

「何もかも、忘れて」

 魔法の呪文みたいにその一言は頭の中に浸透(しんとう)していき、日陰の硬くなった雪のように残った思考力さえも取り上げられてしまう。

「――あむっ」

 耳を噛まれて、口から「ひゃんっ……」と声が絞り出された。

 自分の声がスライダーの中に響き渡る。

 何度もあまがみを繰り返され、その度に声が漏れ出てしまう。

 散々はを立てて外気が触れただけでも何かしら感じ入るほどに俺の耳を無茶苦茶にした後、アイスはしっとりとした声音で言った。

「ソアラのすごい可愛い声……、みんなに聞こえちゃったかも」

 意識は朦朧(もうろう)としていたものの、彼女の発した言葉を解していたはずだ。にもかかわらず、それに対する感情は何も芽生えなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る