四章9 『ウォータースライダーの中で』

 ウォータースライダーの天辺(てっぺん)から見下ろす光景は、悪くないものだった。

 遮(さえぎ)るものが柵(さく)以外になく、周囲を一望できる。

 揺れる水面、作り物だろう――緑の葉をつけたヤシの木、白とグレーのチェス盤によく似たチェックの床。

 細長い長方形の50メートルプールでは、二人の人間が水|飛沫(しぶき)を立てて泳いでいた。ラムとめぐるだろう。ここからだと人の姿は指の輪っかに収まるほど小さいが、水着のデザインでどうにか判別することができた。

 ラムはバタフライ、めぐるはクロールだ。どちらもかなり速いが、ややめぐるのほうが前に出ている。少し身長が高いからだろうか?


「ソアラ、ソアラ」

 心なしかいつもより大きなアイスの声が名前を読んでくる。

 見やると彼女はすでにフロートをスライダーの平らになっている出発地点に置いてスタンバイしていた。

「早く、来て」

「お、おお」

 返事をしつつアイスがぺしぺし叩くフロートの前側に座った。

足元を温かな水……いや、ぬるま湯? が、流れている。肌に馴染むような水温。ずっと触れていたくなるような気持ちよさである。

 スライダーは筒状になっている。一応光を薄っすら透過する素材を使っているが、やや暗い印象を受けた。まるで巨大な蛇みたいな生物の口がぱっくり開いていて、その体内に入っていくような気分だ。色味も黄緑だし、ますますそれっぽい。ちょっと怖い気もする。


 バカげた想像を軽く頭を振って追い出す。いくら今の自分が女の子だとはいえ、そんな怖がり方はない。こんなの、意気地(いくじ)のない子供じゃないか。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない。それよりさ、俺が前でいいのか?」

 肩越しに振り返って訊くと、アイスは「うん」とうなずいた後。

「こうするから」

「……って、お、おい!?」

 俺の背にぴとりと体をつけ、わき腹から手を回してきた。彼女は体温は低かったが、温水に浸かっているからか若干冷たさが取れていた。

「なっ、何して……」


「出発」

 言うなりフロートが前進しだす。アイスが地を蹴ったりしたのだろう。

 フロートはすぐに傾斜に突入してしまい、止める間もなかった。

「うぉっ、ぉおおおおおッ!?」

 まるで落下しているかのような加速。水流によって滑りやすくなっているからだろう。

 ぎゅっとアイスの手が俺の体を強く抱きしめてくる。僅かなふくらみが背中に押し付けられていた――それを感じると胸がドキドキして、かっと頬が熱くなる。いや、ドキドキは単にスライダーのスリルによるものかもしれない。もう、よくわからない。

 右に左にカーブして、ますますスピードが上がっていく。それに比例するように頭の中が空っぽになって意識が飛びそうになる。自分の上げている少女の悲鳴で頭の中が埋め尽くされていく。このままだと我を失ってしまうかもしれない。男だった頃の記憶がすっかり消えてしまうんじゃないかと本気で信じかけた。


 しかしフロートは急にピタリと止まった。

 時間が停止したのか?――しかしぬるま湯は変わらず流れ、フロートを追い越している。

 そこはおそらく蛇がとぐろを巻いているようなゾーンで、右カーブが続いていた。多少スピードが落ちるような場所ではあるかもしれないが、こうまで完全に止まるのはちょっとあり得ないんじゃないかと思った。ただ、実際に動かなくなっているのだからなんらかの原因で勢いが失われてしまったのだろうと納得せざるを得ない。


 いつの間にか体に回されていたアイスの手が解かれていた。

 それで俺は笑いつつ「止まっちゃったな」と彼女の方へ体ごと振り向いた。


 直後、両頬をぱちっと挟まれた。

 アイスの顔が間近にある。本当に近くだ、合わさった目線が逸らせないぐらいに。

 俺はついさっき、ラムと閉じ込められていた時に気分が昂(たかぶ)って彼女の体中にキスをしていた時のことを思い出していた。その時の高揚感が再び胸の内に蘇(よみがえ)りつつある。

「……ソアラ」

 彼女の薄い色の唇が俺の名前を呼ぶ。ただそれだけのことなのに、妙に唇の開閉に目を奪われて、一音一音を耳にする度に肌をぞわっとした震えみたいなものが駆け抜けた。

 頬を振れていた指がすっと下りていき、顎を撫でた。

 紅い瞳の中の少女は、必然的に顔中を真っ赤にしているように見える。


「可愛い」

「あ、その……ありがとう」

 お礼の言葉が自然とぽろりと出た。嬉しかったのだ。

 胸にやろうとした手が、水着のフリルに触れる。自分が他人にどう見られたいかを如実に語るそれに。

「もっと……」

「ん……?」

「もっと、言って欲しい」

 俺は自ら懇願(こんがん)していた。頭から溢れる快感物質をもっと味わいたくて。女の子の自分に酔いしれたくて。今の時間がずっと続けばいいと思って――。


 アイスは青空が徐々に暮れかけるように頬の色を変え、繰り返した。

「可愛い」

「うん」

「ソアラは、すごく可愛い」

「うん……」

「誰よりも、可愛い」

「そ、そっか」

 自分で頼んでおきながら、妙に熱のある口調だなと思った。

 アイスらしくない。嬉しいんだけど、どうも違和感を感じる。

 顔を赤らめているのもそうだ。

 さながら、焦(こ)がれたものを見つめる乙女のような顔だ……。

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