一章9 『趣味ってありますか?』
急に立ち止まった俺をアイスは無感情な瞳で見てくる。
「どうしたの?」
「……その、ちょっと緊張しちゃって」
「緊張?」
俺は息苦しさを解消するために、意識的に何度か呼吸をしてから答えた。
「えっと……さ。みんなとうまくやっていけるのかなとか、受け入れてもらえなかったらどうしようとか、色々不安で」
「平気」
アイスは俺の手をつかんで、ぐいっと引っ張りずんずんと寮の中へと歩いていく。
「お、おい?」
「お姉さん、いい人。だから心配いらない」
一足先に敷居をまたいだアイスが振り返ってこちらを見やる。
もう頭の中で模写できるほど、表情は無のままだ。
でも俺の手を握る手の力強さが、彼女の本心を物語っていた。
「さあ」
二文字の言葉で、俺の覚悟を促してくる。
敷居を自分の足でまたげと。
新しい生活を、己(おの)が一歩で始めよと。
俺は内心で苦笑を漏らした。
まったく。これじゃあ、本当に俺が女の子みたいじゃないか。
俺はアイスのてをそっと握り返した。
トクン、トクンと、心臓が脈打つ。
もしかしたら、手を握っている彼女にはそれを聞かれてしまっているかもしれない。
恥ずかしい。
でも、もしそうだったらいいなと思っている自分もいた。
この胸の内の思いを全部、この子にさらけ出したい……。
なんなのだろう、この感情は。
よくわからないけど、躊躇(ためら)いはすっかりなくなっていた。
アイスに手を握られているなら、大丈夫。
そんな確証が生まれつつあった。
俺は低く張られた縄跳びを越えるように、敷居をまたいだ。
見えない壁に飲みこまれるような感触。水に沈み込むみたいな感覚を抱きながら、寮の中に入る。
そこは資産家の豪邸といった感じの洒落た空間だった。
毛足の長い絨毯にクラシカルな調度品、宗教的な美しい絵画。
映画のセットかよって思うほど、なんか出来すぎた光景だった。
建物の構造自体は男子寮と変わらないはずだ。しかし使われている調度品の数々の値段が桁違いな気がした。
まあ、男子のヤツ等は暴れてものをよく壊すからな……。滅多なものを置くことができないんだろう。
玄関を入ってすぐのホールで談笑していた女子達がこちらを見やる。
その視線にちょっと身の竦むような思い。
後から入ってきたティアは注目から俺を守るように前に立ち、女子達に軽く会釈をした。女子達も同じように微笑と共にお辞儀してきて、また会話に戻っていった。ただそれでもアイスのもつ鞘に収まった刀は気になるようで、ちらちらとそれを見やってはいたが。
ティアが半身を捻るような格好でこちらを見て言った。
「行きましょうか」
そのなんてことない笑みを目にした途端。
かあっと己が顔の温度が急上昇した。熱が群れて集まってくるみたいに。
なんだろう。どうも今日は、体の調子がおかしい。女体化したばかりで、まだ馴染んでいないからだろうか。
「天神さま?」
気が付けば、ティアとアイスはホールの階段を上り切ってこちらを見下ろしていた。
「あ、い、今行く」
俺は駆け足で階段を上った。
だが一段上るごとにスカートが跳ね上がるのが、どうも落ち着かない。
下から見えていないだろうか? 髪の毛が乱れないだろうか?
……なんでそんなこと気にしてるんだろう。
ティア達に追いつくと、軽く息が上がっていた。なんだか体力が落ちている気がする。明日から少し運動した方がいいかもしれない。
「大丈夫ですか?」
「はぁ、はぁ。……ああ、平気だ」
「荷解きはわたくしに任せてもらっても構いませんよ?」
「わたしもやる」
「ふふ、そうでしたね」
「二人の申し出はありがたいけど、俺もちゃんとやるよ。他人に任せっぱなしじゃ落ち着かない性分なんだ」
「わかりました。でも、無理はなさらないでくださいね」
「おう」
俺は軽くスカートを整えて、歩き始めたティアとアイスの後へ続いた。
○
寮の部屋は学生のために用意された割には上品な作りだった。
廊下にも敷かれていた赤い絨毯、カーテンはより深みのある真紅。壁の下部や天井にニスの塗った木材を使うことで、上品な空間に落ち着いた雰囲気を醸している。
もう一つ気になったのは、室内にほとんどものがなかったことだ。
今は俺の私物が運び込まれたので少し手狭になっているが、元はモデルルームさながらにこざっぱりしていた。
ティアの私物といえばきちんと整理された勉強机、ホテルのようにきれいなベッド。服はウォーキングクローゼットに収納されている。洗面所には歯ブラシや化粧品道具。
それだけだ。
趣味の痕跡すら、見つけることができなかった。
年頃の女子ってのは色々とものをため込んでいて、もっと部屋がごちゃごちゃしているイメージを持ってたんだが……。
普段は何をして過ごしているのかと荷解きの最中に訊いてみると。
「勉強と、研究資料の確認でしょうか」
「その資料は?」
「全てタブレットとパソコンの中にあります」
「趣味は?」
「……趣味……、趣味。あれ? ちょっと待ってくださいね」
作業の手を止めてまで、ティアは熟考しだす。
「趣味……。フェミニンな、可愛い趣味……。ううん……、そもそもわたくしと同年代の女の子は普段何をして過ごされているのでしょうか? カラオケとか、ウィンドウショッピング……? でもそれがどういうものか、詳しくは知りませんし……」
「おーい、ティア? ティアー」
「旧友の方々は音楽鑑賞をよくされてますし、ここはサティやドビュッシーが好きだと述べることで、今時っぽさをアピールを試みましょうか? しかし名前こそしっていても実際にはジムノペディと二つのアラベスク程度しか聴いたことないから、嘘になってしまいますし……」
「……ティア、ティア!」
「へ? ……あっ!」
真ん前に来て呼びかけて、ようやく俺の呼びかけに気付いてくれた。
「あの、わたくし、その……」
「おう」
「…………ないんです」
「ん……?」
「実は趣味、ないんです」
水あげを忘れて頭を垂れた芽のように、しょぼんとしてしまったティア。
見ている俺の方も思わず元気を失(な)くしてしまいそうになる。
「……ごめんなさい。こんな無趣味な女の子と暮らすのなんて、イヤですよね。あ、今からでも所長に言って新しいお部屋を――」
「ティア。本ってさ、結構面白いのいっぱいあるんだぞ」
「え? 本……ですか?」
「ああ。小説とか漫画、あと詩集とかエッセイ。今度、俺のお勧めを貸すからさ、読んでみないか?」
「はっ……、はいっ!」
向日葵みたいな笑顔。うん、やっぱりティアは笑ってる方が可愛い。
「とびっきり面白いの貸すから、期待しとけよ」
俺はティアの頭にぽんと一回手を置いてから立ち上がり、自分の作業に戻った。
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