一章8 『少女の恩返し』
寮の前のバス停には、ベンチが二基(にき)置かれていた。
その端に座り、自分の膝をぽんぽんと叩いて言った。
「傷口が上になるように、ここに寝て」
「なんで?」
「止血と傷口を洗浄するためだよ。ほら、早く」
少女は小首を傾げながらも、緩慢な動きでベンチに横たわり、膝に頭を乗せてきた。
重くもなく軽くもなく、といった重量。少なくとも、しばらくこの状態が続いても苦ではない。
間近で見ると、少女の髪はとてもつややかできれいだった。カラスの濡羽色(ぬればいろ)というのは、こういうことを言うのか。
触れてみると一本一本の毛が芯を持ったしっかりしたものであることがわかった。それでいて、触れ心地がいい。指で梳くと、まるで髪の中に指が溶けていくかのようだった。
「何してるの?」
少女の問う声に、俺ははたと我に返った。
「ご、ごめん。ちょっと髪がきれいで、夢中になっちゃって……」
「あなたの髪も、きれい」
変な気の利かせ方をするな、と思ったが遅れて気付く。
そうだ、今の俺は女なのだ。ならば少女の言葉にも得心が行く。
「ありがとう」
「うん」
少女は俺の素肌をさらした膝をそっと撫でた。慣れない感触に、思わずドキッとする。
「とっても、寝心地いい」
「そう?」
「こうしてると眠くなる」
「あはは。もう夕方だし、家に帰って寝た方がいいよ」
「家はダメなの」
しばし言葉の意味を考えてから、俺は訊いた。
「……ダメって、家出したとか?」
「違う。今日からこっちで暮らすことになったから」
「引っ越しか」
「まだ決まってない」
「えーっと、それって引っ越し場所が?」
「うん」
「じゃあ、ホテルとかに泊まるしかないな」
「ホテル……」
「あの、天神さま。治療は?」
「あ、いけね」
少女との話に夢中になっていて、すっかり忘れていた。
俺は傷口を軽くハンカチで押さえた後、水で軽く傷口を洗浄した。
垂れてきた水を少女は指ですくい、あろうことかそれをペロッと舐めた。
「おい、傷口を洗った水を舐めるなよ」
「喉、渇いてたから」
「なら後で、直接ペットボトルから飲めばいいだろ」
「わたし、ペットボトル苦手」
「苦手?」
「上手く飲めないから」
「……冗談か?」
少女は膝の上で軽く頭を転がす。多分、かぶりを振っているつもりなのだろう。
「だったら、コップに移せばいいだろ」
「持ってない」
「まあ、水筒でもない限り、持ち歩いてるやつはいないよな」
ティアが遠慮がちに口を挟んでくる。
「あの、寮にありますから、よろしければお茶を飲んでいかれたらどうでしょうか?」
「だってさ。よかったな」
「ありがとう」
「いえいえ。礼には及びませんよ」
俺は湿潤性のある被覆材を少女の頬に貼って言った。
「できたぞ」
「あれ? 消毒とかなさらないんですか」
「多少の細菌ならいても害はないし、何より消毒薬は傷口の治りを遅くしちゃうんだよ」
頭を持ち上げ、こちらを見やった少女は言った。
「……女子力」
俺は曖昧な笑みを返した。
……性転換した元男に膝枕をされていたと知ったら、この子はどう思うだろう? 考えたら、ちょっと怖くなってきた。
「ありがとう、優しいお姉さん」
「い、いや、大したことはしてないから」
笑みがどんどんぎこちないものになっている気がする。
「大したことないことない。わたし、すごく嬉しかったから」
感謝してくれてるのだろうが、どうも少女の声や所作からは感情がよく読み取れない。人形と話しているかのようだ。
「わたし、愛洲智流(あいすちる)」
「アイス……チル?」
「名前」
「あ、ああ。そっか」
「愛洲が苗字で、智流が下の名前。好きな方で呼んで」
「じゃあ、アイスで」
しばしの無言。機嫌を損ねたかと心配になったが、アイスはやがてぽつりと言った。
「……美味しそう」
「いやいや、お前の名前だからな!?」
アイスは何度か目をしばたかせた後、「そうだった」と一言。
相当な天然か、よほど腹が空いているか。あるいはその両方だろう。
「お姉さんたちの名前は?」
「俺は天神ソアラだ」
生まれて初めて自分の両親もとい名付け親に感謝した。ソアラなら女になっても改名せずにそのまま使うことができる。幼少の頃に散々からかわれたが、その甲斐があったというものだ。
「わたくしはティア・ポテンです」
「ソアラとティア。……うん、覚えた」
アイスは交互に顔を見やった後、何度かうなずいた。まるでトンカチで釘を打つかのような頭の動かし方だった。
夕日が沈み切り、街灯の光を包むようにじんわりと闇が空から大地まで広がった。
寮から漏れ出た室内灯の明かりは、洞窟の中に差し込む日の光のようだった。
ティアがぽんと音を立てて手を合わせ、にこやかな顔で言った。
「そろそろ寮へ参りましょう。お茶を淹れしますし、簡単な軽食でしたらすぐにご用意できます。よろしかったら、夕食もご一緒できるよう寮長にお願いしますよ」
「本当……!?」
初めてアイスが感情を露(あら)わにした。
目をキラキラ輝かせて、身を乗り出す。と同時に、彼女のお腹がぐぅううっと鳴いた。
くすりと笑って、ティアはうなずく。
「はい。アイスさまは食堂ではなく、わたくしの自室で食べられるよう寮長に取り計らっていただきましょうか」
「どうして?」
「食堂は人が多いですし、寮生ではないアイスさまは少々居心地が悪いと思うんです」
「あー、確かにな。アイスはあまり社交的じゃなさそうだし……って、あ、ごめんな」
「ううん。事実だから」
言いながらアイスは気にした風もなくかぶりを振った。
ティアは俺の方を見やり、四十五度ぐらい首を傾げながら訊いてきた。
「天神さまはどうされますか? わたくしはお部屋でアイスさまのお世話をしようと思うのですが……」
「俺も部屋で食べるよ。ティアがいないのに、寮生達の和気あいあいとした空間に飛び込むのはさすがに少しキツイからな」
「かしこまりました。……ああでも、お部屋にお招きしてもまだ天神さまの荷解きが済んでいませんでしたね」
「荷解き?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべるアイスに、俺は慌てて言った。
「あ、あのな、俺も今日、ここに越してきたんだよ」
さすがに理由を訊かれたらマズいと内心冷や汗をかいていたが、特にその理由を突っ込まれることはなかった。
アイスはゆっくりと立ち上がり、俺を振り返った。
夜闇を背負った彼女には鎌がよく似合いそうだと思った。首を容易く刎(は)ねることができそうな、巨大な鎌だ。
「手伝う」
ぽんと言葉を置くようにアイスは言った。
俺は思考に三秒ほど費やしてから訊いた。
「手伝う……って?」
「荷解き。わたしも、手伝う」
「いや、そんな悪いよ」
「お礼」
「……ええと?」
「お礼したい。手当てしてもらったから」
自身の頬を指してアイスは言った。
確かに、借りを作ったままではすっきりしないだろう。長いこと本当の親ではない保護者に面倒を見てもらってきた俺には、彼女の気持ちがよくわかった。
「そうか。じゃあ、手伝ってもらおうかな」
「うん。任せて」
声や表情が変わらなかったが、腕まくりすることで自身のやる気をアピールしてきた。
「話がまとまりましたね。ではお二人共、わたくしの後についてきてください」
歩き出すティアの後ろに、俺とアイスは並んでついていく。
両開きのドアの右側を開き、ティアは手で入るように示してくる。
男のままなら一生敷居をまたぐことのなかった、男子禁制の女子寮だ。
そこへ足を踏み入るということはすなわち、本当に自分がもう男ではないことを認めることになる。
汗で手がじっとりと湿ってくる。思わずスカートで拭ってしまう。けれどもまたすぐに汗に塗(まみ)れてしまう。それなのに喉が酷く渇いている。まるで体の水分を全て手が吸い取ってしまっているかのようだ。
今更ながら、自分が場違いな場所にいるような気がしてきた。
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