第7話「好きだから」
どうして逃げてしまったのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、珠子先輩と男の人が一緒にいるところを見た瞬間、心の中にモヤモヤしたものが広がって、目の前が真っ暗になったのだ。
あのままあそこにいたら、私はきっと先輩に酷いことを言ってしまっただろう。
それだけは、嫌だ。
もう十分迷惑をかけているのに、これ以上嫌われたくない。
先輩に嫌われてしまったら、見放されてしまったら、私は生きていけない。
10月の雨は冷たくて、足はガタガタで、限界を迎えた私は、やがて大きな橋の上に辿り着いた。
下を流れる川から、轟々と激しい濁流の音が聞こえる。
もし、今ここに飲み込まれたら、もう先輩に会えなくなるのかな……?
それもいいかもしれない。
先輩のことが好きで、こんなに苦しいのなら、いっそ消えてしまえばいい。
どうせ先輩に好きになってもらえるわけがないのだから……。
私は橋の欄干に手を掛けた。
「梓!!!!」
大きな橋の上で、やっと梓を見つけた。
梓は走り続けて力尽きたのか、幽霊のようにふらふらとした足取りで、橋の欄干に手を掛ける。
まさか飛び降りるつもり!? そんなことさせるわけにはいかない!
あたしは夢中で叫んだ。
「梓!!!!」
梓はピタッと動きを止めた。そしてゆっくりと振り返る。
「珠子……先輩……?」
心ここにあらずと言った感じだ。
外では先輩禁止って言ったのに。いや別にいいんだけど。
あたしは急いで梓に駆け寄り、腕を掴んだ。
「何早まってんのよ! バカ!」
あたしが怒鳴ると、梓はただでさえ濡れてぐしゃぐしゃになった顔をさらに歪めた。
「だって……先輩に、もう迷惑かけたくないんです」
呆れた。そんな理由で死のうとしていたのか。
「こんなところまで追いかけさせといて、何言ってんのよ!」
「じゃあ! 追いかけて来なければ良かったじゃないですか! さっきの男の人と一緒にいれば良かったんです!」
「だから、アイツはただの同級生! アンタが考えてるようなことは何もない!」
「私なんかよりずっと、お似合いでしたよ!」
「元カレとヨリ戻すとかないし、アイツは彼氏いんのよ! ヤキモチ妬いてんだかなんだか知らないけど、他人を巻き込むな!」
「珠子先輩にお説教されたくないです!」
「するわよ! 先輩なんだから!」
「先輩のバカ!」
「バカって言う方がバカなのよ!」
そんな小学生みたいなやり取りがしばらく続いた。
やがてお互い言いたいことを言い尽くして、冷静になってきた頃。近くを通り過ぎた車が水を跳ねた。
それでようやく、自分たちが傘も差さずに大雨の中、突っ立っていることに気づいた。
「と、とにかく建物の中に入りましょう。このままじゃあたしまで風邪ひくわ」
結局、歩いてすぐのところにあった人けのないラブホテルに入ることにした。ラブホテルという部分に気が引けるが、ずぶ濡れの姿を人に見られなくていいのはありがたい。
適当に一番シンプルな部屋を選んで入った。
「お風呂、アンタが先に入りなさい」
梓は特に何も言わず、あたしの言葉に従ってバスルームへ向かった。
その間に、あたしは濡れた服を脱いで、備え付けのパジャマに着替える。下着は少し濡れているけど、とりあえず服が張り付く感触から解放された。
スッキリしたところで、ベッドに寝転んで、考えるべきことを考えよう。
考えるべきこととは当然、気づいてしまった梓への気持ちについてだ。
あたしは、梓が好き。
それは後輩や妹としてではなく、もっと別の色を持った思慕の情だ。今まで異性に向けてきたその感情を、あたしは梓に抱いている。
正直、全く納得がいかない。
どうして好きになったのとか、どこが好きなんだとか、理由も根拠も分からない。
しかし、この熱くてわけの分からない、自分でも持て余す感情が恋でなければ、一体何だと言うのだろう?
あたしは梓に恋をしている。恋をしているから、こんな雨の中でも追いかけた。
問題はここからだ。
あたしはこれから、梓とどうなりたいのだろう?
偽の恋人をやめて、そのまま本当の恋人になるべきなのか。
確かに、この気持ちを伝えれば、梓は間違いなくあたしを受け入れてくれる。あたしの欲しがる気持ちを、全部与えてくれるだろう。
それはきっと梓も望むことで、物語はハッピーエンドを迎える。
それでも、あたしは躊躇ってしまう。
梓を選んだ時、長年自分を作り上げてきた世界が、崩れてしまうことが怖くて……。
あたしがもう少し若かったら違ったかもしれない。
でもあたしは、そこに踏み込むには大人になりすぎた。
あたしは一体、どうすればいいの……?
「先輩。お風呂、どうぞ……」
考えが行き詰ったところで、梓がバスルームから出てきた。ちょうどいいタイミングだ。
「え、ええ。すぐ行くわ。アンタも、髪ちゃんと乾かしなさいよ」
残りはお風呂で考えるのもアリね。
結論から言うと、何も解決策は浮かばなかった。
それに、お湯で身体を温めると、思った以上に疲れが出た。今日はもう難しいことを考えられそうにない。
「あの、珠子先輩。本当に、一緒に寝ていいんですか?」
「ベッド1つしかないんだから、仕方ないでしょ」
「わ、私はソファーでも……」
「今日のアンタをそんなとこで寝かせらんないし、あたしはベッドがいい。分かったら、早く寝ましょう」
「はい……」
梓がもぞもぞと布団に入るのを確認すると、電気を消した。
そういえばラブホに来て寝るだけ、なんていうのは初めてかもしれない。
いや梓とそういうことするとか、まだ全然考えられないけど、意識したらなんかドキドキしてきた。
こんなので眠れるわけないじゃない!
布団に入る前は、あれほど疲れていたのに!
「……珠子先輩、起きてるんですか?」
どうやら梓も同じらしい。小声で話しかけてきた。
あたしは寝ているふりをしながら、梓の言葉に耳を傾けた。
「先輩。今日は、本当にすみませんでした……先輩の前で、あんなに取り乱して、先輩を責めるようなこと言ってしまって……」
部屋はとても静かで、いつもより少しトーンの低い梓の声だけが響き渡る。
「先輩にご迷惑をかけてしまいましたけど、実は嬉しいんです。先輩が私を追いかけて、引き止めてくれて……ああ、先輩にまだ見捨てられてないんだなあって思えました」
そんなことするわけがない。
もし梓のことが好きじゃなくても、きっと追いかけた。
梓みたいな子が、あたしなんかのために傷ついて、命を落とすなんてあってはいけないのだから。
梓は、耳をくすぐるような甘い声で言った。
「珠子先輩……私やっぱり、先輩のことが大好きです」
たぶん、あたしはどうかしてしまったのだろう。
気づいたら、あたしは梓を抱き寄せていた。
「先輩……?」
梓は驚いて固まっている。
当然だ。あたしだって驚いている。
「……寒いのよ」
必死に考えて捻り出した言い訳がそれだった。
今ここで「好き」と言ってしまえばいいのに、どうしてもそれができないから。
梓が慌てる。
「も、もしかして風邪ですか!? すみません! 私のせいで……!」
「そうかも。だから責任取って、抱き枕になってなさい」
梓の体温は子どもみたいに温かくて、眠るのにもちょうどいい。
梓は黙って、あたしの背中に腕を回した。
「はい……先輩のこと、一生懸命あっためてあげます」
梓の息遣いと鼓動を近くに感じて、身体の芯から熱くなる。
やっぱりあたしも、梓が好き。
どうなりたいのかは分からないけど、今この腕の中の温もりを手離したくないということだけは、はっきりと分かる。
それでやっと分かった。
自分の気持ちに嘘はつけないっていうのは、こういう気持ちのことを言うのだ。
あたしは誰に何と言われても、梓と一緒にいたい。
そう例えば、昔の自分や、梓に想いを寄せる黒髪の彼に言われたとしても。
あたしたちは、母親に抱かれる小さい子どもみたいに眠りについた。
翌朝。万が一、一緒に朝帰りしてるところを誰かに見られたら気まずいので、梓に先に出てもらうことにした。
「では、お先に失礼します。先輩」
「ええ。そうだ。梓」
「はい?」
「来週の土曜、空けといて。一緒に出かけましょう」
「もちろんです。先輩から誘ってもらえるなんて嬉しいです」
梓はくすくすと笑った。
いつもの陽気な梓に戻ったみたいで安心する。
「楽しみにしてなさいよ」
来週の土曜日はちょうどあの日から2ヶ月目。偽の恋人期間の終わりだ。
そこで改めて、この気持ちを伝えよう。
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