第6話「告白と再会」

 忘れもしない初めての彼氏は高校1年生の時だった。

顔がかっこいいと思ったことがきっかけだけど、それでも立派な初恋で、夢中になって恋をした。恋の喜びも、失恋の痛みも、全部彼が教えてくれた。

その次の彼氏は、大学1年生の頃。優しくて、少しぼけっとしていて放っておけないタイプだった。

 こっちが無理言って付き合ったのに、別れる時は最後まで申し訳なさそうにしていた。

20歳を迎えた日、初めて男に抱かれた。漫画で見るよりずっと痛くて、友達から聞いていたよりずっと恥ずかしかった。

その男とは付き合わなかった。彼は本命以外には軽い男だったから。

翌年に、また新しい彼氏ができた。向こうから告白されて、柄にもなく嬉しかった。やっと誰かに好きになってもらえるんだって。

けど、結局忘れられない他人を重ねられているだけだった。頭にきたから別れる時に、そいつを殴った。自分が人を殴れる人間だということを初めて知った。その次の奴には水を掛けたんだっけ。

そしてつい先日、アプローチしていた男に見事に振られた。もう何も感じなかった。

彼らは皆、あたしという存在を踏み台にして、自分の本当の気持ちを選んだ。もし彼らが主役の映画やドラマがあるとしたら、あたしはさすずめ、想い合う2人を引き裂く嫌な当て馬女といったところだろう。

冗談じゃない。あたしは何も悪いことはしていないのに、なぜあたしだけが悪者のように映されなければならないのか。

彼らが恋をしたように、あたしだって恋をしていた。

確かに魂が惹かれ合うような激しい恋ではない。正直なところ、顔が好きだとか、優しくしてくれたからとか、そういう感じだった。

でも、それの何が悪いと言うの? 

誰をどんな風に好きになるかなんて、あたしが決めればいいじゃない。彼らも一度は応じたのだから、罪があるとすれば双方だ。

彼らには真実の愛が、あたしには怒りと諦めだけが残された。 

それでも、いつか本気であたしを好きになってくれる人が、白馬の王子様のように現れてくれればいい。


そう思っていた時に、あの子が現れた。

 


あのお泊りから1週間。仮の恋人期間終了まで、あと3週間ほど。

あたしはそろそろ答えを決めなければならないと思い始めていた。

梓はあたしが出会ってきた誰よりも、あたしを好きでいてくれる、それは思い込みや気の迷いじゃない。梓が必死に考えて辿り着いた真剣な答えだ。

 加えて、あたしには現在本当の恋人も想い人もいない。傍から見れば、梓の気持ちを受け入れない道理はないだろう。

 しかし、あたしたちには壁がある。それは性別という壁。今どき古いと言われるだろうけど、容易に飛び越えようと思うには、26年はあまりに短い。

 梓が同性しか好きになれないと言ったように、あたしも異性しか好きになれない。そういう風にできているんだ。

 それなのに、あの夜、肩にもたれてきた身体の重みを思い出すと、どうしてだかモヤモヤする。

 これでは仕事にならないから、休憩時間に自販機に飲み物を買いに行くことにした。

 その時だった。廊下の奥から声が聞こえた。


「俺、立花さんが好きなんだ」


それは例の黒髪イケメン、斉藤くんの声だった。斉藤くんと梓が、自販機より奥で向き合っていた。

 えっ!? 今、『好き』って言ったわよね!? それって告白!? いや斉藤くんが梓に気があるのは知っていたけど、まさか会社で告白するなんて思いもしなかった!

 あたしは2人に見つからないように、自販機の影に隠れて、様子を窺った。

 斉藤くんは、大きく息を吸い込み、もう1度言う。

「俺は立花さんが好きなんだ。だから、俺と……付き合ってください!」

 真っ直ぐで飾り気のない、斉藤くんに恋する女子がいたら、あっさりOKしてしまいそうな情熱的な告白だ。それでなくとも、斉藤くんのスペックなら、大抵の女は断らないと思う。

 しかし梓は違う。ひどく迷惑そうに顔をしかめて答える。

「気持ちはあいがたいですけど、ごめんなさい。斉藤くんとは付き合えません」

「どうして……?」

「好きな人がいるからです」

 斉藤くんの瞳が、ショックに揺らぐ。それでも何とか持ち直して問いかける。

「好きな人って……この前の、デートの相手?」

 声を震わせる斉藤くんとは対照的に、梓の態度は一貫して冷めている。

「そうですけど」

「それって誰? 会社の人?」

「斉藤くんには関係ないです」

「ないけど……どこの誰かも知らない奴に負けるのは嫌っていうか……」

「それは斉藤くんの都合です。無理なものは無理なので、失礼します」

 梓は斉藤くんに一瞥もくれず、その場を離れる。鉢合わせする前に、あたしも急いで仕事場に戻った。


梓の飲みに行こうという誘いを断って、あたしは一人夜の街に繰り出した。あんな現場を見てしまって、梓の顔をまともに見られる自信がなかったからだ。

 斉藤くんが梓に告白をして、梓がそれを断った。あたしの目の前で起きた出来事は、たったそれだけのことだ。

 梓は男にモテる。きっとこういうことは、今までにもあったに違いない。そのたびに、斉藤くんのように振られる人間がいたのだろう。

 想像できることだったけど、いざ目の当たりにすると、動揺せずにはいられない。

 なぜなら梓は好きな人、すなわちあたしがいるから、斉藤くんを振ったのだから。斉藤くんお失恋に、あたしも無関係ではないのだ。

 それから最もあたしの胸を突き刺したのは、梓の冷たい氷のような表情だ。

 斉藤くんの告白を、梓は何も喜んでいない。むしろ嫌悪すらしているようだった。

 自分を思ってくれる異性に告白されて、あんな態度を取れる理由が、あたしには分からない。

 あんなに一生懸命な彼を傷つけてまで、女のあたしを選ぶ理由が分からない。

 梓は、たった23年で自分の人生を決めつけているみたいだけど、少しは斉藤くんのことを見てみればいいんじゃないか。彼は間違いなく梓を愛してくれるのだし。

 そうだ。手の届かない真実より、手の届く嘘の方が、誰も傷つかなくて絶対いい。

 なのに、心の奥深くがモヤモヤしている自分がいて、今すぐどこか静かな場所に行きたい。

 そうして夜の街を彷徨って見つけたのは、一軒のバーだった。


店内は人も少なく、ほの暗い照明で、ゆったりとした音楽が流れている。ここなら落ち着けそうだ。

 あたしは適当なカクテルを注文して、ただ流れる音色に耳を傾けていた。

「あれ……? もしかして……?」

 しかし、そこに新しい音が加わった。人の声だ。しかも聞き覚えがある。

 声のした方に振り返ると、黒というより焦げ茶色の髪の、スーツ姿の男性が立っていた。こういう店よりも、もっと明るい雰囲気の居酒屋なんかが似合いそうだ。

「陽平……?」

 男は柔らかく微笑んで言った。

「久しぶり。萩野」

 佐々木陽平。あたしの初めての彼氏であり、初恋の男だ。



「久しぶり。元気にしてた?」

「うん。まあまあ……そっちは?」

「俺も。ぼちぼちってとこ」

 陽平とは、卒業以来会っていない。会う理由もなかった。

陽平は地元の大学を卒業して、地元で就職し、今日は出張でこっちに来ていたらしい。

「よくあたしのこと分かったわね」

 陽平は頬を掻いた。照れた時の陽平の癖だ。

「そりゃ忘れないよ。ほら、萩野は美人だしさ……」

「お世辞、言わないでよ」

「いやいや、お世辞じゃないって。つーか、高校の頃より綺麗になったんじゃないか?」

 本心からそう思っているのだろう。

 陽平は明け透けに好意を示す。そういう素直さは変わっていない。

「大人になったからね」

 そう。どんなに変わらなくても、あたしたちは大人になった。

 陽平は、無邪気な笑い方は変わらないけど、身体はすっかり成人男性のそれで、どこか落ち着きも生まれた。

 一方で私も、あの頃、陽平の側で感じていた甘いときめきはもうない。

 ないからこそ、あたしは一番気になっていることを聞くことができる。

「……あのさ、和泉くんとは今も付き合ってるの?」

 和泉くんとは、陽平の幼馴染で、想い人。彼と付き合うことになったから、あたしは振られた。

 陽平は、あたしがそのことを聞くとは思っていなかったのだろう。目を丸くする。けど、すぐに答えた。

「ああ。なんとか、上手くやってるよ」

 その目は、この上なく愛しそうで、甘い。あたしは一度だって、そんな目を向けられたことはなかった。

「そう……良かったわね」

「あ、ごめんな! 振られた元カレが幸せにやってるなんて、嫌だよな?!」

「ううん。謝らないでよ。聞いたのはこっちだし」

 確かに当時は悲しかったし、和泉くんを恨んだこともあった。

 どうして女のあたしを差し置いて、男と結ばれるんだって。

 しかし、今は純粋に彼らの幸せを受け入れることができる。

別れを告げた時、陽平は何度もあたしに謝った。あたしの記憶の中で一番濃い陽平は、いつもの明るい笑顔や、初デートの時の真っ赤な顔じゃなくて、その時の申し訳なさそうな表情だった。

 だから、陽平が和泉くんとの幸せを後ろめたく思わなくなったのなら嬉しい。

 それはやはり大人になったということなのだろう。

「ねえ、アンタあたしに言ったわよね? あたしは良い奴だから、すぐ相手ができるって」

「あー……言ったな。今でもそう思ってるよ」

 陽平はひとしきり謝った後、

「萩野は良い奴だから、すぐに萩野のこと好きになる奴がいるよ」

と、言った。

なんて勝手な言葉だろうと思った。

 しかし、今思えばあれは彼の精一杯の感謝だったのだ。

 陽平はあたしに恋をしなかったけど、けして何の情もなかったわけではないことの証明だった。

「アンタの言った通り、いるよ。あたしのこと好きって言う奴」

「えっ!? マジ!? どんな奴?」

 あたしは、あの真っすぐで押しの強い後輩の顔を思い浮かべながら、話した。

「あたしより年下……まあ、新卒のペーペーなんだけどね」

 若さと愛嬌だけが取柄で、

「顔は可愛いかな。目とかぱっちりしてる。すごいモテると思う」

 あたしを見る目がいつも子どもみたいにキラキラしていて、

「褒めると大げさに喜ぶのよね。落ち込む時も分かりやすくて、子犬みたいね」

 何も考えてないのかと思いきや、あたしの想像もつかないほどの悲しみを抱えていて、

「本当にまっすぐで、あたしが忘れたものを全部持ってる。そういう女よ」

 白馬の王子様ではないけれど、立花梓は間違いなく『萩野珠子を好きだと言う人間』だった。

 陽平は特に驚いた様子もなく、頷いてグラスの酒を飲みほした。

「そっか……良い子、なんだな」

「あら。ずいぶん冷静じゃない」

「女の子ってとこはびっくりしたけど、それだけだよ」

「まあ、アンタの恋人は男だもんね」

「それもあるけど……萩野はその子が好きみたいだからさ」

 思わず飲みかけたカクテルをむせるところだった。

「はあ!? 何言ってんのよ! あたしがいつそんなこと言った!?」

 陽平は笑いながらグラスに口付けた。

「だって萩野、すげー優しい顔してたよ。やけに相手に詳しいし、よく見てんだなーって。それはもう好きじゃねーの?」

「別に好きじゃないわ。向こうが勝手に言ってくるだけ」

「じゃあ嫌い?」

「それは……」

 あたしは、梓のことが嫌いではないと思う。

 悔しいけど、陽平の言う通り、あの子に良いところがあることを知っているから。

 しかし、嫌いじゃないことがそのまま好きなことに繋がるわけではない。そして何より……。

「あたしは、女よ。女を好きになるとかありえない」

「人間どうなるかなんて誰にも分からないだろ」

「アンタたちはそうだったかもしれないけど、あたしは違うの」

 確かに梓といると、妹ができたみたいだと思うことはある。けどキスをしたいとか、それ以上のことをしたいとは、到底思えない。

 それだけが恋愛の全てではないけど、あたしにとっては重要な基準なのだ。

「それに、あの子にはあの子のことが好きだって言う男の子がいるのよ。その子を押しのけてまで選ばれる理由があたしにはないわ」

 自分を好きな人間よりも、好きにならない人間を選ぶのは愚かしいことだ。

 案外付き合ってしまえば、あたしのことなんか忘れてしまうかもしれない。

傷つく人間は、1人でも少ない方がいいに決まっている。

「本当に、そう思ってるのか?」

「……ええ」

「自惚れだと思われるだろうけどさ……今の萩野、あの頃と同じ顔してる。けっこう分かりやすかったよ」

「本当に自惚れね……」

「俺だって人並に嬉しかったんだよ」

「振ったくせに」

「それは……うん。許されないわな。だから俺に言う資格はないけど」

陽平は、あたしの顔を見ず、じっとグラスを見たまま、独り言のように言う。

「一度心に芽生えた気持ちは、そう簡単に消えないよ」

 それはあたしに向けた言葉であり、陽平自身に向けたものなのだろう。

 梓とのことに対する答えにはならない。しかしたった1つ断言できることがある。

「アンタってホント、かっこいいわね」

 高校生のあたしは、こいつを好きになって良かったのだ。


 

店を出ると、いつの間にか雨が降っていた。

来る時降っていなかったから、傘は持っていない。

「俺持ってるから、貸すよ」

 陽平は深緑色の傘を差し出す。

「いらないわ。返せないし」

「あ、そっか。じゃあ駅まで送ってく」

「元カノと相合傘とか、和泉くんが妬くわよ?」

「これぐらいで妬かねーよ」

 そう言って陽平が傘を開いた時だ。


「珠子……先輩……?」


梓がいた。

傘も差さずに立っているせいで、ふわふわの茶髪が、じっとりと重く濡れている。

「何、してるんですか……?」

 それはこっちのセリフだ。どうしてそんな格好で、泣きそうな顔であたしを見るの?

 梓の視線が、あたしの隣にいる陽平に移動する。

 梓は目を見開き、声を震わせて言った。

「どうして、先輩……」

 何かを誤解しているのは明らかだ。

「違うわ! 梓! 陽平、彼はただの同級生よ!」

 梓は聞こえていないのか、何も言わない。

 それでもあたしは言わなければならないと思った。

 言い訳でも何でもいい。ちゃんと言わないと、取り返しがつかなくなるような気がした。

「梓、あたしは……」

 しかし、あたしが言葉を紡ぐより先に、梓は踵を返して走り出した。

「梓! 待って!!」

 追いかけようとするあたしを、陽平が引き止める。

「萩野、ちょっと待て」

「何よ!? 早く追いかけないと見失っちゃうでしょ!」

「うん。だからほら、傘持ってけ」

 あたしは差し出された傘を奪うように受け取り、雨の中へと飛び出した。



 梓がどこへ向かっているのか、追い付いて何を言うべきなのかは分からない。

 ただ、冷たい雨に身体を打たれながら、こう思った。

梓が離れていくのが怖い。

 梓を手離したくない。

 梓を傷つけたくない。傷つけたのなら、ちゃんと謝りたい。

 

 あたしは、梓のことが好きだから。












 

 



 


 



 










 

 



 


 

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