第5話「お泊りと昔の話」

 初恋は幼馴染だった。

 幼稚園からずっと一緒のその子は、何でもできて、優しくて、みんなの人気者で、私の自慢だった。

 その子は、私の王子様だったのだ。

 けど、王子様はお姫様を選ばなかった。他に好きな人がいて、私は初めから、お姫様なんかじゃなかったのだ。

 私は泣く泣く、その子から離れる道を選んだ。寂しかったけど、一緒にいて寂しいよりはずっといい。

 そんな私に手を差し伸べてくれたのは、1つ上の先輩だった。初恋の子より落ち着いている大人っぽい人だった。

 私たちはお付き合いをするようになり、毎日二人きりでお弁当を食べて、お休みの日には一緒に出かけるなど、たくさんの幸せな思い出を作った。

 初恋の苦い記憶を拭い去るように、私は全身全霊で先輩に恋をした。このまま時が止まって、ずっと一緒にいられたらいい……そんな風に願って。

 しかし、今度は先輩が私から離れた。先輩が大学に進んで、会うことが減ると、先輩は私を忘れて、向こうで知り合った人と恋人になった。

 先輩を失った私は、心がぺちゃんこになって、もう何も信じられなくなった。

 高校を卒業してから、前よりもっとたくさんの人が私に「好きだ」と言うようになった。そのうちの一人とお付き合いしても、私は何も心が動かなかった。

 どうして、私は幸せになれないの?

 どうして、私は誰も好きになれないの?

 周りが恋の話に花を咲かせるたび、そんなことを考えた。

 物語の中は、幸せな恋に溢れていて、現実にも私を好きになってくれる人はたくさんいるのに、私はずっと独りぼっち。

 けど理由はちゃんと分かっているのだ。この世界は王子様とお姫様が惹かれ合うようにできていて、私が求めたのは王子様ではなかったから。


 お姫様に生まれた私が求めたのは、王子様ではなく、自分と同じお姫様だったのだ。


 それに気づいた瞬間、どう足掻いても私は世界の理から外れた。いくら自由を謳っても、自分がそう思えないのなら、不自由なことと変りはない。

 世界に抗ったって、擦り切れてボロボロになるだけ。

 だったら、もう求めなくていい。ひっそりと息を潜めて生きていればいい。

 そんな風に諦めた時だった。


 私の前に、貴女が現れた。



 ある日の昼休み、会社の自販機で飲み物を買いに行くと、黒髪のイケメンがやって来た。

「お疲れ様です……萩野先輩」

「斉藤くん……あ、自販機?」

「い、いえ。先輩、お先にどうぞ」

「そう。悪いわね」

 斉藤樹くんは、梓の同期だ。

 清涼感のある黒髪と、芸能人と言われても信じられるくらいの整った顔立ち。おそらく新卒どころか、社内一のイケメンだろう。

 あたしは年下はあまり好みじゃないけど、同期だったら確実に狙ってる。

 一方、斉藤くんはどうやらあたしのことが苦手らしい。表向きはにこやかに接してくれているが、態度に出ている。

 そういう態度に出やすいところは、やっぱり梓と同世代の若い男の子なんだなあと感じる。

「あ! 珠子先輩!」

 噂をすれば影というやつか。梓が主人に駆け寄る犬みたいに、パタパタと駆けて来た。

 しかし、斉藤くんを見ると、その顔からすっと笑顔が消えた。

「あれ? 斉藤くん……?」

 なんでいるの? と言いたげな顔だ。

 斉藤くんは若干ショックを受けたような顔をしたが、すぐに爽やかな笑みを浮かべた。

「お、お疲れ様。立花さん。飲み物でも奢ろうか? 俺も買うし」

「ううん。お構いなく。水筒持って来てるから」

「そっか……」

 梓は、斉藤くんの脇をするりと抜け、あたしの隣に身体を寄せた。

「珠子先輩♪ 一緒にお昼食べませんか? ちょっと相談したいことあるんです」

「えっ、うん。いいけど」

 斉藤くんを放っておいていいのだろうか。

 梓は気にする様子もなく、あたしの手を取った。

「やったあ! さ、行きましょう」

「ちょっと! そんな引っ張らなくても行くわよ!」


「斉藤くん、可哀想じゃない?」

 あれは確実に梓に気がある様子だった。

「別にいいんです。今は珠子さん以外とお付き合いする気、ありませんから」

 梓はツンケンと答えた。そこにいつもの天真爛漫さはない。どうやら梓は彼があまり好きではないらしい。

「彼、なかなかイケメンよ?」

 きっと凄くモテるに違いない。そんなモテ男に好かれているのに、もったいない話だと思う。

「まさか珠子さん、斉藤くんのこと好きなんですか⁉ ダメです! まだ1ヶ月も経ってないのに、浮気です!」

「違うわよ。客観的に見てって話」

「でも、斉藤くんが珠子さんを好きになっちゃうかもしれません」

「安心しなさい。彼、あたしのこと苦手みたいだから。あたしも4つ下は趣味じゃないかなあ」

「斉藤くんなんて、どうせすぐ年上の優しい男の人とか好きになっちゃうからダメです」

 そこまで言う必要はないと思うけど……。

 惚れた相手にここまで言われる斉藤くんに、同情を禁じえなかった。

 それにしても、梓はなぜそんなに斉藤くんを嫌うのだろう。

 彼は人柄も良く、仕事の飲み込みも良い。梓に言い寄ってはいるものも、けして強引な誘い方はしない。

 気持ちには応えられなくても、同僚として接する分にはいいんじゃないか。

「斉藤くん、ホントかわいそうね……」

「斉藤くんの話はもういいじゃないですか。それより、珠子さん。そろそろお泊りしませんか?」

「泊まり? どこに?」

「私の家です! 付き合って1ヶ月なので、そろそろ、次のステップに進みたいなって!」

「次って……変なことする気じゃないでしょうね⁉」

「ち、違います! ただのお家デートです! 映画とか見て、まったりしたいだけです!」

 あたしは梓の純粋さを侮っていた。

 いつの間にか、家に泊まる=そういうことだと思うようになっていた自分が恥ずかしい。

「珠子さんに、私のこともっと知って欲しいんです。ダメ……ですか?」

 梓は懇願するような目を向けて来た。上目遣いがなんともあざとく、あたしが男だったら、泊まるだけじゃ絶対済まないだろう。もっとも、あたし相手だからやっているのだろうけど。

「そ、そんな顔しないでよ。泊るくらいなら、何てことないわよ。明日から休みだし」

「本当ですか⁉ 嬉しいです!」

 こうして早速今日の夜、梓の家に行くことになった。



 梓の部屋は、予想通りというか、予想以上のファンシーさだった。

 ピンクのテーブルやカーペットに、少女漫画や小説の並んだ本棚。流石に天蓋はついていないけど、白とピンクのベッド。周りにはぬいぐるみがたくさん敷き詰められている。

 部屋の中は、心なしか桃のような甘い香りが漂っていて、まさに男が夢見る『女の子の部屋』という感じだ。

「ここで寝るのね……」

「何か言いました?」

「何でもないわよ」

 梓は分かっていなさそうだ。毎日こんなメルヘンな部屋で過ごしていれば、感覚も鈍るのだろう。

「ちょっと散らかってるかもしれませんけど、くつろいじゃってくださ~い」

 と言いながら、冷蔵庫に途中で買ってきた酒缶を詰めている姿は、部屋の雰囲気から浮いていて、どこか異様だった。

「あ、珠子さん。今からご飯用意しますから、先にお風呂入っちゃってください」

 確かにこのピンク空間でじっとしているより、シャワーでも浴びてすっきりした方が良さそうだ。

「シャンプーとか勝手に借りるわよ」

「おかまいなく~着替えも出しておきますね~」


 

 風呂場から戻ったあたしの目に飛び込んできたのは、ふわふわもこもこの寝間着だった。

「これ……何?」

「パジャマです~」

 それはなんとも可愛らしいピンクのフリフリパジャマだった。

 いや部屋の様子から、部屋儀くらいは想像できたけど!

 あたしにはこれを着る勇気はない!

「ふ、普通のやつは、ないの?」

「そんなにたくさんパジャマ持ってませんよ~」

「……ちょっと行って買ってくるわ」

「ええっ⁉ お金もったいないですよ!」

「こんなの着るより、ずーっとマシよ!」

「わ、分かりました! 違うの探しますから、行かないで~~~!」



 結局、梓の高校時代のジャージで落ち着いた。少し裾が足りないけど、あんな可愛いものよりいい。

 ちなみに梓はさっきあたしに出したやつを着ている。腹立つほど似合っている。

「珠子さん。たーんと食べてください」

 夕飯のメニューはオムライスだ。ご丁寧にケチャップで大きなハートマークが描かれている。

 あたしは敢えてハートには言及せず、スプーンを通した。口に入れると、卵のふんわりした食感が広がる。

 なかなか美味しいじゃない。

「アンタ、料理できるのね」

「大学からずっと一人暮らしですから。必要に迫られてです」

 そういえば昼食もよく弁当を持って来ている。社会人になったばかりだし、節約する必要もあるのだろう。

 それなのに、水族館とか食事やカラオケに誘って、けっこう無理をしているんじゃないか。

「珠子さんが気にすることじゃないですよ~」

「な、何も言ってないでしょ」

「分かりますよ。珠子さん、顔に出やすいですから」

「出やすくない! しょ、食事中くらいくだらないこと言ってないで、さっさと食べなさいよ! この後、映画見るんでしょ!」

「は~い」

 梓はまったく反省の色が見えない締まりのない顔で笑った。



 梓が選んだ映画は、少し昔に流行った少女漫画原作の実写映画だった。幼馴染の高校生同士が、惹かれ合っていくというごく普通のラブストーリー。

 映画のチョイスまで少女趣味なのかとか、女が好きでも男女のラブストーリーに興味があるんだとか、色々と言いたいことがあった。

 しかし、あたしの心を何より揺さぶったのは、この映画はあたしが高校生の頃、最初の彼氏と最初のデートで観た映画だったことだ。

 当時、この映画を観に行ったカップルは多い。あたしたちもそのうちの一組だったというわけだ。

 昔は画面に映る主人公の少女に、自分の気持ちを重ねていた。けど今はもうまるで別世界の出来事のように感じる。言葉も、景色も、何もかも遠い。

 あたしはどこまでも浅はかだったのだ。

 自分の気持ちに素直で、忠実で、まっすぐでいれば、好きな人と結ばれると信じ込んでいた。思い返すだけで頭が痛くなる。

 梓はどう感じているのだろう。

 ちらりと横を見ると、梓と目が合った。

「珠子さん、具合でも悪いんですか?」

 あたしはよほどしかめっ面をしていたのか、梓は心配そうに尋ねてきた。

「そういうわけじゃないわ。ただ、この年になると、こういう青春みたいなのが辛いのよ」

「あ~ちょっと分かります。10代って眩しいですよねえ」

「アンタの歳くらいで言われてもね……」

「私だって今年で23ですよ~?」

 そう言いながら、梓はプシュッと音を立て、チューハイの缶を開けた。

「だからこんな風にお酒も飲めるんですけどね。大人の特権です」

 まだ幼さの残る顔で、いたずらっぽく笑った。

「いくら酒が飲めようと、あたしからすればまだまだ子どもよ」

 そう返してやると、梓はムッとした。そういう顔するから子どもだっていうのに。



 映画が終わって、だいぶ酒の入ってきた頃。あたしはふと気になって聞いてみた。

「ねえ、梓。聞きたいことあるんだけど」

「珠子さんからなら何でもどうぞ!」

「アンタってさ、なんでたしのこと好きなの?」

 梓は目を丸くした。想定外の質問だったのだろう。なかなか言葉が出てこない。

 あたしは構わず続けた。

「ずっと気にはなってたんだけどね。あたし、アンタに何かしてやった覚えとかないからさ。好かれる理由もないと思うのよ」

 理由なんてたいそうなものじゃなくてもいい。一目惚れなんて世にそうないのだから、どんな些細なことであれ、何かきっかけがあるはずだ。

 梓は、先生に叱られている時みたいに、俯いて唇をきゅっと結んでいる。

「答えらんないなら無理に言わなくていいけどさ。泊ってやってるお礼に、教えてくれてもいいと思うわない?」

 いじめているみたいで居心地が悪くなってきた。でも、これくらい言わないと梓は秘密にするんじゃないかという気持ちがあった。

 告白されたあの日、あたしは酔っていたせいで自分のことを色々とぶちまけたのに、あたしは梓のことをあまり知らない。それはなんか不公平に感じるのだ。

「教えて。梓」

 梓はアルコールと、それから羞恥だろうか、真っ赤な顔を上げた。そしてすっと息を吸うと、何かを決意したようにはっきりと答えた。

「分かりました。珠子先輩がそう言うなら、お話します。少し長くなりますが、お付き合いください」

 あたしは黙って頷いた。



「私の初恋は、幼馴染の女の子でした。理恵ちゃんって言うんですけど、美人でかっこ良くて、クラスの人気者で、私の憧れでした」

 最初はただの憧れだった感情を恋と気づいたのは、小学校4年生くらいの時だと言う。梓は同級生と恋バナをしている時、いつも『理恵ちゃん』の顔を思い浮かべた。

 『理恵ちゃん』は梓の王子様だったのだ。

「でも理恵ちゃんにも、中学に上がってから好きな人ができました。隣の席の男の子です。名前は……えーと、覚えてないですね。とにかく、理恵ちゃんは毎日嬉しそうに、彼とどんなことがあったのか、私に話してくれました」

 しかし、『理恵ちゃん』の幸せを梓は喜べなかった。やがて二人が恋人になると、梓は自然と『理恵ちゃん』から距離を取り、高校も別々になった。

「寂しかったけど、理恵ちゃんの幸せそうな顔を見る方が辛かったですから……でも、高校で……あ、女子高なんですけど、新しい出会いがあったんです! 1コ上の先輩で、理恵ちゃんより大人しめの、でも勉強のできるとても素敵な人でした!」

 彼女と梓は恋人になった。梓曰く、女子高ではまあまああることらしい。

「もちろん、男の子に興味津々な子の方が多かったですけど、こっそり付き合うのも楽しかったです。先輩と私だけの秘密なんだなあと思うと、ワクワクしました」

 2人が過ごした甘い時間は嘘ではないのだろう。梓は懐かしそうな目で、しみじみと思い出を語る。

 しかし、すぐに悲しそうな表情に変わった。

「でも……先輩は、卒業して大学に入ると、すぐに男の人と付き合い始めました。高校のことは気の迷いみたいなもので、やっぱり男の人の方がいいんでしょうね。それから、連絡もありませんでした」

 先輩との別れを機に、梓は人を好きになることができなくなった。大学生になると、それまでにも増して異性から言い寄られることが増えたが、嫌悪感しかそこになかったと言う。

「一回だけ、同じサークルの男子と付き合いました。ちょっと女の子に夢見すぎな人でしたけど、良い人でした。でも、好きとか、一緒にいて安心するとかも全然なくて……」

 恋人間に必ずしも恋愛感情が必要なわけではない。しかし梓は、それ以前の感情すら持てなかったことが、苦しくてたまらなかったのだ。

「それで気づきました。私はたぶん同性しか好きになれないんです。もうびっくりですよ。自分が急に世界から放り出されたような気持でした」

 梓はもう1本、チューハイ缶を開けた。

 どこか冷めたような口調の独白はまだ続く。

「恋愛は自由なんて言われても、自分が窮屈に感じるのだから、自由じゃないのと一緒です」

 それは当事者でなければ分からない苦痛だろう。梓は周囲の人間と同じように恋に夢を見ることをやめ、呼吸を殺すように生きることにしたのだ。

「そんな風に諦めてしばらく、就活中のことでした。私は面接の帰りに喫茶店に寄ったんです。そしたら、後ろの席から怒鳴り声が聞こえました。びっくりして振り返ると、女の人が男の人に水掛けてたんですよ。たぶん別れ話だったんでしょうね。女の人はそのまま帰りました」

 梓が言うに、女はこう叫んでいたらしい。


『あたしがアンタと付き合っていた時間返しなさいよ!!!!』


 梓はそこでやっと笑った。

「帰り道で、笑いが止まりませんでしたよ。あんな漫画みたいなことする人、ホントにいるんだ~って。それから、こう思いました。私、怒ればよかったのかなあと」

 たとえば、幼馴染に想い人ができた時。

 たとえば、先輩に捨てられた時。

 自分の気持ちを素直にぶつけていれば、もっと違う未来があったかもしれない。それは必ずしも正しいことではないかもしれないけれど、梓は少し我慢しすぎていたのだ。

「それからは落ち込むたびにあの女の人のこと考えて、自分を励ましました。おかげで就職も卒業も無事決まりました」

 彼女は梓の理想だった。たとえ怒りであったとしても、感情をむき出しにすることができる彼女に、梓は憧れた。

「また会えたら……なんては、思っていませんでしたよ。でも、神様って凄いですね。就職した会社には、その人がいたんです」

 ここまで言われれば、もう聞かなくても分かる。


「それが、珠子さんだったんですよ」


 あれは確か去年の春先のことだった。

 あたしは合コンで知り合った彼氏に別れを告げられたのだ。どうしても忘れられない男がいるからと。

 あたしはカッとなってつい、そいつに水を掛けてやった。あんなに感情的になったのは久しぶりで、正直今まで忘れていたくらい最悪な日だった。

 まさかあの場に梓もいたなんて、偶然というものは恐ろしい。

「私、嬉しかったです。一方的でしたけど、憧れの人に再会できたんですもの。それから珠子さんのこと見るようになって、あの日……告白した日、勇気を出してお話してみようと思って、お誘いしたんですよ。告白は実は想定外だったんですけど……珠子さんの昔話聞いてたら、急に『この人が好き』って思って、つい言っちゃったんです」

 梓は恥ずかしそうに顔を赤らめた。照れたようなその笑みは、あたしの知るいつもの梓が戻ってきたようで、少し安心した。

「また誰かを好きになれるのが嬉しくて、幸せで、そして今度は何も言わないで我慢してるのはやめようって思ったんです。だって、珠子さんは自分の気持ちがちゃんと言える人だから、全力で向き合わないと失礼ですから」

 そして今に至るというわけだ。

 なんとまあ、あたしを困らせる暴走列車はあたしが間接的に生み出してしまっていたのである。

「……あんま納得いかないんだけど」

「そうですかね? 私は、運命感じましたよ?」

「アンタの人生に色々あったのは分かったけど、勝手に覚えられていたこっちの身にもなりなさいよ」

「すみません……でも、水掛けてる現場なんて、そうそう遭遇しませんよ」

「あれはあの時だけ! あたしはいつもそんな直情的な女じゃない!」

「分かってますよ~でも、仕事でもけっこうズバッと言うじゃないですか」

「仕事だからよ」

「そういう好きなんですよ」

 そう言って、梓はあたしの肩にもたれ掛かった。

「こら。重い」

「んー……ちょっと、眠いんです」

 いつの間にそんなに空けたのだろうか。テーブルの上にあったチューハイやビールはほとんど空になっていた。

 今の話をするのに、酒の力を借りていたのだろう。

「珠子さん……」

「何よ。寝るならあたしの布団敷いてからにしなさいよね」

 たぶん聞こえていない。梓は半分寝ながら譫言のように囁く。

「わたし、ほんとに感謝してるんです……好きになれて、幸せです……」

 梓の身体が、あたしの膝のあたりに倒れ込む。最後の力を振り絞るように、寝落ちる直前、梓は掠れた声で呟いた。

「珠子さんは……とられたくないなあ……」



 梓をベッドに寝かせて、1人静かな部屋で考える。

 あたしは立花梓を少し誤解していた。

 梓のまっすぐさ、感情の出やすさは、けして生まれつきのものではない。そこに至るまで、あたしには想像のつかない苦悩があったのだ。

 隣に並んで観たあの映画のような恋が、梓もしてみたいのだ。しかし、それだけなら普通の感情が、梓の『普通』ではなかった。ただそれだけの理由で、梓は諦めるしかなかったのだ。

 梓だけじゃない。あたしを振った男たちも、彼らの想い人も、たぶん一度は諦めたのだろう。

 あたしは今まで彼らの痛みを考えることはなかった。今さら考えてもどうしようもないことは分かっているけれど。

 あたしはきっと今、とんでもなく重いものを背負ってしまっている。

 あの最悪な日に救われたと言う女のために、あたしが出すべき答えは一体、何なのだろう。


 



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