第4話「名前、それからカラオケ」

 初デートから数日後のこと。

 帰宅後の電話で、梓が言った。

「あの、珠子先輩。お願いがあるんです」

「何? 内容によっては聞いてやってもいいわよ」

「あう……その……な、名前で呼んで欲しいんです」

「名前……?」

「名前の方が恋人っぽいなあって……も、もちろん会社では苗字で、先輩が嫌じゃなければですけど。ダメ、ですか?」

 梓は甘える子猫みたいな声で言う。以前も思ったが、電話越しでこの声を出されると弱い。耳元がくすぐったくてたまらなくなる。

「い、いいわよ。それくらい。減るものでもないし」

「いいんですか⁉」

「え、ええ。その代わり、アンタも会社の外では『先輩』なしね」

「む、無理ですよ~!」

「あたしがタダでお願い聞くわけないでしょ」

「で、でも……」

「じゃあ呼んでやらない」

「わわっ! 分かりました! 珠子……さん!」

「うん。上出来。梓」

 いつも振り回されてる仕返しが出来たようで、その日の夜は気分が良かった。


 梓と仮の恋人になってから、人から好意を向けられることは、とても気持ちが良いということに気づいた。

 しかも梓のそれは、他に類を見ないほど純粋で、まっすぐなものだ。たとえ同性と言ったって、向けられて嫌な気のする奴は、そういないだろう。

 嫌じゃないからこそ、困る。

 梓の気持ちに応えない自分が、まるで悪者のように感じてしまう。

 最初から覚悟はしていたつもりだけど、あたしにだって罪悪感くらいはあるのだ。

 それでもあたしは、梓の「本物恋人」になることはできない。あたしは梓のように、同性を好きになる気持ちを持っていないから。本当に、ただそれだけのこと。

 あの子は知らなくちゃいけない。世の中には、自分の気持ちをぶつけるだけでは、どうにもならないことがあるのだと。

 だからこれは梓のためで、あたしは悪くない。

 あたしは時間を十分与えた。その先で、あの子が傷ついても、あたしは悪くない。

 そんな風に言い訳めいたことを思いながら、仕事の帰りに食事をしたり、夜に電話したりと、恋人の1週間は過ぎていった。


いつも以上に疲れた日の帰り際、梓に呼び止められた。

「何? 今日は外食の気分じゃないから、夕飯ならまた今度……」

「先輩! カラオケ行きませんか?」

「は?」


 そういうわけでやって来たのは、駅近くのカラオケボックス。ドリンク付き2時間コース。

「カラオケなんて久しぶりです~」

 正直気乗りしないんだけど、奢りとまで言われたら、断るのは忍びなかった。

「しかも珠子先……さん! と二人きりだなんて、なんだかドキドキしちゃいますね」

「あたしはしないから! 変なことしたら承知しないからね!」

「しませんよ~珠子さんに嫌われたくないですもん」

「こ、この前みたいに手の甲にキスするのもナシよ」

「分かってますよ~」 

 梓はいつもの調子でへらへらと笑い、マイクを差し出した。

「とりあえず、思いっきり歌いましょう」


 店から出ると、思った以上に気持ちがスッキリしていた。やっぱり大きな声を出すことは、ストレス発散になるらしい。カラオケって偉大だ。

「楽しかったですね!」

「楽しかったかはともかく、気分転換にはなったわ。アンタもたまには良いこと言うのね。ありがと」

「えっ⁉ 珠子さんが、私にお礼を……⁉」

「失礼ね。あたしだってお礼くらい言うわよ」

「う、嬉しいです……」

 梓はそのぱっちりとした大きな目から、ぽろぽろと涙をこぼす。

 ていうか、泣くほどのこと⁉

「こんなとこで泣かないでよ! あたしがいじめたみたいじゃない!」

「だって嬉しいんです~~~!」

「とにかく、ここじゃ迷惑だから!」

 あたしは梓の手を引いて、人気のない公園に連れて行った。

 それからベンチに座らせて、小さい子どもみたいに泣きじゃくる梓を落ち着かせるのに、10分くらいかかった。

「まったく……せっかく良い気分で帰れると思ったのに、台無しよ」

「すみません……」

 もう涙は出ていないが、真っ赤に腫れた目はまだわずかに潤んでいる。

「珠子さん、今日疲れてるみたいだったから、元気出して欲しくて……そしたら、ちゃんと気分転換になったみたいなのが、嬉しくてつい……」

「だからって泣くことないでしょ。アンタは感情を表に出し過ぎなの。そんなことで、今までどうやって生きてきたの?」

 剥き出しのまま生きていけるのは、若いうちの特権だけど、一応社会人の先輩としてはハラハラする。

 梓はムッとして、顔を逸らした。

「こんなの、珠子さんにだけです。珠子さんと話してると、わーってなっちゃうんです」

「何それ」

「上手く言えないけど、全部伝えなきゃーって感じです」

「全然分かんない」

「とにかく大好きってことです」

「……そう」

 この時、はちみつを溶かしたみたいな甘い目をして言う梓を見て、あたしは確かに感じた。

 こんなにも簡単に『大好き』と言えるこの子が羨ましい、と。


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