第73話 とある昔話④

 幼稚園の話について、涼音はそれ以上「れん」を問い詰められなかった。訊いてはいけない気がしたし、たとえ訊いたところで答えてくれない気もしていた。本人は至っていつも通りに本を読んでいるだけだから調子が狂って仕方がないのだが、少なくとも、その時点でその先の進展は見込めなかった。

 だからといって、涼音が引き下がったかと言えばそうではない。むしろ、その話は彼女の好奇心をより深く刺激することになった。放っておくことなどできるわけがないホットエピックとして、どうやってでもその内実を知ってみたくなった。

 結果として、涼音が行きついたのが。


「あの子がどうして幼稚園を辞めちゃったのか?」


 学校から帰ってすぐ香月家にお邪魔すると、珍しく家事に追われず、リビングでくつろいでいる「れん」の母親がいた。涼音はまだ「れん」が帰りついていないのをいいことに、その疑問をダイレクトでぶつけたのだった。


「すずちゃんは幼稚園、好きだった?」


 質問を質問で返される。涼音にとって幼稚園とは友達が大勢いる遊び場であって、嫌うようなものではなかった。両親から離れる寂しさがあったのは確かだけれど、それも最初のうちだけで、数ヵ月もしたらまったく気にならなくなった。あまり気の進まない行事や、意地悪をしてくる男の子が嫌になったこともあったけれども、差し引きで言えば余裕のプラス。だから自信を持って、「はい」と頷いた。


「んー。だったら良いの。友達を作って、その友達とどうやって一緒に過ごしていくかを覚える。それが幼稚園の役割で、それを楽しめたんだったら、すごく幸せだもの」


 さらさらと、「れん」の母親の手が涼音の髪を梳く。涼音の両親は喜怒哀楽がはっきりしている人たちだから、イマイチ感情が読み取れない大人との接触は緊張した。だが、不思議と涼音は、「れん」の母親が嫌いではなかった。


「でも、あの子にとって、誰かと一緒になにかをするっていうのは思った以上に辛いことだったみたい。昔からそういう兆しはあったけど、幼稚園に行くようになったら熱を出したり蕁麻疹で全身真っ赤になったり、とてもじゃないけど見ていられなくて」

「…………?」

「あの子はたぶん、一人でいるのが性に合ってるんだと思う。それを無理やり人の輪に馴染ませようとするのは親としてちょっとどうなんだろうって考えて、辞めてもらうことにしたの」


 ところどころ知らない単語や表現が出現する影響で発言を完全に理解するとまではいかなかったが、露骨な子ども扱いをされないのがかえって心地よかった。「れん」の母親は、たとえ相手が自分の息子であっても近所の小学生であっても対等に誠実であろうとする人なのだろう。

 ただ、喉になにかがつかえるような違和感は残って。


「……じゃあ、どうして今は学校に行けてるの?」

「幼稚園を辞めたあと、あの子はしばらくおじいちゃんの家に預けてたの。おじいちゃんって言っても私のお父さんじゃなくて、あの子のお父さんのお父さんなんだけどね。。……そこで色々と教わったことがあるみたい」


 「れん」の母親が指を差す。その先にある写真立てに、いくつかの皺が顔に刻まれた老人と今よりもいくらか幼い「れん」とのツーショットが。


「私としては、小学校も無理して行かせるつもりはなくて。でも、あの子がきちんと通うって言うものだから。大丈夫かなと疑わなかったわけじゃないけど、自分の子どもの言い分くらい信じてあげられないで、母親は名乗れないでしょ?」


 現に「れん」は毎日規則的に登校し、一定の時間に帰宅している。学校を楽しんでいるかと問われれば怪しいが、取り立てて苦しんでいるかと言われればそうでもない。その姿は、ただ淡々と己の義務と向き合っているかのようだった。余計な感情がまるで介在することのない、機械的な作業に映った。

 未だに涼音には「れん」という人間のことがさっぱりわからない。なにが好きで、なにが嫌いなのか、まるで読み取れない。……けれど、時折見せる寂しそうな表情こそが、偽らざる「れん」の本心なのではないかという予感はあった。

 だが、それに深く突っ込んだところで望む回答は得られない。少なくとも今は。


「すずちゃんは、あの子のこと怖くない?」

「なんで?」

「ほとんどしゃべらないし、笑わないし、することといったら読書ばかりで。一緒に居て、苦しくならないかなって」

「うん、平気」

「そう」


 大人の大きな手が、涼音の髪の毛を柔らかく撫で付ける。涼音は目をぎゅっとつむってその感覚を受け入れてから、いま一度、遠くの写真立てを眺めることにした。棒立ちしている「れん」は相変わらずの無表情だが、どことなく祖父だという人物には気を許しているように見える。だからきっと、誰にでも心を閉ざしっぱなしということはないのだ。


「わたし、友達になりたいな」

「……ええ、よろしく」


 その歩み寄りが、「れん」の母にとってどれだけ心の救いになったかを、涼音は知らない。たとえきっかけがただの好奇心であろうとも、彼女は確かに、『香月蓮』という個人を取り巻く環境に突如として降り注いだ、希望の光であったのだ。

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