第72話 滔々
何事においても優先順位というものはある。放課後に友人と遊ぶ予定があろうが教師に呼び止められればそちらに向かうのが当然という価値観を多くの人々が共有している。これは学校という箱庭において、その肩書がある程度の権威を持つからに他ならない。だが、たとえば教師から物を盗めだの人を殺せだの言われたところでそれに従う人間はゼロに限りなく近いと思われる。これもまた同様に、僕らは法律というある種最高位に存在する権威に縋っているからだ。
たとえが大がかりになり過ぎたが、前述の事柄を矮小化させればこの場合においても説明がつくと考えている。要するに――
「悪いけど、そればかりはどうにもならない」
「どうして?」
「約束事は、前々からあるものの方を優先したいんだ」
約束よりも取り決めと呼んだ方が正確かもしれない。僕らの昔話をするのは双方の合意が得られたときに限定すると、いつだったか言葉を交わした。芦屋の願いとはいえ、それに悖るわけにはいかない。
「それを受けたうえでもう一度訊くけど……どうして?」
「いや、だから……」
芦屋にしては理解が遅いなと疑問に思ったところ、実際に理解が浅かったのは自分の方だと思い至る。そうだ。僕が秘するべきはあくまですずが視線恐怖症になるまでの経緯であって、それ以外の思い出話をどう扱うかは完全に個人の裁量。頭の動きが鈍っているせいか、質問の真意に気が付くまで時間を要した。
こちらの表情の動きからやっとこさ僕が理解したのを悟ったようで、微笑みをたたえながら芦屋は言った。
「話しても構わない範囲でまだ話していないこと、きっとあるでしょ?」
「…………ある」
あるけれど。
「……ただ、気乗りはしないな。かなり遡って痛々しい話をしなくちゃならないし」
前髪を片手でいじくり、うなだれる。積極的に広めたいと思えるようなエピソードは、僕の幼児期にほとんどない。
「今現在あんなにべったりな理由を知ろうと思ったら、どうしても必要じゃない。昔からあの調子なのか、そうでなければいつなのか」
べったり。べったりか。改めて言葉に表されると確かにそうで、ここ数年、すずは僕を頼りに辛うじて生きている感じがする。……けれど、それは実のところ、かなりねじ曲がった表面的理解で。
「逆なんだよ、むしろ」
「……逆?」
「逆。君どころか当人のすずまで勘違いしている気配があるから手に負えないんだけど、本当はなにもかもまったく逆なんだ」
すずはなにかにつけて僕を大恩ある相手のように扱ってくるけれど、そんなのはまるで事実ではない。少なくとも僕の視点において、僕がすずより優位に立ったことなんて一度たりともないのだ。無論、貸しを作ったことも恩を売ったこともない。それどころか、貸し借りで言えば依然、僕が大きく借りっぱなし。途中途中で少額の返済こそしたものの、元金が元金だけあって雪だるま式に膨れ上がった利息分すら返しきれていない。正直、完済など夢のまた夢だと思っている。
「恩義とか責任とか、そういうものの所在は実のところあやふやで、僕自身完全には把握しきれてなくて。だから説明しようとしたらどうしても要領を得ないものになると思う」
暗に問うた。それでも構わないかと。求めているものと提供されるものが合致する保証はないのだと。芦屋に義理を尽くすことがすずへの不義理に直結するおそれも、またその逆もある。言葉を選び、探り、どっちつかずな言い分を繰り返す可能性が高いことを示唆する。――ただ、およそ僕が知る限り、芦屋みやびはそういったことを意に介する人間ではなくて。
「訊くところから、でしょう」
「一理ある」
人物評に歪みはない。それに、歩み寄る意思を拒否するだけの材料は僕の手元にない。となれば、意を決する必要があるのだろうなと思う。だが、決したところでという懸念があるのも事実だった。果たして、それは正しい時間の使い方だろうか。切迫した状況にあって、のんびり昔話をするのは正しい判断と言えるだろうか。
「手詰まりのときに重要なのは、一度思考をフラットにすることだと思うの」
「……あれこれやって無駄骨になるのが一番こたえるからな」
言葉には自然と重みが乗った。それはまさしく、ここ最近の自分のことだったから。尚早な判断と行動が致命的な綻びを呼んでくるくらいなら、いっそ地蔵のように動かないでいた方がマシかもしれない。現状が、それに該当する可能性は十分ある。
尽くせる手なんか元からないのに、強引に作り出すから歯車が狂う。僕は、ひとまず冷静になるべきなのかもしれない。
「思考の整理に、記憶の開示はきっと役立つ。話す相手が壁か私か、その程度の差があるだけ」
「上手いこと丸め込まれてる気がする」
「丸め込んでるもの」
「……じゃあ、大人しく長いものに巻かれておくか」
腕を組み、背中を後ろに反らしてため息。思い出すと寒気がするから幼少期のことは基本的に考えないことにしているのだが、こうなっては仕方ない。
「幼稚園ってあるじゃん。託児と保育を両立させてる施設なんだけど」
「その説明は必要?」
「土台作りはしっかりしないといけないからなぁ。勘違い防止のために予め言っておくと、僕らが同じところに通っていて~って導入ではないし」
「ちがうんだ」
「ちがうね。これはどっちかと言うと、僕がどういう子どもだったかの話になるから」
長ったらしくだらだら喋ってもしかたない。だから、ここはインパクト重視で行くことにした。
「……どうにもあそこ、僕の肌に合わなくてさ。半年経たずに辞めたんだ」
「…………?!」
「幼稚園中退って、今思えばかなり攻めた経歴だよな」
リアクションには覚えがあった。当時、それを訊いたすずも似たような顔をしていたはずだ。それもそのはずで、普通、幼稚園とはなんらかの意図を持って辞める場所ではない。引っ越しなどに伴って場所を移すことはあるかもしれないが、それはそれで別所に転入という措置が取られるだろう。しかしながら、僕はそれから小学校に入学するまでの時間を宙ぶらりんで過ごしていた。今になって思えば、とんでもないことだ。
「肌に合わないって、つまりは?」
「山ほどの赤の他人と同じ部屋に閉じ込められてなにかを強制されるっていうのが、完全に無理だった。探せばどんな標本にだって協調性のない奴ってのはいるけど、ほんの一時、僕はその頂に立っていた気がする」
仕事で忙しい親の代わりに別の誰かが面倒を見る。業務形態自体は、そのときからわかっているつもりだった。だがそれを差し引いても、集団行動を強いられる気味の悪さと生理的嫌悪感からは逃れられず。数ヵ月必死に順応を試みてはみたものの、やはり無理なものは無理と悟って親に泣きつき逃げ出した。なんて手のかかる息子だろうか。
「でも、それだと学校は」
「なんで通えてると思う?」
「……花柳さん?」
軽く頷く。比較的自由度の高かった幼稚園にすら耐えきれなかった子どもが、それ以上の強固な拘束が発生する教育機関に溶け込めるわけがない。芦屋の疑問はもっともで、そしてそれは現実に起こったことだ。もう十年ほど前になるのかとまったくありがたみのない懐かしさを覚えつつも、言い訳を重ねるがごとく続きを紡ぐ。
「本当だったら僕は今頃、社会の大きな流れからドロップアウトしているはずの人間なんだよ。それをたまたま救ってもらって、こう」
制服の襟をぴらぴら引っ張る。小学校も中学校も、それから高校だって、自分一人ではおそらくどうにもならなかった。幸運にも差し伸べられた救いの手に乗じる形で、奇跡的に僕は学生をやれている。
その手というのを気まぐれに伸ばしてくれたのが、花柳涼音だった。
「偶然の産物。それが僕だ」
昼休み程度の時間では足りないことを薄々理解しながらも、僕はつらつら思い浮かんだことを言葉に起こし始めた。思い出補正で脚色されている可能性は、自分でも否定できないけれど。
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