第71話 とある昔話③

 歓迎はされずとも、咎められることもなかった。それをいいことに、涼音は時間があれば隣のお宅のとある部屋にお邪魔するようになっていった。小学生になりたての彼女にとって時間とは無限に等しいものであったから、つまりはほぼほぼ入り浸り。勉強机とシングルベッド、それから小さなテーブルだけが並ぶ殺風景な部屋は、彼女にとって第二の根城となりかけていた。

 無論、ある程度の環境整備はあった。共働きの両親が幼い我が子を一人で留守番させるのは心細く、それならばと「れん」の親が自宅を受け入れ先にした。そうなってくると、必然的に同年代どうしで触れ合う機会が増えるわけで。

 しかしながら、その触れ合いとやらが一般的なものかと問われれば首を横に振らざるを得ず。


「…………」


 涼音は自宅から持ち込んだクッションにぺたんと座りながら、無言で小説のページを繰る「れん」の横顔をぼうっと眺めた。同じ部屋にいるからといって二人そろってなにかして遊ぶということは皆無に近く、基本的にお互いが一人遊びをする中で、時たま会話が発生する程度。そして、話しかけるのはいつも決まって涼音の方だった。


「これ、あってるかな?」

「ん」


 当初は話しかけてもなかなか反応がなかったのが、度重なるチャレンジによって呼べば応えるくらいにはなった。とはいえ、それを大きな進歩と捉えるほど涼音の目標は低くない。

 ページの間に栞を挟んで腰かけていたベッドから立ち上がると、「れん」は涼音と同じ目線で彼女が持っていた小冊子を一瞥。数秒の後、「ここ」と一か所指を差した。


「……あ、ほんとだ」


 言われて見直すと、確かに繰り上がりの計算にミスがあった。涼音が持っているのは、両親から買い与えられた算数のドリル。無論、学校の授業ではまだ習っていない範囲の問題。これが解ける時点で涼音も十分大したものなはずなのだが、それを現段階で当たり前に理解している「れん」はなんなのだ。

 通っている小学校でのクラスがちがうせいで、「れん」が普段どんな扱いを受けているかはわからない。ただ、涼音と同じクラスの男子と言ったら声が大きかったり泣き虫だったりで、「れん」と似たような子は一人としていなかった。だとすると、さぞ珍しがられているにちがいない。クラスメイトにも、また、先生にも。

 

「ねえねえ」


 会話の頻度と、一度当たりに交わす情報量が多くなってきたのを感覚的に悟っていた涼音は、小さな体で一大決心。これまで触れずにいたパーソナルな話題をつつくことにした。


「幼稚園、どこだったの?」


 もしかしたら、出身を同じくする子が学校にいるかもしれない。クラス内での立ち位置も徐々に決まり始める頃合いに、これまで通りみんなの中心に立っていた涼音は、誰からか情報を訊き出せたら僥倖とばかりに問いかける。

 だが、返答の荒唐無稽さに、しばしの沈黙を強制されることとなる。


「辞めた。途中で」

「……………………?!?!?!?!」

「居心地、悪くて」


 なんでもないように言いながら、「れん」は再び読書に耽り始めた。涼音は視線をあちこち彷徨わせながらどういうことかと頭を捻るも、就学後間もない未発達な頭脳ではその不可解な話を受け入れることなど到底叶わず。


「やめた……んだ」


 少しずつ迫っているものだと思っていた「れん」の後ろ姿は、実際のところ思い込んでいただけの虚像。近付くどころか遥か向こうに遠のいていく感覚を、このとき涼音は覚えたのだった。

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