第59話 虚をついて

 体力と運動量ではもはや相手にならない。さっさと横になって休みたいと全細胞が訴えかけてきて、蓄積された乳酸が機敏な動きの枷になる。――しかし、それを理由に逃げることはしたくなかった。今日この瞬間は、久々に訪れた意地の張りどころなのだ。

 自チームの短いゴールキックから、竜也へとボールが渡った。パンパンに張った太ももを拳で殴りつけて奮起する。足の裏全体で地面を掴むようにして、一歩目から加速する。ほんの一瞬だけ新浜を置き去りにした僕を竜也が見逃すはずもなく、足元に正確なパスが飛んでくる。


「さあいこーか」


 声にも既に力はない。下手にべらべら喋ったら舌を噛みそうな危うさすらあって、これでは虚勢すら張れない。早い話が大ピンチで、勝ち目を探すところから無理難題だ。――だからどうした。うるせえ動け。理屈じゃないんだ、今だけは。


 重々しいフットワークでどうにか突破口を探しつつ、徐々に前線を押し上げる。団体競技を私物化して個人技の応酬にしてしまった責は、せめて勝利で引き受ける。視線をあちこち動かして、パスを出すと見せかけて寸止めしてみたり、わざと空振りして踵でボールをコントロールしてみたり、現役だった頃の得意技術をどうにか模倣しつつ、じりじりじりじりにじり寄る。


「あーーー……」


 投げやりに言葉をこぼした後で、自分の頬に浮かんだ笑みに気づいた。やはりどれだけ腐っても僕はこのスポーツが好きで、そして、一度覚えた自転車の乗り方を忘れないように、あの頃に身に着けた技術の類は、今でも無意識に引っ張り出せる。

 人や環境に恵まれたものだとすっかり信じ切っていたあの楽しい日々は、もう帰ってこないけれど。

 それでも、当時を知り、当時にしがみつき続けた僕は、今もこうして生きている。

 手段や方法は大いにまちがえた。成長した僕なら、当時の僕に有用なアドバイスの一つや二つも出せると思う。少なくとも、未熟なガキの暴走でコミュニティの崩壊に決定打を与えることはなかったはずだ。――いいや、どうだろうか。あの失敗体験を基盤に組み上がったのが今の僕なのだから、そう上手くもいかないか。


 ――ああ、なに考えてんだろうな、僕は。


 過去の清算だの、友人の汚名返上だのと大仰なお題目を掲げていたくせに、結局の終着点は利己主義だ。今はもう、自分のことしか頭にない。過去と現在の境界線がぼやけ、視界は滲み、一番大切なはずの足元がおざなりになっている。

 

「なあ新浜」

「…………」


 返事はない。しかし続ける。


「とっくの昔に辞めた分際で、なにを今更とは思うんだけど――楽しいな、これ」

「当然だ……!」


 つま先でスピンをかけ、足の甲でボールを浮かせる。その突飛な動きで警戒が薄れたところを体の捻りで強引に切り返し、ようやく僕が一歩前へ躍り出る。ただ、もう脚がまともに動かない。ここから一直線に駆けて行って単身ゴールを決めたら最高に格好がつくのだろうが、残念なことに、追い抜かした新浜に即座に横並びにされてしまった。

 こういう戯れの舞台にはふさわしくない本気のプレスをどうにかいなしつつ、僕は一瞬だけ、新浜の生きざまに憧れた。こんな具合で真っすぐ生きられたら、どれだけ幸せだろうかと思って。恥や外聞から完全に隔絶されたところで、あくまで自分の心のままにふるまう。一度でいいからやってみたくて、しかし僕の生まれつきの性質上、そんなのは無理なお話だ。後のことを考え過ぎて、後悔しないように後悔の種を潰そうと奔走する僕には、到底不可能だ。――なんて、彼を能天気なお気楽野郎のように語ったけれど、実際のところはそうでもないのだろうと思う。誰にだって悩みや葛藤はあって、それへのもっとも自分らしい対処法として、性格が構築されるのだ。他人の境遇を省みない一方的な憧憬は、侮辱と紙一重の場所にある。結局のところ、自分の生き方に付き合えるのは自分だけだ。


 けれど、そういうのを全て捨て置いて、今はただただ、楽しいなと思った。


 当時、この気持ちを持ち続けられていれば、少しだけ違う人生だったかもしれない。新浜と友人になっていた未来もあっただろうし、少しの期間だけならば、竜也と同じチームでプレーできた可能性もある。それらを全て摘み取ってしまったのは、たまらなく惜しい。――けれど、そんな道を辿った末の僕が、今こうして久方ぶりに、競い合う喜びを感じている。


 そんななに一つままならない不自由な人生に勢いよく中指を突き立てて、僕は走った。掛け値なく、建前もなく、ただひたすらに全力で。


 負けたくないって、負けられないって、自分発祥、自分由来の感情で、がむしゃらに。


「あー……くっそ」


 手に入れるには遅すぎて、思い出すには早すぎた。五年前なら軌道修正できていたはずで、二十年後なら子どもの頃のほろ苦い思い出として昇華できていたに違いない。よりにもよって手に入れるのが今かよと、運命のめぐり合わせ、ひいては裏で糸を引いているだろう神様にもおまけで中指を立てておいた。後悔だけが募っていって、僕は一体どこに辿り着く羽目になるのだろうか。――知るか馬鹿。誰も教えてくれないから、こんな不器用な生き方しかできてないんだろうが。


 疲労で息も絶え絶えに、感覚の鈍くなってきた脚は次第にもつれ始め、それでも本能的にボールだけは譲らないようにと必死に庇う。まるで格好がつかなくて、情けなくて、みっともない。こんな様子を衆目に晒しているのだと思うだけで、普通に死にたくなってくる。だからどうした、これが僕だと開き直れるほど図太い根性はなく、どうせまた終わった後でああでもないこうでもないと散々振り返る意味の薄い恒例作業に耽るのだろう。芦屋あたりはそういうのも含めて青春だと擁護してくれそうだし、すずはよく頑張ったとお世辞で言ってくれる気がする。――ならばせめて勝ちだけでもつかみ取って、憂いない環境の構築に努めなければなるまい。


 ゴールが近づく。よくもまあ、猛者相手にこれだけやりあえたものだと自分を褒める。あとはシュートを決めるだけなのだろうけれど、さすがにそうなるとここまでは空気を読んで近寄ってこなかった相手ディフェンス陣が黙っていないだろう。

 さあ、どう切り抜けようか――なんて、実はとっくに、こちらの勝利条件は整っているのだけれども。


「悪いな新浜」


 謝っておく。せめてもの礼儀にと、最後の仕上げよろしく昔必死に動画を観て覚えたマルセイユルーレットの真似事で、一歩前へ抜きん出る。

 勝利の定義など、最初から曖昧だ。特に僕に関してだけ言うのなら、試合の勝利が個人の勝利には直結しない。ある一定の条件を満了することで初めて、よくできましたと勝ち誇れるのだ。


 とどのつまり。


「しっかり狙えよ」


 虚をつかれた新浜が、ぎょっとして立ち止まった。当然だ。僕がゴールに向けて蹴り飛ばしたボールはいささか勢いに欠けていて、わざわざキーパーが出張らずともディフェンスだけで対処できる程度。周囲の誰もがミスショットだとため息をつく中で――僕の真意を察していたのはただの二名だけだった。


 一人は新浜。真横の彼は、呆れたようにボールの行方を視線で追って。


 そして、もう一人は。


 たっぷり温存してあった体力を贅沢に消費して、後方から猛然と疾走してきていた。


「……センタリング」


 新浜が小さく呟く。僕が「正解」と言うより早く、風と同化した竜也が、ボレーの要領でボールをゴールに蹴りこんだ。

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